泥の舟
犀川 よう
泥の船
恋愛において、それがどんな泥船だとわかっていても、悔いのない地獄への航海を望むことがある。私の惨めな恋はすでに沈没をしている。許されないことは頭で理解していても、感情は破滅という負け犬をまだ飼い続けようとしている。――人は未来を見ないことで幸せになれることもある――。彼のそんな一言を信じてしまった私に、罰が下るのは当然のことであった。彼の奥さんの鬼の形相を見るまでは、私は夢の中に生きていた。彼というご主人に従う忠犬のように尻尾を振って悦びを表しては、自分の魂を泥の舟に捧げて海に沈めていったのだ。友人たちに愚かだと笑われていようとも、私は振り向きもしないで無謬の愛を囀る。彼はそれも是としてささやかな報酬を私にくれる。そんな稚拙で無邪気な偽物の愛は、二人だけが知らなかった泥の舟という、現実の地図を無視して航海をした難破船でしかなかった。
別れを予感できる出会いというものは、大抵が汚い誘惑の毒牙を持っている。彼の卑しい言葉から始まり。嫌らしい誘いが続くと、愚かな同意をしてしまう。私は彼が結婚していることは知っていた。だけど、その左手の楔を見ることで、禁じられた快楽への扉を開こうという気持ちになった。――どうせ最初から終わりが見えているのなら、二人で冷たい海の底へと沈んでいこうではないか――。私はそう思うことで、一筋の光明を見出してしまった。最高の船出は泥の舟でも可能だと幻影を見てしまったのだ。困難という海水が泥の舟に入ってきても、掻き出し続ければいい。そんなどこからやってきたのわかならい、希望という地図と愛の羅針盤を手にした私たちは、常識という
彼を好きなのか? 母の張り裂けそうな胸の内が漏れ出した涙を見たとき、私は思わず歓喜によって笑みが漏れてしまった。人を心配させるくらいの恋愛をしていることに酔っていたからだ。私は母の悲痛な表情を見ながら、「私ね、泥の舟に乗っているの。だから、何も心配しないで。母さんを悲しませる前に、海の底へと沈んでいくのだから、何も心配しないでいいのよ」と囁いた。母は後の奥さんがしたような鬼の顔を見せながらも、目には沢山の痛みの水を流して、私の帰港を促した。
泥の舟は二人乗りなはずだった。だけど、真っ赤な海の真ん中に来ているのに、彼は常識への帰港と下船を望んだ。私は怒りと絶望でどうになかなりそうだった。私は彼に問う。「死にたくないの?」と。彼は腹の底をあっさりと見せてきた。「死にたくない」と。その情けない表情に、私の生涯を賭けて狂った愛は座礁をしてしまった。そんな中途半端な覚悟でこのくだらない愛は霧の中に消えてしまえると思っている彼に、私は幻滅をしながら、泥の舟を内側から壊した。たった一撃で泥の舟はただの泥となり、私たちは厳冬の海へと投げ出される。私は彼の溺れていく様を見ながら、遭難信号を奥さんに送る。「あなたの夫が溺死しますよ」と。そして私は、この泥の舟に乗り込んだことを自らの誇りにする為に、虚飾の日々を懐かしみながら、彼を抱きしめて、永劫の深い眠りへと誘うのであった。
泥の舟 犀川 よう @eowpihrfoiw
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