恋するつくもがみ

@ishikuro

第1話

 青年が『その娘』の姿を見たのは、とある沼のほとりだった。


 こちらに背を向ける娘は豊かな黒髪を後ろへ流し、座して三味線を弾いている。手の動きに合わせて紅色の着物が揺れ、見事な刺繍が光を反射した。


 物の怪だ。

 山菜採りに来て、山奥へ迷い込んだ青年はそう確信する。

 それ以外に考えられなかった。こんなところで、姫君のような女が一人、三味線を弾くものか。


 明治の世になり三十年。

 闇は電気に追い出されたが、未だ人と違う存在はあらゆるところに息づいている。

 けれど彼女の奏でる音に導かれ、この沼地を訪れた青年は、不思議と恐ろしい気はしなかった。


 ゆっくりと穏やかな旋律は、緑を反響して柔らかく、時に強く厳しく弦をうつ。

 これほどの弾き手は、町の師匠にもいないのでは。

 そう思い、聞き惚れているうちに、曲が終わった。ぱちぱちと何か鳴る音を身近に聞いて、彼は知らぬ間に自分が拍手をしていることに気づき、慌てて手を止めた。


 その音に、ゆっくりと娘が振り返る。


 長い睫に深い赤の瞳。白い滑らかな肌にふっくらとした小さな唇。年の頃十六,七ほどの愛らしい相貌の娘だった。後ろ姿から想像した以上の造形に、思わず青年が息を飲む。

 彼女は予期せぬ客がそこにいることに気づき――目を見開いて立ち上がった。


 ざばり


 次の瞬間、娘の背後にある沼の水面が泡立ち、不気味な音を響かせた。


 そこから長さが三丈ほどもありそうな大蛇が現れる。鱗に覆われた丸太のように太い胴。真っ白の体は滑らかに水を弾き、白目のない赤い瞳がわずかに細められ、ちろりと長い舌が口から覗いた。


 悲鳴を上げてひっくり返った青年の前で、蛇は、三味線を持つ娘にゆっくりと近づいた。

 足下から大腿、腹から肩へと彼女の華奢な肢体に、白い蛇が絡まる。

 そのあまりにも異様な光景に、青年は震えるばかりだったが、当の娘はわずかに表情を緩めただけだ。それどころか、顔の傍まで伸びてきた胴に、優しく頬を寄せた。


 娘の唇が、なにか――蛇の名だろうか――を呼ぶように動いた。


 体に巻き付いたまま、蛇は天を見る。

 遅れて空を仰いだ青年の頭や肩に、ぽつりぽつりと大粒の雨が落ちて、あっという間に伸ばした手の先が見えないほどの豪雨が降り注いだ。


 天候を操る蛇。龍神。


 今度こそ悲鳴を上げ、青年は一目散にその場から逃げ去った。







 にわか雨に降られた木々が、輝く滴を垂らす。

 男を見送った娘は己を絡めとる蛇を見上げて、そっと手を持ち上げ――その頬を摘んだ。

 固い鱗に覆われたそれはもちろん人のように伸びはしない。

 しばらく一人と一体は無言で睨み合い、やがて根負けしたのは蛇の方だった。


 彼は目を閉じると同時に人の形をとり、地面に足をつけ少女の手を己の頬から引き剥がした。


 そこにいるのは長い白髪を後ろで一つにくくった、凛々しい体躯の男だ。狩衣に身を包み、腰に刀を携える彼は、精悍な顔を人間の逃げた方に向けた。

 既に邪魔者がいないのを確認して、欠伸をしながら娘の手を離す。しかし彼の頬を、再び娘は摘んだ。

 今度はむに、と柔らかく伸びる。

 色々勝手をしたことを娘が怒っているのを見て。蛇は渋々、謝罪の言葉を口にした。



 その蛇が棲む沼は、山の奥深くにあった。

 水を司るこの神は、地域の守り主として、古くから人々の信仰を集めている。季節の変わり目には五穀豊穣や雨乞いのための祭りが催され、彼らは蛇神に祈りを捧げた。周辺の町や村には、彼を奉る神社がいくつも建てられ、参拝する者は後を絶たず。

 けれど、棲む、と伝承されているその沼に、意志を持って近寄る者はない。

 蛇は偏屈で有名だった。人も物の怪も、近づけば祟られるともっぱらの噂である。


 ゆえに、ここには蛇と娘しかいない。

 唯一そばに仕えるのを許されたのは、愛らしい三味線の付喪神。名を、七嗚ななおという。

 力の弱い物の怪である彼女は蛇神に守られながら、ここで三味線を弾き、求められれば彼と肌を重ねた。


 とある少女の、身代わりとして。






 覚えているのは、この身を丁寧に手入れしてくれた『彼女』の細い指。


 三味線は彼女にとても上手に弾いてもらえるのが嬉しくて、幸せだった。

 彼女以上の弾き手を知らない。彼女が奏でるその音色以上のものを、聞いたことはない。

 けれどあの日、いつも通り袋に仕舞われて。

 それから三味線は二度と、彼女に触れてもらえることはなかった。






 夜の中に弦を爪弾くような綺麗な声が混じる。


 蜜を零す入り口を擦っていた指が中に侵入すれば、華奢な体躯を大きく仰け反らせて七嗚は喘いだ。

 強い刺激に呼吸を乱す七嗚の肌は汗ばみ、彼女の黒い髪と、人の形をとった蛇神の白い髪が裸身に絡みついた。


 その身の特性なのか、蛇は昼間の怠惰な雰囲気を一蹴し、淫蕩に情欲をうつす目で七嗚を見る。

 服を脱いだ男はその逞しい身体を外気に晒していた。鍛えられた身体は硬い筋肉に覆われ、蛇のなごりを残すのはわずかに首元に見える鱗のみ。


 縋るように手を伸ばせば、わずかに蛇神が身を屈め、彼女のふるりと揺れる胸を口にふくみ、先の飾りを舌で弄んだ。

 途端に息を詰める、良い反応に口の端を歪め、彼は七嗚の足を持ち上げ己の肩にかけた。気をやったばかりの体が逃げるように動く。

 荒い息で許しを乞う少女の、その口を蛇神が強引に唇で塞げば、従順にも小さな舌が男の舌先を舐めた。

 籠もる熱に少女の頬は真っ赤に熟れ、唇は唾液で艶やかに濡れている。そこで。



 とすん




 七嗚の姿が三味線に戻った。



 山に沈黙が落ちる。

 裸で、地面に転がる三味線を前にした蛇神は頬を引きつらせた。


 不機嫌を隠さず蛇が低い声で呼びかければ、三味線は小さく悲鳴をあげた。

 弱い付喪神はこの戯れで、体が壊れてしまうことを心配しているようだが、作った本人である蛇神にとってはそれは逃げの口実にしかならない。これでもきちんと力を押さえている。

 しかし、眷族は契りを交わせる姿には戻ろうとはしない。


 まぁ、それならそれでいい。戻る気がないなら、そのままコトを進めるだけである。


 びくり。

 主の異様な気配を敏感に察知した三味線が、怯えたように大きく弦を震わせた。


 実際に以前、無体なことをされて破れたことがある。

 職人の手による修理を彼女は即刻要求したが、この人間嫌いはなかなか了承せず――なんとか宥めすかして人に化けてもらい、町に張り替えに行ってもらったことは、七嗚の記憶に根深い。


 結局逃れる術はなく、七嗚は泣く泣く娘の姿に戻った。


 男は長く逞しい腕を伸ばして彼女の髪をかき上げると、その頬に手をおいた。

 震える娘の耳に口を寄せ、蛇は言うことをきかない幼子にするような、そんな宥め方をする。

 背中から腰まで、煽るように男の手が肌の産毛を逆立てる。

 触れるか触れないかの距離を保ったままの、もどかしい愛撫に七嗚は浅く息を吐いた。弛緩したのを見て、蛇は少女の体を再び押し倒した。


 深く繋がれば、主の昂ぶりに呼応するように彼女の熱も上がる。

 七鳴にできるのは、ただ彼の気の済むまで体を明け渡すこと。   

 ほとんど意識を飛ばしながら、七嗚は彼の体をかき抱く。



 大丈夫だろうか。

 今日も己の姿は似ているだろうか。

 蛇神が愛した、人間の娘に。


 中に注ぎ込まれる膨大な蛇神の力に苦しい息を必死に堪えて、七嗚は喘いだ。

 娘と似た、その名で呼ばれる度に、蛇神が彼女をどれだけ恋い慕っていたか、伝わってきて苦しくなる。


 娘恋しさのあまり、蛇神は人の世から彼女の三味線を盗り、力を与えて七嗚をつくった。


 事情は蛇の旧知の者にひそりと聞かされたものである。力あるが故の、とんだ遊びだと。

 成って間もない付喪神に返す言葉はなく、同時に主である蛇神への思いの行き場もなくなった。こうして幾夜も体を求める彼が必要としているのは『七嗚』ではなく、その娘の面影だったとは。


 だが、持ち主である娘のことも、七嗚は憎めない。彼女に爪弾かれて幸せだった日々は、確かに三味線の中に存在していた。


 この身は蛇を満足させる、それだけの道具。ただ、それだけで―――。






 すでに力の入っていない華奢な手はゆっくりと男の背中から滑り、地面に落ちた。その瞼はとうに閉じられていて、気をあてすぎたことに気づいて蛇神が身を起こす。

 見下ろす娘の体から、じわりと、今しがた注いだ力が抜け出て土に混じるのを蛇は眺めた。


 今日も目的を達しえないことに落胆しつつ、男は涙で濡れる七嗚の頬を撫でる。

 人の形を取った、戯れ。何十年と蛇神に番っているのに、未だその身が弱いままである意味を、彼女は気づかない。


 勝手をした蛇を、彼女は許さないつもりなのだろう。


 無意識のうちに己を拒むその姿を見下ろし、愛しい名を、彼はそっと口にのせた。







 奈緒なおは、肺の病で家族から厄介者扱いされ、離れでいつも一人、三味線を弾いていた。

 その音色に魅了され、珍しくも人に興味を持った蛇神は、彼らしからぬ熱心さで密かに彼女の元を訪れ、旋律に聞きいったものだ。

 姿を見られたのは失態だった。猫に追われて隠れていた軒下から飛び出してしまったのだ。

 初めは驚いていた少女も偏屈な蛇に気を許し。度々訪れる彼と他愛ない話をした。


 けれど、いよいよ病が重くなっても、彼女の周りに人は居ない。

 母や父兄弟が寂しい年頃だろうに、枕から頭を上げられない状態になっても、うつるのを恐れて誰も。


 臨終の枕元を訪れた蛇は、彼女に治せないことを告げなければならなかった。

 同じ病で数万の人が死んでいる。平癒を願い、親が兄弟が子どもが毎日毎日、蛇神の元に通って祈っていた。しかし彼女のために祈る者はない。


 暗い部屋の中、人の姿で現れた蛇に、苦しい呼吸のまま彼女は表情を緩めた。


 話を聞いても様子は変わらなかったが、ただ、手を繋ぐことを乞われた。

 一人死ぬのはやはり寂しかったのだろう、静かに涙をこぼす娘の髪を、男が優しくかき上げる。


 そばにある温もりに、安心したように娘は息を吐き――その動きを、永久に止めた。



 次の刹那、蛇が唇を重ねる。


 情緒もなく口を離した男は無言で立ち上がり、部屋の隅にあった彼女の三味線をとる。


 古い呪いを発しながら彼が唇を弦に近づければ、ふぅわりと光った三味線が、見る間に布団の中の少女と、寸分違わぬ乙女の姿に変わる。

 魂が体から離れて間もなく、まだ意識が朦朧としているのだろう。蛇の腕の中で、娘はただ佇んでいた。


 まともな供養もされぬと分かっていて、魂を冥府に送るのが忍びないとは言い訳で。

 蛇神はどうしても、この娘が欲しかった。


 頬に触れると、視線を上げた。その目は、蛇と同じ赤。

 成るか、成らぬかの賭は、どうやら蛇に分があったようだ。

 名を授けた。七嗚ななお、と。




 生まれたばかりの付喪神の首筋に顔を埋めれば、神気の気配にぴくりとだけ少女は身体を揺らした。輪郭を確認するように薄い唇でなぞると、弦を弾くような綺麗な声を上げる。

 淫蕩を是とする蛇が、情欲に駆られるのもすぐだった。

 ヒトは弱い。

 力の強い蛇と契りを交わせる者は限られた。『奈緒』は、三味線に天賦の才を持っていたが、その範囲ではなかった。


 ――これでようやく、お前に触れられる。


 与えられる愛撫に鳴く七嗚を捕らえて、蛇神はその身体を思うさま貪った。

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