科学の灯
@biosci
第1話
大量の細胞培養皿がそこには積み上げられていた。一つ一つ顕微鏡で丁寧に観察して、記録を取った後、いっぱいまで増殖していた培養皿から細胞を剥離する。剥離された細胞を含む懸濁液をコニカルチューブへと移した後、細胞と不要な液を分ける遠心分離にかける。標準的な実験プロトコール通り、重力の二百倍程度の力がかかる遠心スピードである。こんなスピードで人間が回されたら一溜りもないだろうな、とどうでもいい事を考えながら細胞を労いつつ、遠心分離が終わるのを待つ。不要な上積みを、古くなって掃除機みたいな音がするアスピレーターを使って吸い上げ、「アンパンマン、新しい顔よ」とつぶやきながら新しい培地を加えていく。細胞の懸濁液が入ったチューブは見分けがつかないなので、遠心分離前につけておいたラベルを頼りに、明日以降の実験のために新しい培養皿へと撒いていく。今日も今日とて地道な実験の繰り返しである。
五月の中旬、湿度も温度もほどよく、日本で最も過ごしやすいこの時期にも関わらず、関西某所にある発生工学研究所は夜九時になっても窓から明かりが漏れていた。その一角にある研究室では、やたらめったらボタンの多いコーヒーメーカマシーンから湯気が上がっている。
「ふぅ、これで今日の作業は終了と」
博士課程の二年生で発生工学研究所に属している松本隼人は、細胞のお世話を終えて、お気に入りのブルーマウンテンで一服していた。
「こんな時間に、カフェイン摂取するなよ。睡眠の質が下がるぞ。カフェインの摂取は午後3時までだ」
同じ研究所の同じ研究室に所属する、博士研究員の木下蓮に釘を刺される。博士研究員、いわゆるポスドクは、博士課程を終えた後に独立した研究としてラボを運営するまでのトレーニング期間にあたるものだ。なので、拓海は隼人の先輩のような立ち入りになる。
「僕は飲んでも寝れる体質なので、大丈夫なんですよ」
隼人は、せっかくの、実験後の憩いのひと時に水を差されて、投げやりな口調で返答する。
「おっ、隼人、今日の実験は終わったのか。お疲れさん」
先に実験を終えて、データ整理をしていた渡辺拓海が同じく湯気のたったマグカップを持ちながら、会話に加わる。
「お疲れさまです、拓海さん。何飲んでるんですか?」
「ん?ココアだよ」
「ほれ見ろ、分かってるやつはこんな時間にカフェインとらないんだよ」
「ココアだってカフェイン入ってますけどね?」
拓海は、博士課程の三年生で、隼人の一年先輩にあたる。彼女からもらったらしい、かわいいキャラクターが描かれたマグカップを大事に使っていて、シュッとして眼鏡をかけた理系男子という見た目にややギャップを感じる。
「明良さんと、、、結衣は、もう帰ったんですか?」
佐藤明良は、隼人や結衣が所属する研究室を主催する主任研究員Principal investigatorである。ちなみに、明良は先生と呼ばれることを嫌っており、敬称をつけるなら博士にしてくれと言っていたらしい。ただ、人前で自分のボスを博士と呼ぶことに違和感を覚えた歴代の先輩方が、さん付けで呼ぶようになり、そのまま現在に至っている。かなりフランクな人柄である。最近は、海外の研究者との遠隔でのビデオ会議も多く、日本語と英語で呼び分けるのが面倒だということで、研究室のメンバーを全員ファーストネームで呼んでいる。その影響で、研究室のメンバー同士も全員ファーストネームで呼びあっており、他の研究室から仲がいいチームだねぇと言わてしまってなんだか心地が悪い。いや、別に仲が悪い訳ではないのだが。
名前の挙がったもう一人の人物である、藤沢結衣は、隼人の同期で博士課程の2年生の凜とした女性である。修士の頃から明良研究室に所属する隼人とは違って、博士課程に進学する際に他大学からこの発生科学研究所に移ってきて、新たなテーマを立ち上げて、研究に取り組んでいる。
「明良さんは、八時頃に帰ったんじゃないかな。結衣は、多分、動物室にこもってマイクロインジェクションしてるんじゃないかな。」
マイクロインジェクションは、手術ロボットのようなマイクロマニピュレーターという機械を使って、DNAやRNAの溶液を細胞内や組織に注入する非常に高度で熟練を要する技術である。明良研究室は、マイクロマニピュレーターで100μmほどの直径しかない卵や初期胚を扱う技術や設備が揃っており、隼人や拓海も日常的に行う実験の一つである。
「そうですか、、、」
「あんまり、無理しすぎないといいのだけれど」
そのまま、なんとなく会話は終了し、それぞれ自分のデスクに付いてデータを整理したり、論文を読んだりし始める。研究所でよく見るような光景だった。
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