第2話
今日の実験を電子ノートに記録し、少し論文を読んだ後に、外に出る頃には、長針が短針を少し追い越していた。実験を終えるのに十時前までかかるというのもあるが、隼人は、いつもこれくらいの時間に帰宅している。割引シールの貼られたお惣菜を目当てにして、帰り際に閉店前のスーパーに寄るためである。研究奨励金をもらっていて、食べるものに困るほどではないものの、それほど贅沢な生活できる額ではない。節約は必須なのだ。
「今日は、なかなかの豊作」
今日の戦利品は、半額になったコロッケと、なんと七割引になったお刺身である。ご飯は炊いて冷凍してあるので、今日は刺身ご飯にしようと思いながら帰路につく。半額シールの貼られたお寿司も売っていたが、刺身ご飯の方が個人的に好みなのだ。同時に食べれば、同じだという奴が信じられない。
立夏の心地よい夜風や虫の鳴き声を感じながら、十分程度歩いて下宿先の学生寮に着く。研究所と下宿先は、徒歩15分程度の距離なので、運動不足にもならないように歩いて通っている。
このあたりは、大学や研究所の集まった学園都市になっているためか、生活費に余裕のない学生たちのに安く提供されている学生寮も多い。隼人が住んでいる寮は、八人ほどでキッチンやお風呂などの水回りを共用する形になっていて、研究大学や研究所のみならず、芸術大学や専門学校に通っている学生も住んでいる。年齢が近いこともあってか、一緒に食事をするほど仲の良いやつもいる。水回りが共用となっている物件は敬遠されがちであるが、案外と気にいっていた。
「松本か、今帰ったのか」
「あぁ、今日の戦利品は刺身だ」
「それはいいなぁ、俺も買いに行くか」
「あんまり、残ってなかったから、行くなら急いだ方がいいぞ」
「まじか、すぐ買いに行くわ。サンキュー」
帰宅時にキッチンで会った小鳥遊龍之介は、財布を取りに戻って、そのまますぐに出かけていった。「タカナシ」と呼ぶのだが、鷹がなければ小鳥も安心して遊べる、という連想ゲームみたいな珍しい名字である。初めて会った時は、そんな洒落た名前で芸術大学に通っているなんて、すごく風流なやつだなぁと思ったものだ。確か年齢は近かったはずで、いつの間にかタメ口で話すようになっていた。
「さて、行くか」
隼人は、スーパーで手に入れた戦利品を冷蔵庫に入れ、自分の部屋にあるバスケットボールを持って出かける。ちょっとした習慣みたいなものである。寮の近くにストリートのバスケットコートがあり、そこへシューティングに出かけるのだ。毎日行く訳ではないが、こういう気分の日は、大概、帰ってすぐにコートに向かう。バスケットボール部に所属していた高校生の頃から、ひたすら無心でゴールに向かってシュートするのが一番落ちつくのだ。
「あっ、これは入る」
指先からボールが離れる瞬間に分かる。曲げた膝に溜まったエネルギーが全身を通して指先に伝わり、綺麗なバックスピーンがボールにかかる。綺麗なアーチを描いて、ゴールに向かったボールはどこにも触れることなく、ネットの内側にあたり、独特な「パシュ」という音を奏でた。バックスピーンのかかったボールはゴールネットの奥側を引っ掛けて、ひっくり返す。そして、ゴールネットを通過した後もバックスピーンが残ったままのボールは、地面について、まるで魔法でもかかったかのように隼人のもとに戻ってくる。そして、戻ってきたボールの高さは、膝を曲げてキャッチするのに絶妙な高さで、そのまま、シュートモーションに入る。ゴールがすごく近くに感じる。今度は打つ前に絶対入ると分かる。この心地よい集中状態は瞑想みたいなものなのだ。とても気分がよい。
「ふぅ、帰って夜ご飯にするか」
十分ほどボールと戯れて、すっきりとした隼人は、バスケットコートを後にして、楽しみにしていた刺身ごはんにありつく。ちなみに、コロッケは明日の昼ごはんにする予定である。
さて、そもそも何故、隼人は気分転換が必要な心境にあったのか。研究室メンバーの藤沢結衣である。残念ながら?恋愛的な話ではない。彼女がメインとなって進めていた研究プロジェクトの成果をまとめた論文が、実質受理されるという旨のメールが今日届いたらしいのだ。それも超一流の学会誌にである。まだ、正式な受理ではないものの、簡単な追加実験と軽微な改訂を行えば掲載されるという内容であった。同期の論文が受理されそうなのだから非常に喜ばしいところで、妬ましくなど思ってはいない。いや、嫉妬していることは否定できない。結衣は、博士過程から佐藤研究室に加わったため、まだ1年と少し経ったばかりである。一方で、隼人は、修士課程からであるため、3年は今の研究プロジェクトを続けていた
自分には才能がないんじゃないか、そんな不安を押し込めながら、隼人は床についた。
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