第5話 まとめ

 以上これらの結論から冒頭の、「自転車こいでりゃ大体治る」に行きついてしまう。


だがその事は同時に、我々はどこまで行っても動物であり、動かなければ不具合が起きる生き物なのだという自覚が芽生えた。


今は技術が進み、色々と体を動かさずとも仕事が出来て、金さえあれば労せず食事にありつける。だが、その上で皆何か物足りないと感じているのではないだろうか。


それは実感であったり、達成感であったりするのだろう。日本にだけ居た私はそれが当然で、違和感だけを感じていたのだが、海外を放浪した時にその理由が一通り解った。


寝る場所や食事に頭を悩ませる日々は、ただそれを解決させるだけで随分と満足感があったのだ。結局、動物としての私は久方ぶりの原初の様な生活にいたく納得したのだろう。


なのでこのストレス対策は、本来の動物であった頃の生き方を、現代にだましだまし再現させて誤認させるという考えがコアになっている。


だが衣食住足りる今、衣食住だけに幸せを見出す事が難しくなった。本来はそれだけで幸せなのだが、人間満足すると行動する必要が無くなってしまうからなのか、色々と本能の外にあるものをかき集めて何とかしようとしている。それが今の社会ではないだろうか。


放浪中を思い出せば、今日はいい寝床見つけたなあ、ごはん作る時間ちゃんと取れたなあ、寝袋あったかいなあで十分であり、その気持ちは何度も味わった。


しかし今ではその放浪中の方が幸せであったと感じてしまう。死中に活を求めると言うが、これは生きる事その物を納得している状態は至上の幸せであるからではないかと私は考える。


人間はそのような状況を乗り越える事で、生きる事、生きている事を実感するのだろう。先人たちが追及したおかげで便利と安全がそこらへんに転がる日本の今、引き換えに我々は生きる実感を得る機会を失ってしまったのではないだろうか。


この実感はいくら金をかけても買える物では無い。だが、我々の選択一つでタダで転がっている物なのだ。


我々には根源的な飢えが必要だ。あれほど忌諱した物が、人間には必要だったのだ。だがそれを求めて無駄なリスクを取るのも愚かな行為であると、生物の本能が同時に言う。


なので我々は、生物として培ってきた機能をうまい事体面を含めて騙していく必要があるのではないか。少なくとも私はそれで体を治し、ずいぶんと生きやすくなった。




なお、結論の「自転車こいでりゃ大体治る」なのだが、これはそこらへんのママチャリで走りこむ場合大変苦痛である。走ってもつまらない上に体を痛め、とても続かないだろう。


私は一応、旅の研究の一環で旅用自転車の開発を念頭に、バラで部品を選び自ら自転車を組み立てて、ホイールも組み立てて、結果壊れず速く走れる自転車を完成させた経験がある。


その為にストレス対策としてどんな自転車のればいいの?という話が出るのであれば、そして読者が増えたのならそれはまた書かせていただく。


まあこの手の情報は沢山世の中に出ているからそっちの方がいいかもしれない。でも腰痛を治すポジションはたぶん書いてるの無いだろうなあ。

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心の傷の治し方 中立武〇 @tyuuritusya

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