三枚のお札 / 栃池 矢熊 作

名古屋市立大学文藝部

三枚のお札 第一話

 深い夜。

 鮮やかな紅葉に覆われた山も、夜になればその色を闇に吸収される。そんな山の麓には、一軒の家があった。

 満月の光が差すこの家で、家族三人が川の字になって寝ていた。その眠りは、いつもなら日が昇るまで覚めることのないものだった。が、この日は違った。

 暗闇の中、男が目を開け、二人の様子をうかがう。起きていないことを確かめると、布団から出て、立ち上がった。

 物音を立てないよう玄関まで歩き、草鞋わらじを履いて、慎重に扉を開ける。念の為もう一度振り返り、家の者が横になっていることを確認し、そして閉じる。

 男はこそこそと家の裏手へ回り、物置小屋へ向かう。夜風が衣服の隙間から入り込んできて寒い。探し物を求め、男は物置小屋の前まで来ると、深呼吸した後、扉をゆっくりと開け、中をのぞく。

 ない。

 いつも置いてある場所に、それは置かれていなかった。男が今朝確認した時にはあったはずだから、今日のうちになくなったということである。

 何故? 誰かが盗んだのか? 一体、何のために?

 男は不審に思い、探している物が本当にないかどうか、小屋の奥深くへ立ち入って確かめようとした。

 突然、ガサッと後ろから音が鳴った。

 男はさっと振り返り、身構える。

 腰の曲がった、背の低い一つの影。さっきまで家の中で寝ていたはずの年老いた母が、そこに立っていた。

「お前が探しているのはこれか?」

 そう言って、母が何かを男の目の前に置く。粗末な木材と縄でこしらえたそれは、背負子しょいこであった。

「どうしてそれを……」

 動揺する男を尻目に、母はその背負子に座った。

「さあ、好きにしなさい」

 穏やかで、なおかつ決心のこもった母の顔が、月明かりに照らされた。

「『この村の老人を、残らず山へ捨てよ』……全く、お殿様のおつしやることは分からないねえ」

 母は一つため息をき、首を振りながらも、柔らかい微笑みを絶やさずに話す。

「でも、良いさ。わしを捨てることで、お前たちが助かるのなら、喜んで捨てられよう」

 覚悟を決めた母の言葉が、男の心をさらに揺さぶってくる。その心の乱れに呼応するかのように、雲が月を覆い隠していく。あたりは段々暗くなり、母がどんな顔をしているのかも判別できなくなった。

「おや、暗くなったねえ……早速山へ出発しようかと思ったけど、これだけ暗いとお前の帰り道が分からなくなるだろう。わしだけでなく、お前も山から出られなくなったら大変だからね。出かけるのは明日の朝にしようか。なぁに、大丈夫さ。わしは逃げも隠れもしないから」

 そのままゆっくりと回れ右して戻っていく母に、男は何も言えず、ただその場に立ち尽くすだけだった。



 次の朝が来た。

 家族の別れを嘲笑うかのように、残忍なまでに雲一つない快晴。

 母に会える最後の機会だからということで、山には男の息子、つまり母にとっての孫も同行することになった。この子供はまだ七つで、やんちゃ盛りであった。

 その他に家族はいなかった。男の父親は、男が結婚する以前に病死していた。さらに男の妻も、子供が物心つく前に若くして事故で亡くなっていた。

 そしてこの日、息子と孫を見守ってきた母がいなくなる。しかも、単なる病や事故ではなく、領主の理不尽な命令によって。この世の不条理に、男はやるせない気持ちでいっぱいだった。

「まあ、ここまで来れば充分だろう。さあ、わしを置いて帰るが良い」

 ある程度の山奥まで来たところで、背負子に座っている母がうなずいた。背負子を背負っている男はしゃがみ込み、母をその場に下ろした。

「もう二度と会うこともないだろう。達者でな、お前たち」

 母は努めて笑って手を振る。男は我慢していたが、もう限界だった。大粒の涙が男の頬を伝う。それを見て、母も目頭が熱くなった。すすり泣きとともに、一家で過ごす最後の穏やかな時間が流れていった。

「ほら、お前も祖母ばあさんに挨拶しなさい」

 涙を拭いながら、男は背後できょとんとしていた自分の子供を母の前に立たせた。

「お前も、元気にするんだよ。本当は立派に成長した姿を見たかったけどねえ」

 母はしわだらけの手を、寝癖のついた子供の頭の上に置く。大切な宝物を磨くかのように、何度も何度も優しくで続けた。

 突然、子供はにんまりと笑った。

「おいババア」

 母の動きが止まった。

「おら、お前がいなくなってすごくうれしいんだ」

 悲しい空気にしないようにと笑顔を絶やさなかった母の顔が曇っていく。その反対に、子供の顔は晴れやかになっていく。

「お前みたいな自分勝手なババア、いない方が良いんだよ」

 場の空気を凍り付かせるような発言に、男の涙は枯れはて、子供を平手で叩いていた。

「お前! 祖母さんになんてことを言うんだ!」

 男は子供を叱りつけるが、なおも悪口はやまない。

「ざまを見ろ、ババア! お前なんかおらの祖母ちゃんじゃねえ! この人でなし、そのまま野垂れ死んでしまえ!」

 男は慌てて子供の口を強引に手で塞ぎ、そのまま母から遠ざけようと引っ張っていく。子供はまだ言い足りないのか、もごもごと抵抗するが、男のげんこつが子供の頭に飛んできて、押し黙った。それでも母の視界から外れるまで、男に引きられながらもずっと母をにらみ続けていた。やがて二人の姿は木々の奥へと消えていき、そのまま戻ってくることはなかった。

 母は悲しんだ。子供に実の母がいない今、母親代わりに子供を育てていたのは祖母たる彼女だったのである。それにも関わらず、別れ際に突き放された彼女の悲しみは、計り知れないものがあった。

 こんなに可愛がってきたのに、どうしてあのようなことを言われなければならないのか。

 母はその場にへたり込み、一日中嘆き悲しんだ。別れ際に流そうとしていた涙がどっと押し寄せ、とどまることを知らなかった。

 やがて夜になると涙は干上がり、その悲しみは憎しみへと変わった。そして、恩知らずの孫に復讐ふくしゅうすることを誓った。

 その後彼女がどうなったのかを知る者は誰もいない。



 それから間もなく、この山に山姥やまんばが現れたといううわさが流れ始めた。

 なんでも、その山姥は自然を操れるらしい。老いた家族を山に捨てに行った若者によると、その場に大きな砂山を出して、逃げようとするたぬきの動きを封じて捕らえたり、空に突風を起こして、飛んでいた鳥を強引に地上に落としたり、何もないところに火を発生させ、そうして得た獲物たちを焼いて食べたりしていたとのことである。

 老人を山へ捨てるよう命じた領主は、このことを不気味に思い、山姥退治のために山を攻めさせた。しかし、この出兵は多数の犠牲を出して失敗した。生き残った兵によれば、山を攻められた山姥は巨大化し、暴れまわって兵たちを蹴散らしたという次第であった。

 当然このまま終わるわけがない。次に領主は、山のふもとから火を放ち、山ごと焼き殺すという作戦に出た。

 しかし、これもうまくいかなかった。火がうまく回り始めた途端に、どこからともなく暗雲が立ち込め、たちまち山は大雨に見舞われた。その激しさに、あっという間に火は消えてしまったのである。そして火を消し終わったその雲は、領主の住む屋敷の上空に移動し、そこで雷を落とした。たちまち屋敷は炎に包まれ、領主は火事に巻き込まれ亡くなった。彼の後を継いだ新領主は、この山姥が起こしたであろう自然現象をひどく恐れ、あの山に手を出すことはなかった。こうしてこの地域に平和が戻ったのである。

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