神様の涙が降る街

都築綴

第1話・追憶と雨

「雨は神様の涙なんだよ」


 薫は雨が降る度にこんなことを口にしていた。

 田舎は田んぼが多いからか、雨が降ると土臭さや植物の匂いが混じって、なんとも言えない匂いがする。そんな埃っぽいような鉄臭いような匂いが、私は好きじゃなかった。息をする度に空気が苦くて重くて、思わず溜め息を吐いてしまう。肺に沈殿した土臭さは、雨が止んでもいつまでもこびりついて離れない。

 雨が降った日の学校からの帰路は決まって、憂鬱に俯く私の横を薫が楽しそうに歩いていた。

 ぴちゃんぴちゃん。

 雨が跳ねる音を鳴らしながら、まるでワルツでも踊るように、薫はどろどろになった土の上を歩く。靴が泥を跳ね上げ、薫の白い脛を汚す。それでも足音には目もくれず、薫はただ雨を降らす天を祝福するように、踊っていた。薫にかかれば、こんな廃れた田舎のあぜ道もダンスホールに、そしてうざったいこの雨音はオーケストラになってしまうのだ。エスコートする誰かなんていなくても、薫は一人で花のように綺麗に踊れた。


「神様だってきっと泣きたい時があるんだよ。でもみんな神様の存在を知らないから、気付いて欲しくてこうやって地球に雨を降らせるの」


 本気なんだか恍けているんだか、どちらとも取れる表情で薫は笑った。あまりに無邪気にそう言うから、私は拍子抜けしてしまう。この子の脳内にはきっと、花が綺麗に咲き誇ったお花畑があるのだ。


「神様も本当は構って欲しいのかも」


 なんて適当な相槌を打つ。夢物語もいい所だ、と心の中で嘲笑を浮かべて。


「神様は寂しがり屋なんだよ」


 間髪を入れずに返された。

 よくそんなにも夢物語がぽんぽんと語れるものだと感心してしまう。神様を寂しがり屋だなんて言うのは、きっとこの世界で薫だけだろう。それでも、この純粋な田舎町の少女がそう言うだけで、本当にそうなのではないかと思わされてしまう。いや、田舎町の少女皆にその力があるわけではない。薫が特別なのだ。私にはいつもどこか、薫だけが別の平行世界を生きているように思えた。


「それに雨の匂いって私好きだなあ。なんか、命の匂いって感じがする」


 雨の匂いが、命の匂い。こんな鼻が曲がるような匂いが命の匂いなんて、命に対する冒涜に思える。


「どういうこと?」


 私の一歩先を歩く薫は、くるりと回転して、私と向かい合って止まる。本当にダンスをしているみたいだ。私のエスコートなんて必要ないくせに、薫は下ろされていた私の左手を取る。思わず何かに跳ね上げられたように顔を上げると、近距離で薫と対面して肩が大きく震えた。


「ほら、雨が降ると色んな生物が出てくるじゃん。みんな雨水を求めて土から出てくるんだよ。命のエネルギーを感じるなって」


 そう言う薫の顔は少し雨に濡れていて、雨粒に光が反射して微かに光っていた。湿気で濡れた前髪から雫が滴り、足元の水溜まりに落ちて私達を映し出す。映し出された私の姿が、何だか醜く思えた。薫の手は温かかったけれど、私の手の温度はどんどん下がって冷たい氷のようになっていく。

 薫はいつもどこか空想的な思考で物事を捉える。それが少し羨ましくもあった。きっと薫の瑞々しい感性を通して見た景色は、私よりもずっと輝いていて綺麗だろう。純粋で素直で、真っ直ぐに世界を見れることが羨ましくて、少し妬ましくもあった。


「ねえ、絵麻ちゃんは雨、好き?」


 薫はまたそうして笑う。私の醜い心なんて、その純粋な瞳には正しく映ることもないのだろう。澄み切ったその心は水溜まりなんかよりずっと透明で、その透明な心に反射して見える私の心は酷く汚れていた。

 やめてくれ。私は心の中で叫ぶ。脊髄を震わせて、声帯が戦慄いて、私は全身で叫ぶ。やめてくれ、と。醜い私にこれ以上向き合わせないでくれ、と。心の中から噴き出すようにして、醜いものが押し出されていく。それすらも、薫の瞳には映っていない。彼女の瞳の中にはいつでも花畑しか映っていない。そんな背筋が震えるほど無垢な世界に、醜悪な私を映さないでくれ。

 薫が嫌いだった。妬みも嫉みも憧れも羨望も、彼女は私の全てを知り得なかったから。だから、薫なんて嫌いだ。

 






 東京は生憎の雨だった。

 テレビから垂れ流しになっていたニュースで梅雨入りしていたことを知る。こんな雨は何十年ぶりだとか、つい去年も聞いたような常套句を、液晶の中で分け知り顔のタレントが深刻な顔で語っていた。無性にその面構えに腹の底がむかむかして、リモコンで電源を切る。湿り気を帯びた世界から音が消える。いや、雨の音はずっと聞こえていた。わざわざそれであると認識することもなくなるほど、ここ数日はずっと雨が降っていた。

 雨で目隠しされた窓に目を向ける。雨の雫が目にも止まらぬ速さで降り注ぎ、この東京という街を濡らしていく。窓の外を見てみれば植木鉢の土も色を変え、観葉植物の葉に水が跳ねて音を立てていた。

 ワンルームには、際限なく淀んだ空気が充満している。長く換気していないせいか、この雨のせいか。恐らくはそのどちらもが祟って、湿度の高い空気が全てを満たしていた。

 ふと思い立って、窓を開いてベランダに出る。雨で濡れたサンダルに足を通すと、生温い雨水が指の間を這う感覚に背中が震えた。歩く度に安っぽいビニール製サンダルが床面と擦れて、大きく不快な水音が鳴る。

 大きく深呼吸した。湿度は相変わらずだが、室内より圧倒的に新鮮な空気で肺を満たすと、少し気分が良くなったような気がする。旅行に行く時にリュックサックにたくさんの荷物を詰め込むように、私は肺に空気を詰まらせていた。あの時は腫れ上がったリュックサックを見て満足げに思ったものだが、今は最低限で肉体を構成している。何もかもが足りない。酸素も気力も、何もかもがまるで足りていないのだ。

 植物や土が少ないからか、東京の雨は田舎ほどの土臭さを感じない。雨に混じったアスファルト臭が鼻腔を抜けていく。


『雨は神様の涙なんだよ』


 ふと、薫の声が海馬から蘇る。

 薫に雨が好きか聞かれた時、私は何と答えたのか。全く覚えていないことに少し安心している自分がいた。

 薫は今どうしているのだろうか。あの田舎にいるのか、それとも私と同じように都会に出てきたのか。もう何年も会ってないけれど、今の私にとっては関係ない。人間関係は儚く脆く、移りゆくものだ。私にとって薫はもう過去の人で、それ以上にもそれ以下にもなり得ないのだ。

 アスファルト臭が肺にこびり付いては剥がれ落ちて、雨水に溶けて排水管へと流されていく。何度も、何度も、繰り返す。抜け殻から空へ飛び立っていく蝶のように、新しい酸素が私を型取る予感がする。

 ねえ、薫。雨は神様の涙なんかじゃない。

 雨の仕組みは科学的に証明されている。過去、数多の気象学者がどんな研究をしてきて、どうやって結論を出したのか、今ではネットを使えば簡単に記事が出てきて丁寧な文章で説明してくれる。神様なんて不確かな偶像を信じるよりも余程、信憑性の高い情報がこの世には沢山ある。

 でも、貴方の世界では、確かに雨は神様の涙だったのだろう。今の私ならそう思える。あの時の私には到底わかり得なかったのだ。純新無垢な貴方の心は、あの時の私には眩しすぎた。眩しかったから、私は目を細めて貴方を見ていた。あの時、ちゃんと貴方の姿を見ることができていたら、私も少しはその感性に染まることができたのだろうか。あの花畑に見合う姿でいられたのだろうか。


 神様は涙を零さない。

 それでもあんな迷信を信じる薫が、今は恋しいとすら思える。

 ベランダの濡れた柵に置いた手が震えていることに気づいた。東京の雨は冷たい。夏が近づいているというのに、ひたすらに私から温度を奪っていく。私の知っている涙は生温く塩水のように塩っぱいけれど、どうやら薫の言う神様の涙とやらは、土臭くて氷水のようにただ冷たいだけらしい。

 今日この瞬間、このワンルームに、雨水が奏るオーケストラに乗せて舞う人間はいなかった。いや、もうこの世界のどこにもいないのかもしれない。もしかしたら、初めからそんな人間などいなかったのかもしれない。それでも良かった。

 本当にこの雨が神様の涙だとしたら、神はどうして涙を流すのか。この世の何を憂いて、あるのかも分からない心を震わせて、泣いているのか。人差し指で世界の条理すらも変えられる己の何を嘆いているのか。薫の言うように寂しいのだとしたら、一体この世にはどれだけの雨が降ることになるのだろうか。それが解消されることはあるのだろうか。どれだけ疑問を並べようとも、私達人間がそれを知る術はない。



 雨は嫌いだ。土臭くて植物のつんとした匂いが強くて、息苦しくなる。薫が嫌いだ。あんなにも私を惨めな生き物にする、純真無垢な花畑の中心に立つあの少女が嫌いだ。

 それでもこれが命の匂いだと言うのならば、確かにこの涙は新たなる私の門出にふさわしい祝福だと思えた。

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