最終話 さよなら僕のホームサウナ

もう少しで「ととのう」の正体が掴めそうなところまでは来たが、本当にあれがそうだったのだろうか。答えは分からない。


今日もホームサウナに来ていた。


サウナから出て、水風呂に浸かり外気浴をしてみるが、あのときの感覚はまるで来る気配がない。やはり温度が違うからなのだろう。


そうしてサウナーたちは高温のサウナを求め、低温の水風呂を求めるようになっていくという。


外気浴を終え、2度目のサウナに入る。


ボス猿と、ひとり、筋肉さんもいる。今日は常連組が勢揃いだと思いながら中段の空いてるところへ座ると、あとからお役所さんも入ってきた。


この常連組もみんな、ととのっているのだろうか。


あの正体を知っているのだろうか。


聞いてみたい。


一番最初のととのう体験を。


水風呂を終え外気浴を満喫していると、中の椅子でいつものように足を組んで座る、ひとりの後ろ姿がガラス越しに見えた。ひとりは内気浴派だ。


ひとりは今ととのっているのだろうか。眠っているようにも見える。


しばらくして立ち上がったひとりは、なぜかそこから動かなくなった。


どうした。


なにかを探しているのだろうか。


するとひとりは、ストン、と片膝をついた。


その次の瞬間、前のめりに倒れた。


まずい。


僕はすぐにひとりの元に駆け寄り、声をかけた。


「大丈夫ですか? 聞こえてますか?」


ひとりの両肩を軽く叩く。意識がない。


軽度のヒートショックか。僕は回り込んでひとりの口に顔を近づけた。呼吸が浅い。脈も徐脈。危険だ。


もしかすると、すでにヒートショック状態で具合が悪いのに、ずっとこの椅子を一人で占領してはいけないと、無理して立ち上がったのではないだろうか。


「おいどうした。大丈夫か」


すでに大勢集まってきていたギャラリーたちを押しのけながら、ボス猿が出てきた。僕はボス猿を目掛けて言った。


「すいません、大至急スタッフに救急車の手配をお願いしてきて頂けませんか。危険な状態です」

「お、おう。わかった。ちょっとどいてくれ!」


こういうときはボス猿が適任だ。なんで俺がそんなこと、と彼はゴネない。間違いなくボス意識があるはずだし、俺に任せとけとその役割を担ってくれるはず。ここでは全員と顔見知りだし、スタッフとも懇意だから話が早いだろう。


続けて僕は、筋肉さんに声をかけた。


「すいません、ちょっと手伝って頂けますか?」

「私!? ああ、はい」

「身体を仰向けにします。胸骨圧迫と人工呼吸をします」

「え? そんなまずいの? わ、わかりました」

「ゆっくり」


ひとりは背が高いので、僕一人だと多少力を入れなければならなくなる。今は強く動かしたくない。


仰向けにしたひとりに胸骨圧迫を開始すると、筋肉さんが話しかけてきた。


「お兄さんあれかな、もしかしてお医者さん…?」

「いえ。ただちょっとだけ知識があるので」

「そうなんだ。いや、慣れてるなあと思って」

「すいません、大きなタオルを一枚お貸し頂けませんか? もしお持ちだったらですが」

「タオル? ああ、あるよ。うん」


そう言うと筋肉さんは、足早にロッカーへ向かった。あの人のバスタオルはかなり大判だったはず。


スタッフ、そして救急車もいつ来るか分からない。急激な体温低下を避けるため、タオルをかけておきたい。


さらに僕は、お役所さんに声をかけた。


「すいません、あの、そちらの」

「へっ?」

「はい、すいませんがAEDを取ってきてくれますか?」

「AED? ああ、はい。わかりました」


本当に役所の職員さんかどうかは分からないが、もし本当に役所の人だったら、こういう施設にAEDが設置されていることを知っているはず。


「おい! 連れてきたぞ!」


胸骨圧迫と人工呼吸を繰り返していると、ボス猿とスタッフ、そしてAEDを持ったお役所さんがほぼ同時に戻ってきた。


僕はスタッフに説明した。


「3分前にうつ伏せに倒れ込み、呼吸が浅く、脈も徐脈で危険な状態だったので胸骨圧迫と人工呼吸をおこないました。倒れたときの外傷はなさそうです。あと念のため、AEDはこちらの方が」

そう言うとお役所さんが、AEDをスタッフに得意気に見せた。

「はい。ちょうど今そこでみなさんと会って」

「救急車は来てくれそうですか?」

「今別の者が連絡をしています。あの、失礼ですが、お医者さまですか…?」

「いえ、医学部の院生です」


その後ひとりは、救急救命士に運ばれていった。そのドサクサに紛れ僕は服を着替え、家に帰った。


翌日、ホームサウナに電話をしてみた。最悪の場合、心筋梗塞や脳卒中の可能性もあったが、ひとりは無事だったようだ。あのあと一日だけ入院して、もう退院したという。


ご家族の方から僕の連絡先を聞かれたそうだが、ご無事なのであればお伝えしないでください、と答えた。


僕は誰とも関わり合いたくない。


ひとりが無事だったのは良かったが、もうあそこへは行けなくなってしまった。


行けばきっと常連組に話しかけられ、どこの大学だなんだと聞かれる。


東京大学と答えたら、また大騒ぎされそうだ。


仕方がない。


いくら関わりたくないといっても、医者の卵である僕が見て見ぬふりをするわけにもいかない。


ホームサウナを失うことにはなってしまったが、ひとりが無事ならそれでいい。


しばらくは、別の銭湯をホームサウナにしよう。

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サウナマナー無双・童貞田中の無言サウナ 鷺谷政明 @sagitani_m

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