第3話
ふわっと、コーヒーメーカーから湯気と芳醇な香りが広がった。
お気に入りの香りに包まれながら、自分のデスクにつき、届いたメールや今日の実験の予定を確認する。返信の必要なメールをさっと処理してしまい、新着の論文のざっと目を通す。
隼人は、SNSの隆盛によりオワコンと言われてしまうようになったRSSフィードのリーダーを愛用している。SNSに比べて、余分な情報が流れて来ないので、最新の論文をざっと確認するのに非常に便利なのだ。
気になったタイトルの論文を開いてアブストラクトを読み、後でじっくり読もうと思ったものをブックマークアプリに飛ばしていった。ちなみに、アブストラクトは、科学論文にほぼ必ずついている著者自身が書く要旨である。アブストラクトを読めば、この論文で何が発見・発明されたが分かるようになっている。
自分の専門分野に関わるものだけでも、読みきれない数の論文が報告され続けているので、アブストラクトしか読まれない、いや、アブストラクトさえ読まれないのが大半というのが実情である。一つの論文を書くのに数年から長ければ数十年の労力がかかっていることを考えると、なんとも言えない気持ちにはなるが、そこは割り切るしかない。
すべて読む時間もないし、全知全能の神になる必要はないのだ。などと考えながら、色味がかったままの記事をさっとスクロールして「全て既読にする」ボタンへと直行、灰色の影をつけてやった。
「おはよ、、ふわぁぁ。いい香りだねぇ」
ちょうどその時、眠気を隠しきていない、とろんとした声が後ろを通過した。
「結衣か、おっす、おはよ。昨日、新しい豆の袋開けて、入れたばかりだからな」
「そっか、私も入れてくる」
ふらふらとした足取りでコーヒーを入れにいき、コーヒーの香りとともに戻ってくる。マグカップには、コーヒーがなみなみ注がれているようだ。寝てるか起きているか微妙な状態でふらふらと歩いて、頭から湯気のたったコーヒーをかけられてはたまらんと最大限の警戒体制を敷くが、杞憂に終わって安堵の息をもらす。
「相変わらずだなぁ。昨日も、遅かったのか」
「うん、、まぁいつも通り」
結衣は、早朝がどうにも苦手なようだ。大概は眠気に襲われた面持ちをしているが、それでも彼女は毎朝九時前には研究室に足を運んでいる。そのため、彼女の生活パターンは一定のリズムを維持していると言えるだろう。昼過ぎまで現れない者や、昼と夜が逆転した生活を送る者が周囲には少なくないことを考えると、十分立派なことなのである。ん?九時は早朝じゃない?社会人失格?知らん。
「そういえば、昨日、リバイスのコメント返ってきたって、明良さんから聞いたよ。追加実験も必要なさそうで、あと少し文章直せばアクセプトされそうって。おめでとう」
「ん。ありがと」
結衣は、特段に感情の乗っていない声でさらっとお礼を言った。
「眠たいからではないだよなぁ」と聞こえないくらいの小さい声で思わず漏らしてしまう。結衣にとっては、もはや、それほど、よろこぶべきことでもないのだろう。
「ん?なんかいった?」
「いや、独り言。そういえば、そろそろKSOM培地のストックなくなりそうだったから、時間ある時によろしく。次は、結衣の当番だったよな?」
「うーん、そうだと思う。前回どれくらい作ったんだっけ?」
「500mLだったかな。あと、大輝と美咲にも作り方見せてあげてくれ」
「りょーかい」
佐藤研究室では、当番制にして何人かで共通の試薬作成を分担している。生命科学の実験は、職人芸的な面も大きい。技術を安定させることはもちろん、試薬も一定の質を保って作成しておかなければすぐに実験結果が狂ってしまうのだ。場所を移って水が変わると、実験が上手くいかなくなる、といった冗談のような本当の話もある。
そんなこんなで、朝のデスクワークを終えた隼人は、今日の予定を再度確認し実験に移った。
「まずは、昨日のPCRがきちんとかかっているか確認して、その間に、washを3回済ませてから二次抗体入れて、その後に、PCR産物を制限酵素カットまでもっていって、大腸菌触る前に細胞培養終えておきたいから、培養交換して、、、」
頭の中で、それぞれの実験を効率的に進められるように、パズルを組み立ててながら作業に入る。料理みたいなものだよなぁと思いながら手を動かしてく。
そういえば、学部時代の研究室見学で「君、料理はする?」と質問する先生がいたことを思い出す。何気ない会話の一環だと思っていたけど、実験得意になりそうかを判断する一つの材料にしていたのかもしれない。そんなことを考えながら実験を進めていった。
科学の灯 @biosci
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