三枚のお札 第二話

 それから月日が流れた。

 紅葉に彩られた山奥に、山姥の住む粗末な家があった。粗末とは言え、普通の人間たちの住むものと同じような造りをしており、のんびり住む分には何の不都合もなかった。

 山の日没は早い。特に秋の終わりともなると、あっという間に昼が終わる。この日も日が落ち、暗くなり始めた頃であった。

「しまったなあ」

 山姥は舌打ちした。

「夕食の調達をするのを忘れていたわい」

 暗くなると獲物も見つけづらくなる。狩りに行くなら日が沈んでからでは遅かった。

「……まあ今日はそこら辺で栗でも拾うか」

 一つ伸びをし、立ち上がって身支度を整える。拾った栗を入れるためのかごを持ち、玄関の扉を開ける。

「うわあ!」

 突然、目の前から甲高い叫び声が聞こえた。何事かと思い見てみると、そこには白衣はくえこしごろもを着た小僧が尻餅をついていた。年の頃は十歳くらいか。あどけない顔立ちだが、見ただけでわんぱくな子だと分かるほどに目が輝いていた。

「び、び、びっくりしたあ……なんか家があるなあと思ったけど、まさか本当に人が住んでいるなんて……」

 小僧は心臓が飛び出たかのような表情で山姥を凝視していた。だがもっと驚いたのは山姥の方である。そもそも領主が亡くなったあの一件以来、人間たちは自分を恐れてこの山に足を踏み入れようともしなかった。それなのに、まさかあの一件を起こした張本人が住む家に近づく人間がいようとは、思いもよらなかった。

 それにしても、この小僧は何者だ、と山姥は思った。自分から家の前に来たにも関わらず、山姥が扉を開けたらびっくりして腰を抜かすだなんて、自分勝手にも程がある。

「おい小僧、ここがどこか分かっているのか?」

 山姥は不快気に小僧を問い詰めた。

「はあ、婆様の家じゃないのか」

 ようやく立ち上がり、服についた汚れを手で払いながら、小僧はきょとんとした顔で答える。

「まあわしの家だが」

 山姥は、小僧が自分を見ても全然怖がらないことをいぶかしく思い、一つ確認してみることにした。

「では質問を変えよう。小僧、わしが誰か分かるか」

「分かんねえ」

 即答だった。全く、今時の若い奴はこの山に誰が住んでいるのかすら知らないのかと、少々不満になった。だったら教えてやるしかないと思った時、小僧が先に口を開いた。

「そんなことより婆様、おらを一晩ここに泊めてくれ!」

 いきなり小僧は、青々とした坊主頭を下げた。

「はあ? お前を泊めるだと?」

「おら、この山で栗をとっていたんだけど、いつの間にかあたりがこんなに暗くなっちまった。で、帰り道が分からなくなって困ってるんだ」

 小僧はガバッと顔を上げ、純粋な目で山姥を見据えた。ここで山姥は、小僧の背中に栗があふれんばかりに詰まっている籠があることに初めて気が付いた。これこそまさに、今の山姥が求めているものであった。

「頼む! この栗、婆様にも分けるから!」

 小僧はもう一度頭を下げる。これを見た山姥は、悪くない取引なのでは、と思った。一晩小僧を泊めることで、今から栗を拾いに行くという手間を省くことができる。山姥とて老婆の体、栗を拾うためにいちいちしゃがむのは腰にこたえるし、しないに越したことはない。それを踏まえれば、小僧の持ってきた栗を一緒に食べる方が良いかもしれない。そう山姥は考えた。

「分かった、分かった。じゃあお上がり」

 小僧は目を輝かせ、「やったあ!」と無邪気に飛び跳ねた。やれやれ、面倒な奴を入れてしまったかもしれぬ、と山姥は思った。



 囲炉裏いろりを挟んで、山姥と小僧が籠から栗を取り出し、思い思いに頬張る。小僧は食べるのに夢中なのか何もしやべらず、次から次へと栗を消費している。一方の山姥は、栗を口に含みながら、考え事をしていた。

 このように、誰かと一緒に飯を食ったのは、いつぶりなんだろう。

 少なくとも山姥がこの山奥に住み着いてからは、彼女はずっと一匹狼であった。皆から恐れられ、どんな時でも孤独を貫いてきた。

 ではここに来る前はどうだったか? 山姥は記憶を辿たどる。山の麓にある、住み慣れた前の家。そして一緒に食卓を囲んだ家族。何があっても自分を慕ってくれた息子。いつも家庭に笑顔をもたらしてくれた孫……。

 ふと、孫の顔が山姥の頭をよぎる。あの日、恩を忘れて自分を罵倒した、あの醜い笑顔。身の程を知らず「ババア」などと喜色満面に侮辱してきた、あの下劣な目つき。

 何かに、似ている。

 視線を小僧に向ける。いつの間にか籠にあった栗をほとんど平らげ、そのまま気持ち良さそうにぐっすりと眠っている。この綺麗きれいられた頭から、そのまま髪の毛を伸ばしたら。

 間違いない。我が孫である!

 特徴的な丸い頭のせいで気付くのが遅れたが、ここで幸せそうに寝ている小僧こそ、まさしく山姥の孫であった。この事実を知ってしまった山姥は、もういても立ってもいられなくなった。

 とうとう見つけたぞ、我が仇敵きゅうてき

 死よりも恐ろしい苦しみを味わわせてやる……!

 勢いそのままに山姥は台所へおもむき、包丁を手に取った。試しに近くの柱を切りつけ、その切れ味に不満を覚えると、砥石といしを取り出し、立ち所に包丁を研ぎ始めた。

 こいつだけはこの手で殺さねばならん。わしはこの日のためだけに、ここまで生き永らえてきたのだ。これだけ醜い姿になってまで、こうして生き延びたのだ!

 力を込め、がむしゃらに刃先を磨いていく。その度に家中に金属の擦れる音が響き渡る。それはまるで、山姥の怨念が包丁にこもり、うなり声を上げているかのようであった。

 山姥は脇目も振らず、一心不乱に包丁を磨く。日頃から手入れしていたのもあって、あっという間に片面を研ぎ終えた。

「この時を何年も待ったのだ。普通に殺すだけでは物足りぬ。……そうだな、まずは手足の爪を剥ぎ取り、その上で一本ずつ指を切り落とそう。その次は……」

 ここで山姥は、さすがに大きい音を出しすぎているかもしれないと思い、ふと小僧の方を見てみる。

 小僧と目が合った。寝ぼけまなこだが、体は震えていた。

 しまった。起きていたか。もう少し静かに研げば良かったかもしれぬ……山姥は冷静さを欠いた自分の衝動的な行動を後悔した。

 ……だが悔やんでいても仕方がない。恐らく今の独り言も全て聞かれてしまっただろう。包丁がまだ完璧な状態ではないが、やむを得ん。こうなったら。

「婆様。おら、小便がしたい」

 小僧の思わぬ言葉に山姥は少し固まる。

 小便? ということは、小便をしたいから震えているだけで、別に今のことは聞かれていなかったということか。

 それならば丁度良い。あと半分研げば包丁の準備が整う。かわやに行かせている間に研ぎ切って、小僧が帰って来たところで、地獄の処刑を始める。これで行こう。

 しかし、それでも山姥は不安だった。もし仮に、小僧がこれを聞いていたとしたら。「小便に行きたい」ということは逃げるための口実なのかもしれない。高々十歳の小僧ごときにそこまでの知恵が働くのか分からないが、念には念を、である。折角執念深く生き続けてきたのに、ここで小僧に逃げられては全てが水の泡だ。

「……分かった。ただな、このままでは行かせることはできぬ」

「どういうこと?」

「……この山の夜は恐ろしい生き物が出てくる。何かあったらいかんから、この縄をつけなさい」

「縄? なんで?」

「……お前が何かに襲われそうになったら、大声を出すが良い。そうしたら、わしがこの縄を引っ張って、お前を助けてやろう」

 もちろん、全部嘘である。小僧を逃がさないために、縛り付けることが目的である。

 小僧は納得いかないような表情をしながらも、「うーん、分かった」と、縄に巻かれることを了承した。

 山姥はなるべく小僧を強めに縛った。小僧がどう足掻あがいてもほどけないように。「婆様、少しきついよ」と小僧が不満を垂らしたが、「このくらい縛らないと、うまく引っ張れないのさ」と返した。

 なぁに、きついと言われるくらいに縛るのが丁度良いのだ。この際、最も怖いのは縄を解かれることなのだから。小僧の力ではビクともしない程度に巻きつければ良い。そう考え、これだけ縛ればさすがにもう大丈夫だろうと思ったところで、山姥は小僧を厠へ行かせた。

 小僧が外へ出たのを確認して、山姥は包丁研ぎの続きを始めた。いよいよ、我が念願が叶う。そう考えると、包丁を研ぐ皺だらけの手に、より一層力がこもった。

 もちろん、包丁を研ぐのに夢中になっていてはいけない。この包丁の餌食になる小僧が逃げていないことを、逐一確認する必要がある。少し経った後、山姥は手を止めた。

「おい、小僧、まだか」

 山姥は厠に向かって叫ぶ。すると、厠の方から返事が聞こえた。

「もうちょっと待って」

 その声を聞き、山姥は少し安心した。そのまま目線を包丁の方へ戻し、作業を続ける。

 さらに時間をかけ、ついに山姥は包丁のもう片面も充分に研ぎ終えた。そろそろ小僧が帰ってくると思ったが、これだけかかっても小僧はまだ戻ってこない。縄を少し引っ張り、小僧がつながっていることを確認しながら問いかける。

「小僧、まだなのか」

「まだまだ」

 妙に時間のかかる奴だと思いながら、砥石を元の場所にしまう。そして研いだ包丁の切っ先を念入りに確かめながら、なおも小僧の帰りを待ち続ける。それでも一向に厠から出てくる気配はない。

「小僧! 小便でそんなに時間がかかるのか!」

「小便が止まらねえんだ」

「そんなこと、あるものか!」

 山姥はとうとう我慢できず厠へ向かった。

「おい、小僧!」

 扉をガバッと開けた。

 そこに小僧はいなかった。

 おかしい。さっきまで声はしていたはずなのに。見ると、どう解いたのか知らないが、縄は柱に括りつけられている。

「どこに隠れた、小僧!」

 山姥は叫ぶ。すると、また返事が聞こえた。

「まだ小便が出るんだ」

 その声の出どころを見て、山姥は目を見開いた。驚いたことに、その声を発しているのは、なんと厠の柱であった。柱の一部が、あたかも人間の口のような形に変化して、しゃべっているのである。

「なんだこれは!」

 見間違いかと思い、目を擦る。しかし、次の瞬間、柱から生えた口はまた声を発した。

「婆様、もうちょっと待ってくれ」

 小僧と丸っきり同じ高さの声が、柱から聞こえた。つまり、信じ難いことだが、今まで返事をしていたのはこの柱だったのである。

「ということは」

 小僧にまんまと逃げられた!

 謀られた。素知らぬ顔をして、やはりあいつはわしから逃げようとしていたのだ。しかも、どうやったのかは知らないが、自分と同じように妖術を使えるらしい。これは予想以上に厄介である。両手で包んでいた獲物が、指の隙間からするりと抜けていくような感覚を覚えた。なんたる失態!

 しかし、冷静になって考えてみる。

 いくら逃げようとしたとて、ここは夜の山。いわば森の迷路である。初めてここに来た者がここを突破できるわけがない。地の利は山姥にある。今からでも追いかければ、間に合うはずなのだ。逃げたらもう一度捕まえれば良いだけのことである。

「小僧め、逃げ切れると思うなよ」

 山姥は勢いよく厠の扉を開け、外へ走り出す。その目には憎悪の炎が宿っていた。

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