第2話 呼吸の破片
広い家の中は、ただぽつんと静謐の中に佇んでいた。
窓から高い日の光を受け、微細な埃がきらきら光り、独特の木の香りがする。長い廊下の先にある父親の書斎の方からも人の気配はなくなっていた。仕事へ向かったのだろうか。そっとリビングへ向かい、並べられたテーブルを越えて、奥のマホガニーで出来た棚の、重たい引き出しを両手で引っ張り開ける。
綺麗に区分けされたその中に、ひときわ大きな木箱があり、救急箱と彫られている。
少年は磨かれた蓋をじっと見つめる。
(『あれ』はなんだったのだろう)
夢でも見たのだろうか。ふと少年は引き出しをしまい、部屋を出て、再び廊下に戻った。そして口の中にたまった唾をごくりと飲み込むと、最奥の扉の前に立つ。
(『こんな成績で――』)
再び脳内で始まるお叱りの儀式に、少年は頭を振り飛ばす。
今こうして机に向かっていないことも、バレてしまえば必ず怒られるに違いない。それを思い出すと背筋を震えのようなものが駆けていく。小さなこぶしに力がこもる。
だが。思い出すのは白い光の視線と、黒い不思議な体。あれはいったい何なんだろう。
正直、父親のことは怖いが『あれ』だってずっと怖かった。
おそらく『あれ』は少年の記憶を引っ張り出し、恐怖心を植え付けようとした。
始まるときの突き刺さるような頭痛は、他では感じたことのないものだ。『あれ』は少年にはわからない力があって、見えない形で攻撃をすることが出来る、未知の生き物。
なのに、あの目の色が、紫の霧が昇る身体のことが、どうしても気になって仕方がない。畏怖に塗りつぶされた心の色の中に、煌めきの破片のような、珍しい色をしたものが確かに混じっている。それを見つめていると、なぜか苦しさの中でも心が落ちつくような気持ちが、すうっと息をするような感覚になれる。
出来ればもう一度、会ってみたい。
少年はぎゅっと目をつむり、もう一度見開いた。
廊下の奥、まるで待ち構えるように聳える分厚く巨大な入口の、豪奢な金属のノブに手を伸ばす。
ガチャリ
重量のあるドアの隙間からそうっと覗けば、やはりそこには誰もいなかった。
この家の中で一番情報が詰まっているのは間違いなくこの父親の部屋だ。ずらりとならぶ分厚い本は、少年にとっても難しいものばかり。だがしかし、ひょっとするとあの生き物に関することが記載されているかもしれない。
僅かな期待を胸に、少年はするりと部屋の中に忍び込む。そして部屋の壁に並ぶ本棚を見渡し、ガラス扉越しの背表紙に書かれた文字を読む。
(『まるわかり経済学入門』、『経営ノウハウ』、『鉱物図鑑』、『完全掘削管理ガイド』……うん?)
少年はふと気になった本を一冊取り出した。その表紙には、文字が何も書かれていない。濃い紫苑色の、分厚い表紙に飾られていて、日記のようにも思えた。
扉を開け、引っ張り出してぱらぱらとめくっていくと、不思議な記号や鉱石、建物のスケッチが事細かに書かれている。
(たしかこれ……あの建物の中で見た文字?と似ている……)
そしてこの本の最後に記されているのは、あの黒い生き物らしきスケッチだった。
何か手がかりがあればと思ったが、まさか自分の父親が『あれ』を知る本を本当に持っているとは思わない。同じページに記された唯一読める文字を、少年は口に出した。
「ネビュラグラス……」
「何をしている」
少年の後ろから、巨大な影が射した。
コールサックと廃墟の森 emo @emore
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