俺の過去をほじくり返す突然の訪問者

春風秋雄

俺はどこまで話せばいいのだ?

老後の余生を独りで暮らすつもりで借りている6畳一間のボロアパート。そんなボロアパートに相応しくない、スーツ姿の青年が目の前に座っている。年は20歳を過ぎたばかりだろうか。社会人になりたてと言った感じがする。俺は目の前にいる青年に、どこまで話して良いのか迷っていた。この青年は、どこまで知りたがっているのだろう。俺が迷っていると、青年が言った。

「まずは、出会いから教えてもらえますか?」

「出会いですか?」

「ええ、まずはそこから」


麻里子ちゃん、本名谷口麻里子さんと出会ったのは忘れもしない1992年、もう32年も前のことだ。俺は厄年真っ只中の42歳だった。20代の終わりに立ち上げた会社がバブル景気に乗って、不動産投資と株投資で、相当な利益をあげていた。ところが、国の政策によって、公定歩合が引き上げられ、不動産投資目的の融資には総量規制がなされたため、投資目的に購入しておいた不動産が売れなくなってしまった。とどめを刺したのは、経済紙に著名なエコノミストたちが「このままでは戦後最大の不況になる」とコメントを出したことによる、株価暴落だ。うちの会社が保有している株式は、購入したときの半値近くまで暴落した。世に言う『バブル崩壊』が俺の会社を瀕死の状況に追い込んだのだ。銀行からは担保割れしていることから、追加担保を求められる。そんなものはないと言えば、現状の担保に見合う金額になるよう、不足分を返済してくれと迫ってきた。いわゆる貸しはがしが始まったのだ。客観的に見て、俺の会社は事実上の経営破綻状態だった。しかし、この時はまだバブルに浮かれた連中は、いつまでも夢を見続けていた。今はそうでも、何年か経てば、また景気が良くなるさと、お金を使いまくっていた。俺もその一人だろう。銀行からはやいのやいのと言われながらも、毎日のように飲み歩いていた。そんなときに、取引先の社長に連れられて入ったバーに麻里子がいた。年はそれほど若くなく、30代半ばといった感じだが、とにかく美人だった。俺はひと目で気に入ってしまった。バブル気分が抜けていない俺たちは、遊び方も派手だった。高いワインやシャンパンをおろし、女の子にチップを惜しみなく渡していた。俺はその店が気に入り、その社長と飲むときはもちろんだが、俺ひとりでもその店に行くようになった。週に3回は行っていただろう。俺が店に行くと、必ず麻里子ちゃんがついてくれた。他の席に着いている時は、わざわざ俺の席に呼んでもらった。麻里子ちゃんも俺のことが気に入ってくれたようで、行けば嬉しそうにしてくれた。


「そうですか、谷口麻里子は水商売をしていて、藤代さんはその店のお客さんとして知り合ったのですね」

「まあ、そういうことだ。それより武林さん、そろそろ聞かせてくれないか。どうして谷口麻里子のことを聞きたいのだ?君の名刺には出版社の編集部と書かれているけど、これは何かの取材なのか?」

いきなり俺のところへ来て、谷口麻里子のことを聞かせてくれと言ってきた目の前の青年が差し出した名刺には、俺でも知っている大手出版社の編集部という肩書で、武林蒼汰と書かれていた。

「申し訳ありません。取材であることは間違いないのですが、まだ企画段階で、何のための取材であるかは、明かせないのです。それに、藤代さんのお話次第では、企画の内容が大きく変わる可能性もありますので」

俺は、釈然としなかった。

「麻里子さんは、俺に取材するように依頼したということだが、一度本人に確認させてもらうわけにはいかないのか?」

「申し訳ありません。谷口麻里子は現在入院中でして、人と話せるような状態ではないのです」

「かなり悪いのか?」

「病状についてはプライバシーの問題もありますので、私の口からは申しあげるわけにはいきません」

麻里子は病気なのか。もう30年以上会っていないとはいえ、麻里子の話をしているうちに、あの頃の感情が蘇って来ていた俺は、心配になってきた。

「谷口麻里子と出会った時、藤代さんは結婚していらっしゃったんですよね?」

「ああ、嫁さんと高校生の娘がいた」

「家族がいるのに、夜な夜な遊んで、奥さんを裏切っているという自覚はなかったのですか?」

「当時は、日々の仕事に追われて、お金は充分すぎるほど家に入れているのだから、好きに遊ばせてよっていう、身勝手な気持ちだったな」

「奥さんと離婚されたのは、谷口麻里子との関係がバレたからなのですか?」

「いや、妻には最後までバレていなかったと思う。それより会社が倒産して、破産に追い込まれ、住む家がなくなったからというのが実際のところだ」

「じゃあ、話を戻して、藤代さんと谷口麻里子が深い関係になった経緯を教えていただけますか?」

「そんな込み入ったところまで話して、麻里子は怒らないか?」

「話せる範囲で結構です」

そう言われて、俺は話す気になった。この年になるまで、あの頃のことを誰かに話す機会はいままでなかった。そして、これからもないだろう。俺の人生の大切な1ページを、誰かに話しておきたいという気持ちがあった。


初めて麻里子の店に行ったとき、麻里子には名刺を渡しておいた。2週間も通うと、麻里子から会社に電話がかかってくるようになった。

「由紀さん、今日も来てくれますか?」

俺の名前は藤代由紀夫なので、夜の店ではどこに行っても「由紀さん」と言われている。

「ああ、行くつもりだ」

「お店の前に、一緒に食事をするのは無理ですか?」

「どうした?同伴のノルマでもあるのか?」

「ごめんなさい。無理にとは言いませんので」

「申し訳ない、早い時間は無理なんだ。店が終わってから食事に行こう」

「ありがとうございます。じゃあ、お待ちしています」

その日、俺は初めて麻里子と店外で食事をした。西麻布の寿司屋だった。

「麻里子ちゃんは、本当はいまいくつなの?」

麻里子はジッと俺の顔を見て、迷ったすえに言った。

「36歳です」

「結婚はしてないの?」

「4年前に離婚しました」

「そうか。お子さんは?」

「14歳の息子がいます」

「そうか、シングルマザーなんだ。そりゃあ、何かと大変だろ?」

「そうですね」

麻里子さんは暗い顔をした。よほど苦労しているのだろう。

「お店で働いている間は、息子さんはどうしているの?」

「母が同居しているので、母が食事などの面倒をみてくれています」

麻里子さんは夜の仕事だけではなく、昼間も工場でパート勤めをしていると言った。そんなに働いて、体がもたないよと言うと、どうしてもお金を貯めたい理由があるのだと言った。

俺は、麻里子さんの美貌と話のセンスに惹かれていたが、境遇を聞いているうちに、この女性の力になりたいという、思いあがった気持ちも湧いてきて、麻里子さんと深い関係になりたいと思ってきた。その日は、食事をしたあと誘おうかと思ったが、麻里子さんは明日もパートの仕事があるのでと、帰っていった。


「それから何回かデートしているうちに深い関係になったということですか?」

「まあ、男と女がくっつくときは、そんなものだろ?」

「わかりました。少し休憩しましょうか」

武林さんは、そう言って部屋の外へ出て行った。

武林さんにはああ言ったが、実際に麻里子と関係を持ったのは、麻里子から誘われてだった。


俺は取引先と夕食をすることが多かったので、麻里子と同伴で食事をすることはできなかったが、店が終わってからのアフターは何度も行った。俺が誘えば、麻里子は嬉しそうについてきた。うぬぼれではなく、麻里子も俺に好意を抱いてくれていると思った。

5回目か6回目のアフターの時だった。

「今日は、何食べる?」

店を出てからそう聞くと、麻里子は俺を見ずに行った。

「食事よりも、ホテルへ行きましょう」

俺は耳を疑った。

「本当にいいのか?」

「由紀さんならいいと思った。その代わり・・・」

「その代わり?」

麻里子は、今度は俺の顔を見ながら言った。

「私に経済的援助をしてくれませんか?」

そうきたか。麻里子はそんな女ではないと思っていたのだけどな。

「私、事情があって、どうしてもお金を貯めなければいけないのです。だから、昼間も働いて、夜も働いて、そして母もパートをして手伝ってくれています。でも、その母がこの前、何でもないことで足の骨を折って、働けなくなって、家事も私がやらなければならなくなって、そうすると、私もパートに行けなくなってしまったのです。このままだと、予定のお金がいつまでたっても貯まらなくって・・・」

麻里子さんはそう言いながら泣き出してしまった。

「どうして、そこまでして、お金をためなければいけないのですか?」

「息子が、息子が病気なのです」

俺は息を呑んだ。しかし、いくら息子が大事とはいえ、そのために体を投げ出すのはどうかと思う。

「麻里子さんは、息子さんのために俺に抱かれるというのですか?」

「そんなつもりはないです。私は、純粋に由紀さんが好きです。でも、今の状況は、誰か経済的援助をしてくれる人を探さなければいけないのです。由紀さんがダメなら、他の人に私はお願いしなければならないと思っています。でも、出来たら好きでもない人に、そんなことを頼みたくありません。だから、好きな由紀さんにお願いしたいのです」

俺は店に通う他の常連客の顔を何人か思い浮かべた。嫌だ、あんなやつらに麻里子さんが抱かれるのを想像したくない。

「わかりました。俺が経済的援助をしましょう」

俺たちは、その足でホテルへ向かった。

ホテルの部屋に入った麻里子さんは、最初から積極的だった。ご主人と離婚してから、そういう関係になった男性はいなかったと言うので、久しぶりの行為ということもあったのだろうが、俺のことが好きだと言っていたのは、あながち嘘ではなかったようだ。俺もこれから麻里子さんの美しい体に、のめり込んでいくのだろう。もう、何があっても、この体を手放したくないと思った。

その日を機会に、俺たちは週に1回か2回、アフターでホテルへ行くようになった。肌を重ねるたびに、俺は麻里子のことが愛しくてたまらなくなってきた。思い切って妻とは離婚して、麻里子と結婚しようかとまで思ってきた。


そんなことを思い出していると、武林さんが戻って来た。

「じゃあ、続きをお願いできますか」

「えーと、これ以上何を話せばいいのですか?」

「藤代さんは、谷口麻里子に経済的援助をしていたと聞きましたが、それは本当ですか?」

「ええ、本当です」

「それは、いわゆる愛人という感覚なのでしょうか?それとも、何か別の事情があったのでしょうか?」

「私としては愛人として、毎月手当を渡していたという感覚でしたが、受け取っている麻里子さんは違っていたと思います」

「それはどういうことでしょうか?」

「麻里子さんはお金が必要だったのです。ですから、麻里子さんは愛人として受け取っていたのではなく、交際相手から援助してもらっているという感覚だったのだと思います。実際、麻里子さんは目標金額を貯めて目的を果たした以降は、もう援助はしなくていいと言っていました」

「目的とは何ですか?」

「息子さんが病気だと言っていました。肝臓が悪いのだと」

「つまり、息子さんの治療にお金が必要だが、息子さんの病気が治れば、もう援助は必要ないということですか?」

「そういうことです」

「わかりました。それで、谷口麻里子との関係はいつまで続いたのでしょうか?」

いつまで?それは、俺の会社が倒産するまでだ。いや、逆か?麻里子との付き合いを終わらせたから、俺の会社は倒産した。


麻里子には経済的援助として毎月50万円渡していた。当時の俺の会社は、銀行への返済がかなり大きな金額になっており、毎月1000万円程度の返済額があった。そんな中で50万円という金額は、現実的には大変な額なのだが、金銭的に麻痺していた俺は、50万円程度で大勢に影響はないと思っていた。1年くらいした頃に、俺はようやく会社の危機を実感した。保有していた不動産や株を手放し、資金繰りしていたが、それはタコが自分の足を食べるようなもので、半年先の資金繰りがまったく見えなくなってきた。会社の規模を大幅に縮小して、従業員もかなりリストラした。銀行返済を優先し、取引先への支払いは手形を連発するようになり、そのため、毎月のように手形決済のための資金集めに奔走していた。自分ではわかっていた。もうこの会社は無理だと。それでもあと1か月、あと1か月と、資金繰りをして、会社の社長という座にしがみついていた。さすがに今月末の手形決済は無理かと思っていた時、何とか最後の不動産が売れて、その入金で資金繰りがついた。俺はホッとして、1週間ぶりに麻里子の店に行った。店が終わり、久しぶりに麻里子とホテルへ行った。行為が終わった後、麻里子が言いにくそうに俺に言った。

「由紀さん、2000万円貸してくれないかな」

「2000万円?そんなの無理だよ」

「お願い。本当にお願い。一生かけても返すから」

金額を聞いて相手にしていなかったが、麻里子の真剣な様子を見て俺は麻里子に聞いた。

「なんでそんなお金が必要なのだ?」

「息子をアメリカで手術させたいの」

「アメリカで手術?」

話を聞くと、肝移植をさせたいのだという。当時の日本では臓器移植は心臓停止後の角膜と腎臓の提供だけは許されていたが、その他の臓器については法律が整備されておらず、国内で肝臓の移植は不可能だった。肝臓移植を行うためにはアメリカへ行くしかないが、膨大なお金がかかる。その金額は30万ドルだと麻里子が言った。ドルに縁がない俺は、30万ドルと言われてもピンとこなかった。

「少し前までは円換算すると4000万円だったのだけど、円高になってきたので、今なら3500万円くらいですむの。今まで蓄えていたのが1500万円くらいあるから、あと2000万円を由紀さん、都合してくれないかな」

「それは急ぐの?」

「病院から、このままでは体力がなくなっていくばかりだから、もしアメリカへ行くのなら、早い方が良いと言われたの」

2000万円なら、今会社にある。ただし、それがなくなると銀行返済か、手形決済か、どちらかができなくなる。他に何か良い方法はないのだろうか。俺は少し考えさせてほしいと麻里子に言った。

3日後、俺はアタッシュケースに2500万円の現金を詰めて麻里子に会いに行った。ホテルの部屋でアタッシュケースを開けたら、麻里子は泣き出した。

「2500万円ある。向こうに行って、何かトラブルで余分にお金がかかる可能性もあるし、また日本に帰って来てからの生活費も必要だろうから500万円追加で用意した。当面、手術に必要な分だけドルに換金して、残った円はぎりぎりまで持ってなさい。これから円高はまだ進むらしいから、レートの良いところでドルに交換すればいいし、使わなかったら、そのまま日本に円を持って帰ればよい。ドルに換金していたら、円高が進んでいた時に損をすることになるから」

麻里子は、翌日に店を辞め、早速アメリカ行きの準備にとりかかった。半月後のアメリカ行き前日に最後の逢瀬をした。

「由紀さんには、本当に感謝している。2500万円は、どんなことがあっても、一生かけても、必ず返すから」

「俺は、麻里子にあげたものだと思っているから。無理に返さなくてもいいよ」

「日本に帰ってきたら、息子と一緒に会いに行くから。そして、いっぱい、いっぱい、恩返しするから」

麻里子は泣きながらそう言って、俺にしがみついていた。


「結局、その2500万円がなくなって、会社は倒産したのですか?」

武林さんが俺に聞いた。

「最後の不動産が売れたお金がまだ残っていたから、手形だけは何とか決済して、銀行返済を飛ばした。だから、すぐに倒産というわけではなかった」

「それでも、その後倒産したんですよね。どうしてそこまでして、会ったこともない息子さんのためにお金を出したのですか?」

「遅かれ早かれ、会社は倒産していたよ。単なる延命処置をしていただけだ。倒産して取引先に迷惑をかけるわけにはいかないから、手形だけはなんとか決済したかったけど、銀行返済はもともと借りなくても良いお金を銀行が無理やり押し付けてきたものだから、銀行に返済するくらいなら、人の命を助けた方がいいじゃないか。なによりも、俺は麻里子さんが好きだった。だから、会社よりも、あの人を助けたかった」

「その後、谷口麻里子とはまったく会っていないのですか?」

「会ってないね。麻里子さんが知っている俺の連絡先は会社だけだから、その会社がなくなったら連絡のしようがないからね」

「藤代さんの方から連絡しようとは思わなかったのですか?」

「倒産して、破産して、そんなみすぼらしい姿を見せたくはなかったからね。麻里子さんの中ではカッコいい男のままでいたかったから」

「わかりました。ちょっと失礼します」

そう言って武林さんは部屋を出て行った。


おそらく、武林さんが言っていた「取材」というのは嘘だろう。武林さんは麻里子の関係者なのではないかと思う。麻里子は病気だと言っていたので、元気なうちに俺に会いたいとか何とか言っているのではないかと想像した。俺はもう麻里子に会うつもりはない。麻里子の中で藤代由紀夫という男は、羽振りが良く、颯爽と生きている男のままでいてほしい。


5分ほどして、武林さんが戻って来た。すると、その後ろから、中年の男性が「失礼します」と言って部屋に入って来た。

「突然失礼します。私、谷口麻里子の息子の武林祐介と申します」

男性はそう言って名刺を差し出した。

「苗字が谷口ではなく、武林なのは、私が結婚したときに、婿養子という形をとったからです。そして、この蒼汰は私の息子で、谷口麻里子の孫ということになります」

俺はあっけにとられ、この男性の説明を聞いていた。そういえば、顔立ちが麻里子に似ている。そうか、この男性が麻里子の息子さんなのか。

「私ではなく、蒼汰に話を聞きに来させたのは、私は母によく似ていると言われるので、息子だとバレたら、藤代さんが本当のことを話してくれないのではないかと思ったからです。蒼汰は母親似ですので、私ともそれほど似ていませんので、母の話を聞いても疑われないかと思った次第です」

「蒼汰さんは取材だと言っておられましたが、それは嘘だと思っていました。おそらく麻里子さんの関係者なのだろうと思っていました。しかし、まさか、お孫さんだとは思いませんでした。それで、どうしてあのような話を聞きにこられたのですか?」

「私は母から藤代さんのことは、一切聞かされていませんでした」

「そうなのですか」

「実は、母は、2か月前に亡くなりました」

「麻里子さんは亡くなったのですか?」

「ええ、それで、母の遺言状に藤代さんの名前があったのです。母は、私たちが知らない銀行口座を持っていまして、そこに入っている2500万円を藤代さんにお返しするようにと遺言状に書いていたのです。そして、遺言状とは別に、藤代さんとの関係を記した手紙もありました」

俺は驚いて何も言えなかった。

「私たちにとっては、寝耳に水です。今まで名前も聞いたことがない藤代さんに、こんな大金を返さなければならないということに驚きました。それで、母の話が本当かどうか藤代さんに会って確認しようということになったのです。もっと早くお伺いしたかったのですが、藤代さんの所在をつきとめるのに時間がかかりまして。手紙によると、母もずっと探していたようなのですが、結局分からずじまいだったと書いてありました」

「そういうことだったのですか。それならそうと、最初から言ってくださればいいのに」

「申し訳ありません。ただ、金額が金額ですので、そのお金欲しさに嘘をつかれる可能性もあるのではないかという心配もありました」「確かにそうかもしれないですね。貸したのは4000万円だったという人もいるかもしれませんね」

「蒼汰が聞いた限りでは、母の話と藤代さんの話は一致しております。ですから、母が貯めた2500万円を、藤代さんにお返しします。そして、私の命を救って頂き、本当にありがとうございました」

祐介さんはそう言って、深々と頭を下げた。

その後雄介さんは鞄から通帳の束を取り出した。

「母は、約25年かけて2500万円を貯めたようです」

俺は渡された通帳を開いてみた。基本的に毎月10万円ずつ預金されている。生活が苦しかった時期なのか、ところどころ6万円になったり、7万円になったりしている期間もある。

どんな仕事をしていたのか知らないが、生活を切り詰めて、一生懸命貯金をしているのが手にとるようにわかり、俺は目頭が熱くなってきた。

「毎月10万円ずつ預金していたようなのですが、4年間だけ5万円になっています。それは私が大学へ通っている期間でした」

言われてみると、確かにその期間は5万円ずつになっており、それを過ぎてからは15万円に増額していた。祐介さんが働き出したからだろう。

「祐介さん、私はこのお金は受け取れません。この通帳には、麻里子さんの祐介さんへの思いと愛情が込められています。このお金を貯めるのに、本当に苦労なさったのでしょう。ひょっとしたら、祐介さんにひもじい思いもさせたのではないでしょうか?麻里子さん自身も苦しかったと思います。それでも、祐介さんの命を救ったお金だからと、必死に貯めたのだと思います。私は、そのお金を頂くわけにはいきません。どうか、祐介さんが、お母さんの思いを使ってあげてください」

そのあと、母の思いを受け取ってくださいという祐介さんと、受け取れないという私で押し問答があり、折衷案ということで、祐介さんが快適な老人ホームを用意するので、余生をそこで過ごして下さいと提案してくれた。

「ここで寂しく余生を過ごしては、母が悲しみます。最後までカッコいい藤代さんでいて下さい」

と言ってくれた祐介さんの言葉に、俺は甘えることにした。


帰り際祐介さんが、

「それと、母の手紙の中に、藤代さんの所在がわかったら渡して欲しい、もし所在がわからなかったときは封を切らずに廃棄してほしいと、藤代さんあての封書がはいっていました」

と言って、1通の封筒を差し出した。

二人が帰ったあと、俺は麻里子からの手紙の封を切り、中の便箋を取り出した。便箋は1枚きりで、


“由紀さん、祐介に会えましたか?あなたのおかげで、こんなに立派になりましたよ。本当にありがとう。

もう一度由紀さんに会いたかった。もう一度抱きしめてもらいたかった。本当に、心の底から由紀さんを愛していました。短い間だったけど、幸せでした。ありがとう由紀さん。”


と書かれていた。

俺は溢れる涙をぬぐいもせず、何度も何度もその手紙を読み返した。

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