その記憶よ安らかに

「はぁ、やっとできた…。これだけやってか…。」

 姉のマリアベルが大きく伸びをする。私もつられる。交易都市レインサイニスの北に広がるハウダ森林のほぼ中心、寄りつく人間のない薬屋店舗兼住宅。我々姉妹は薬の製造を行っていた。それがようやく完成したところだ。

前日の朝から始めた薬の製造が完了したところだ。今は明け方。丸一日かかっている。

「難しいよねこれ。意味がわからない効果の癖に。」

 手間をかけて作った薬は「猫薬」。我々――魔法使い――が服用すると、見た目も身体も本物と違いなく、猫になる。その状態は簡単な現象術で戻せるが、猫になった本人には解除できない。猫の身体では魔法の詠唱ができないから当然だ。こんなものにまともな用途などある筈もない。正直この薬のレシピ自体が何の為に、いや、何を考えて作ったのか、と問いたくなる代物だ。

 では何故、そんな理解できないものを作っているのか、と言うと…この薬の重要な点は効果ではないからだ。

 この薬のレシピは、材料の投入タイミングが極めてシビアで難しい。時間分解能を人間より極めて高い状態にできる私達ですら難しい。というより、分解能を細かくしても自身の動作が早くなるわけではないので、狙ったタイミングに投下できるようにするには狙ったタイミングを見極められるよう時間分解能を高めた上で、その状態にちょうど良く投入できるようにする修練が必要なのだ。

 そういったテクニックが要求されるレシピはいくつかあり、効果的に役に立つものが多い。しかし、それらの材料は――有用な薬の材料なので必然的に――高い。そんなものを使って練習などしてたらあっという間に家計が崩壊してしまう。

 そんな中で唯一この薬だけが安価な材料で作る事ができる。練習に最適というわけだ。

 たまたま依頼がなく、暇だったのもある。普通にもっと役に立つものを作ればよいのだが、そういったものは在庫が十分にあるか、材料が希少で作れないかのどちらかである事がほとんどだ。ならばこういった練習をするのも今後のためには有用だ。

「ま、どんな効果だろうと私達が使える手段が一つ増えた事は間違いないじゃない。」

「いや、まだ一回しかできてないでしょ。あと何日付き合わされるの私。」

「一回で感覚は掴めたから、後は私の慣れの問題だから一人で大丈夫よ。」

 ちなみに練習していたのはマリアベルである。私はこの調合方法はとうにマスターしている。

 魔法薬を作らない、作れない魔法使いというのは少なくない。いつでもどこでも使える現象術に比べて「物」が必要な魔法薬はそれほど重視されていない。

 現象術が使えない私にとっては数少ない魔法使いとしての手段なのでしっかりと身につけている。魔法薬については姉より詳しいのだ。

「どうせ学校休みで暇だったんだからいいでしょ」

「いやいや…街に出かけてミリィ達と遊ぶつもりと言ったはずだけど?」

「相手の都合が悪かったと思えばどうってことないわよ」

 この姉に出来立ての薬を飲ませてやろうか。とはいえ私は解除できないので、治すには実家に戻るしかない。そうなると姉を実家まで持ってくのは…私か。やめておこう。

「…まぁいいや、外で鍋洗ってくるよ。今日はもう何も手伝わないからね。遊びに行くんだから。」

「わかったわよ。それじゃ私はとりあえずお茶淹れとくわ」

 …いや、それならどちらかといえばマリアベルが鍋を洗うべきではないだろうか。とはいえ言い出したのは私だ。やれやれとため息をついて家の外に出るため玄関に向かう。家の側には池がある。家の中の水は全てここから汲み上げるようになっている。そんなところで洗い物をするのはどうか、と思われるかもしれないが、そこそこ大規模な浄化魔具を設置しているので、池に強力な毒物を投げ込むくらいしてもせいぜいお腹を壊す程度で済む。気をつけさえすれば実験器具の洗浄くらいどうということはない。

 私はドアを開けて玄関から外に出る。そしてすぐに中に戻ってドアを閉める。

 私の妙な行動に姉が首を傾げる。

「なにしてんの?」

「キマイラがいる。」

「え、うそ。」

 姉が再度玄関のドアを開け、覗き込む。私はその後ろから。

 池を挟んでちょうど家と反対の位置に、ワイン樽ほどの大きさにうずくまった動物がいた。

 一見すると大型の猛禽類だが、肩辺りで羽毛から大型ネコ科の身体に変わる。背には不釣り合いな羽が生えており、尻尾は鱗のある蛇そのもの。

 見間違いではなかったようだ。キマイラだ。

 動く気配はない。どうやら眠っているらしい。

「あら、本当。珍しいわね」それを見た姉が呑気に言う。

 キマイラは、二種以上の生物の合成生物だ。そんなものが自然に発生することなどない。もちろん魔法使いの産物だ。とうの昔に製造が禁止されており、新たに作られることはない。それでも稀に発見報告が会議にあがることはあった。過去に造られたものの生き残りや同種のキマイラ同士での繁殖が行われているのか知れないが、今現在においても、ごく稀に発見の報があがる事はあった。

 そんな生物が今、家の前にいる。

「せっかくだし、近くで見てみましょうか。」

興味深そうにマリアベルが言う。マリアベルも実物を見た事はないだろうから気になるのだろう。

 何種類混ざっていようとも獣は獣であるから、魔法使いにとって脅威な生物ではない。しかしそれは現象術で身を守れればこそだ。

 それがない私にとってはただの獣でも危険だ。そこらにいる獣なら飛べば追って来れないが、そこにいるキマイラは翼がある。力を持つ獣に追いかけてこられるのは、身を守る手段を持たない私にとって十分な脅威となる。

「やだよ。私は現象術使えないんだから。」

「私の側にいれば平気よ。こんな機会まずないわよ。」

 そういってマリアベルが私の手を掴み、キマイラの側まで引きずって行く。手を伸ばせば触れる程の距離まで近づき、マリアベルはキマイラをしげしげと眺める。

「うん、よく聞く鳥獣タイプね」

 キマイラは魔法使いが獣を合成して作るが、そもそも元の動物のパーツをそのまま繋げているわけではない。目の前のキマイラにしたって猛禽の顔は元の鳥類のサイズでなく獅子の身体にあったサイズになっている。そのようにパーツによって調整を行うが、調整を行った結果がなんでも混ざるわけではない。

 いや、混ざるには混ざる。だが、生物として活動できるかどうかは別だ。失敗すれば気持ちの悪い肉塊に成り果てる。安定して合成できるパターンというのは幾つか知られている。その中の一つが目の前にいる猛禽の頭部と翼、獅子の胴体、蛇の尾を有するこの鳥獣タイプだ。

 …それにしても、他者がこんなに近くまで近づいても起きないとは。この獣には獣としての警戒心はないのだろうか。

「初めてキマイラ見たけど、継ぎ目なく綺麗に繋がってるもんだね…。この、尻尾が蛇ってなんか意味あるのかね。毒蛇ならまだしも、この蛇は毒もない種類じゃない。噛まれても大した事ないよ。」

「あー、このタイプで毒蛇にすると自分の毒で死ぬらしいわよ、確か。」

 なるほど、それでは毒蛇にするわけにはいかない。

「なんか合成って結構綱渡りらしいんだよね。安定してるって言われてるこのタイプでも、蛇を入れないと失敗するんだって。だから要らなくても入れなきゃいけないとかなんとか。」

 禁止されている分野なので姉も聞き齧った程度なのだろう。説明はしてくれるものの普段に比べて曖昧かつ雑な説明だ。

「グ…グゥ…」

 観察しながらそんな事を喋っているとキマイラが軽く唸った。目を覚ましたようだ。声を潜めるわけでもなく話していれば無理もないことだ。

 大きな獣はのっそりと首をもたげ、反対側を見てからこちらを見る。その目が大きく見開かれる。襲いかかってくるか、と身構えた。と言っても私にできることはない。

 ところが、キマイラは大きく飛び退る。

「な、なんだお前ら!」

「え、ティエリア?」

「ちが、私じゃ…」

 予想だにしない出来事に私達が狼狽えていると、キマイラは身を翻し、私達とは反対の森に飛び込んで行ってしまう。数瞬の出来事に、キマイラが消えた後を私達姉妹は呆然と眺めていた。

「行っちゃった、ね…。」

「そう…ね…。」

 獅子の体躯とは思えないほどに俊敏な動きをしていた。今から追跡するのも容易ではないだろう。いなくなってしまった以上、どうする事もできない。気を取り直して鍋洗いを再開しようかとも思ったが、キマイラが戻ってくるとまずい。鍋洗いはマリアベルに任せ、私は家の中でお茶を淹れることにする。鍋を洗い終わって戻ってきたマリアベルにお茶を出し、私もテーブルに着く。

「観察なんかしててキマイラを取り逃がしちゃって。バレたらまたうるさいんじゃないの?」

 キマイラについては「会議」より、見つけたら処分するよう通達がされている。言ってしまえば、彼らは魔法使いの負の遺産だ。自然界に在るべきはずがない、在ってはならない存在を創り出してしまったのだ。やはり人間の目に触れるようなことがあってはならないというのが理由だ。

 基本、同種がいないので繁殖もほぼできない。なので放って置いてもやがて絶滅するのではあるが、それまで気長に待ってもいられないのだろう。とはいえ言ってしまえば管理できていない野生動物だから、たまに人の間で話題になることがある。会議の尽力もあっていつも「オカルト話」で済んではいるが。

「そんな事言ったって、逃げちゃったものは逃げちゃったんだから仕方ないでしょう。そんな事で文句を言われたって痛くもない。ま、別に私は処分しようなんて思ってなかったけどね。よくわからない生き物にされた上に処分されるとか可哀想じゃない」

「ま、お姉ちゃんの事だからそうだろうと思ったけどね。」

 と、お茶に口をつける。まぁ及第点か。ところで、とカップを置きつつマリアベルも気になっているであろう事を問う。

「なんでキマイラが喋ったの?」

「そこよね、問題は」

 姉は椅子に座り直すと続ける。

「記録にないわけじゃないの。キマイラって複数の動物を合成したものでしょう。」

「そうだね。…って、まさか」

 嫌な想像が浮かぶ。マリアベルも私の想像を察してうなづく。

 「知性のある動物を混ぜた場合にそういうものができる事が有り得る、という記録を見たことがある。確実性はないそうだけど…。言葉を持った知性を持つ動物なんてこの世に二種しかいない。」明言を避けずともわかる。私達と人間。

「…そんな事をしてなんになるの。」

「キマイラはあくまでも動物だからね。作ったところで言う事を聞くわけでもない。でも、意思疎通ができれば言う事を聞かせることができるかもしれない。そのためには「意思疎通の出来る動物」を材料に加えてみれば可能なんじゃないか、そういう単純な発想。それでも思いついたら試してみる。昔なら散々やられててもおかしくはないわね。」

 胸の悪くなる話だ。魔法使いが人間を実験に使うのは、昔はよく行われていたことではある。だがそんな事までやっていたとは。想像してみるといい。ある日突然、自分が全く別の生き物に作り替えられる。そんな事をされるくらいなら素直に殺される方がまだましだ。もっとも、他の実験に使われた人間がそれより素直に殺してもらえたかは、また別の話ではあるのだが。

「あくまでも過去の事例。あのキマイラがそうなのかはわからないわ。でもまぁそれは本人に聞いた方が早いわよね。」そう言って席を立つマリアベル。

 と、足音を立てないように浮遊して玄関のドアに近づき、ドアを勢い良く開く。

 ドアは鈍い音を立て、僅かに開いただけで止まった。途中で何かにぶつかったようだ。と、同時に外から変な声が聞こえる。不意に何かにぶつかったような時の声。

 ドアが改めて開くと同時に、待ちなさいよと言いながらマリアベルは外に飛び出す。私も気づいてはいた。あのキマイラは扉の側で聞き耳を立てていたのだ。私は構わずそのまま茶を啜る。こういう荒事で私にできることはない。姉に任せるに限る。

 程なく、外から喚く声が聞こえてくる。私はカップを置いて外に出る。

「くそ、なんだこれ、放せ」

 そこにはマリアベルと、太い蔦でもがく事もできないほどに絡め取られた先程のキマイラがいた。

「落ち着いて、落ち着きなさいって。別に捌いて塩漬け肉にしようってわけじゃないんだから。」

 暴れようとするキマイラをなだめようとするマリアベル。だがキマイラの方は聞く耳を持たないようだ。動けない身体で変わらず転げまわる。急に追いかけられて雁字搦めにされて暴れない者なんていないだろう。マリアベルは大きく溜息をつく。

「わかったわかった、じゃあ一個だけ質問に答えて。そしたら放してあげる。」

 と、キマイラがマリアベルを見て動きを止める。つまり、喋るだけではなく言葉も通じているということだ。信じていいのかどうかを判断しようとしている様子は人間を彷彿とさせる。その様子を見て姉はうんうんとうなづく。

「じゃ、質問。あなたはもしかして…人間なんじゃない?」

 それを聞いたキマイラが眼を見開き、マリアベルを見つめる。これはどうやら当たりのようだ。

「解いてあげるから、話を聞かせてよ」

 

「おれはリック、ライネストの村の農夫だ」

 家の中に入れるには大きかったので、私達は彼の話を家の外で聞くことにした。リックと名乗った、そのキマイラの拘束は既に解かれていたが、暴れる様子はなく前脚を立てて座っている。

「ライネスト…っていうと確か、西に三百キロ程の場所だね」

「そんなにも来ちまったのか。無我夢中だったからわからなかった。」

「何があったの?」

「…正直なところ、おれにもよくわからない。あった事を順に話していくが、それでいいか?」

 私達はうなづく。

「もう何日前になるかわからないんだが、畑に向かう途中だった。途中まではなんともなかったんだが、村から少し離れた辺りで、妙な霧が出てきたんだ」

「妙な霧?」

「ああ。霧のようではあったんだが、白くなくて、むしろ黒いっていうか毒々しい色でな。それがやけにおれにまとわりついてきて、気持ち悪くて払おうとしたんだが全然取れない。そのうち意識が遠くなっていって…」

 私はマリアベルと顔を見合わせる。間違いなく魔法だ。眠らせる現象術の一つにそういうものがある。

「それで、どうなったの?」

「気がついてから何日か…まるで水の中にいるような状態だった。外に誰か男がいたみたいだったが、顔まではわからない。よく見えなかったからな。ある時、そこから水が抜けて動けるようになった。外に男はいたが、おれが起きていることには気づかなかったみたいだ。その隙にそこから飛び出して逃げてきたんだ。それが三日くらい前の話だ。最初は村に帰ろうと思ったんだが…自分の手脚と川に映った自分の姿を知って…わけがわからなくなって…」

 それまで淡々と話していたリックが顔を上げる。

「なぁ、あんた達にはわかるのか?おれがどうなっているのか。本当にこの獣のような姿がおれなのか?」

 信じられないのも無理はない。ある日起きたら自分が人の姿をしていない。それはどれ程の恐怖だろう。事実を受け入れられず発狂したとしてもおかしくはない。

 姉は、重くうなづいて肯定し、続ける。

「あなたがそうなった理由は、私達には検討がつく。けれど戻れるかは…わからない。」

 姉は正直には言わなかった。実のところ、元に戻る事は絶望的だろう。キマイラの製造自体は昔行われていた事がある分、情報を得るのは難しくない。とはいえ、それはあくまで合成に関するものしかない。キマイラの分解など試した例があるとは思えない。わざわざ合成して作ったものを分解する意味などある訳がない。

 たとえそれぞれの部分を分ける事が出来たとしても、今となってはそれぞれの生物の身体が残らず揃っている訳ではないし、合成するための「調整」がされている可能性もある。外見から想像できるのは、人間の部分は脳…会話ができることから声帯辺り…くらいしか残ってはいないのではないだろうか。それをそのまま伝えるのは、私にもできない。マリアベルならばなおの事だろう。

「わからない、だって?」

「戻れるかどうか、できる限り調べてみるわ。他の連中にも当たってみる。集まりは明後日の夜だから、すぐってわけにはいかないけれど。それと、正直前例があるとは思えない。期待はしないでね。」

「…わかった。だが、それ以前におれに何が起こったかは、わかると言ったよな!?教えてくれ!!」

 ただ戻れないかもと言われただけでは納得できるものではないだろう。そうだね、と答えつつマリアベルに目をやると姉もうなづく。

「どこから話したものかな…そうね、まず言ってしまうと私達は人間じゃない。」

「なにを言ってる?あんた達が人でなければなんなんだ?」

「一番近いところで言えば…あなた達の言うところの魔法使い。ただ「魔法を使う人間」ではなくて、人間と似ている別の種族。」

 そう言って軽く浮かび上がってみせるマリアベル。リックが驚愕の表情でそれを見つめる。

 私達魔法使いのことから始まり、リックの説明から魔法使いに捕らわれたこと、リックの見た男は魔法使いであること、そして…リックがキマイラ製造の材料とされたであろうことを伝えた。

「…信じられないことばかりだが、理解はできた。おれは魔法使いによってこの姿にされたんだな。じゃああの男がそれなのか。」

「あの男?」

「水の中にいる時に見えた奴の事だ。」

「ふむ…確かに話からすると、そいつが元凶の線が濃厚ね。」

「…そうか。」

 リックが硬い表情でうなづく。リックの考えていることは聞かずともわかる。どうやってその魔法使いに復讐するかを考えていることだろう。元に戻れるのならばまだしも、そうでないのならば怒りのぶつける先はそれ以外にない。わかるからこそ、私はそれを止める。

「先に言っておくと、あなたはそいつに復讐する事はできないよ。」

リックが私を睨む。

「何故だ。お前達が同じ魔法使いだからか?」そうじゃない、と、かぶりを振って否定する。

「私達はそんな魔法使いが誰に殺されようと構わない。自業自得だしね。でも答えは単純で、リックでは復讐を果たせないからだよ。死にに行くだけになるとわかっていて、行かせる事はできない。」

「そんなのは、やってみなければわからない!」

 そういうだろうとわかってはいたものの、やはり説明しても止まる気はないようだ。こんな姿にされて冷静で居られるわけがない。その気持ちはわからないでもない。だからといって魔法使いに喧嘩を売ろうとするのを見過ごすわけにはいかない。

 リックと私の様子を見ていたマリアベルが、じゃあこうしましょう、と切り出す。

「魔法使いを殺せるかどうか、試してみるといい。私が練習台になってあげる。」

 マリアベルの提案にリックは怪訝な顔をする。

「そんな事をして…間違って怪我でもしたら大変だろう。」

「そんな間違いは起こらないわ。絶対にね。仮に怪我したとしても死ななきゃおおよその怪我は魔法で治せるから気にしなくていい。魔法使いと戦うっていうのがどういう事か、知っておいても損はないでしょう?貴方から見たらただの小娘にしか見えない私にかすり傷一つもつけられなかったら、落ち着いて私達の言う事を聞いてほしい。」

 躊躇いながらも、彼は納得したようだ。

獲物に飛びかかろうとする獅子のように身構える。

 対するマリアベルは構えすらしない。ただ立っているだけだ。

「じゃあ、始めて」私が模擬戦開始の合図をする。

 すると、マリアベルは辺りをきょろきょろと見回し、目についた小枝を拾い上げる。そして無造作にリックに近づいていった。対するリックは身構えたまま動かない。そして、マリアベルは手にした枝をリックの眼の前に突きつけた。

「私はこのまま、この枝であなたの眼を抉ることもできる。でも、あなたは動けもしないでしょう?」

 リックが身構えた時点でマリアベルは魔法でリックを拘束していた。これはごく簡単な現象術で、魔法使いであれば魔力の操作だけで――つまり私でも――破れる。そんなものでもリックには致命的だった。

 マリアベルは元の位置に戻る。と、リックが動き始めた。

「もう少し、試してみましょうか。今度は動きを止めたりはしないから、かかってきて」

 リックが動いた。獣の俊敏さで一気に距離を詰め、飛びかかる。リックの前足の蹴爪がマリアベルに触れるかというところで止まった。止められたのだ。

 マリアベルが軽く手を振ると、リックは後方に軽く飛ばされる。空中で体制を整えると着地せずにそのまま突っ込む。今度は直接マリアベルに飛びかかるのではなく、マリアベルの横を通り抜けた。そして後ろから飛びかかる。

 マリアベルは振り向きもせず、身を翻して避けた。攻撃はマリアベル自身には当たらなかったが、遅れてついてきた後ろ髪がリックの爪で少しばかり切り落とされる。失敗したという顔をして切り落とされた箇所を見やる。髪を切らせるつもりはなかったのだろう。

 その隙にリックが再度飛びかかる。

 だが、やはりマリアベルに届く寸前で壁にぶつかったように弾き返される。二、三度同じような事を繰り返したところで、マリアベルがリックを止めた。

「防御されれば傷つける事は出来ないし、攻撃されれば防ぐ事もできない。対抗できるのは同じ魔法使いだけ。それが魔法使いなの。」

「くそ!なら、おれはどうすればいい!このまま泣き寝入りしろってのか!!」

 姉の言葉にリックは悲痛とも言える声で吠え、前脚を力任せに地面に叩き付ける。何度も。

 私はリックの側に行き、そういう事じゃない、と背に手を置く。リックが私を見上げる。

「違うよ。私達は、あなた一人では行かせられないと言ってる。この事は私達にとっても放っておいていい問題じゃない。まずは落ち着いて。」

「…どういう事だ」

「私達には私達の掟がある。禁止されているキマイラの製造を行った者を、私達魔法使いは決して放っておいたりはしない。その者は処罰されなければならない。まずは明後日の話まで待って。この件については私達も力を貸すから」

 すぐにでも動き出したいのだろうが、先ほどの模擬戦を結果を思い返したのだろう。渋々ながらもその場に座り込む。

「…お前らの言う事が嘘とは思えないし、おれだけじゃどうしようもない事はよくわかった。従うよ」

 それを聞いてマリアベルがよかった、とうなづく。

「ここに来る人なんてまずいないから、明後日まではここにいるといいわ。」

そうそう、と続ける。「あなたに出せる食事はないから、森で適当に調達してね。」

 確かに、リックには食事が必要だ。しかもこの体躯。1日にどれくらいの量が必要なのだろう。

「なんだ、客人扱いはしてくれないのか?」と冗談めかしてリックが言う。

「うちには食べ物自体がほぼなくってね。私達、食事をしなくても生きていけるから」

 その一言にリックは目を丸くする。生物なのに食事をしないのはやはりおかしいものなのだろう。

「本当か。食い物の心配が要らないっていうのは…羨ましいもんだな。おれ達は食うために働いているようなものだし。そういや腹が減ったな。ここまでの間、何も食ってない。」

 私とマリアベルは顔を見合わせ肩を竦めた。


 私がリックに森の中を案内してあげる事にした。自分達で取る事はまずないが、果物や獲物になりそうな動物の居そうな場所はわかる。森の中を獲物の形跡を探しながら移動していると、リックが質問をしてきた。

「お前達はこんな森の中に住んでいて何をやっているんだ?」

 狩りの最中に会話するというのはどうなのだろう。猟師でない私にはよくわからないが、普通に考えればしないだろう。

 まぁ果物がいくらか取れれば問題ないし、果物は人の声で逃げはしないだろう。

「なに、って言われると…そんなに変わったことをしてるわけじゃないよ。私は普段レインサイニスの学校に行ってる。」

「レインサイニス、聞いたことあるな…あー!タルコの息子が都会に出るって行った街だな!!でも、ガッコウ?なんだそれ?」

 学校自体はそれほど浸透しているものではなく、特に小さな村では家業の農作業や畜産に追われ教育は行われていないところも多い。リックが知らないのも無理からぬことだ。学校について説明してやると、そんなもん必要なのお貴族様くらいだろうに、と言った。

 確かに実作業がメインの村では軽視されてしまうのも理解はできるのだが、大人がこの認識では教育が行き届くようになるのはまだ先だろう。もっともそれは人間の問題だ。私達が気に掛けることではない。

「それ以外だと…人の願いを叶えて回ってる。」

「願いを、叶える?御伽話みたいな?」

「願いを叶える、っていうと大袈裟過ぎるかな。正しく言えば、願いを叶える手伝い。お伽話みたいに杖を一振り、灰まみれの服から美しいドレス姿に、なんて全くない。あくまで私達にできる範囲で願いを叶えてるっていうところだね。」

 どうしてそんな事を、と問うリックに私達の目的を説明する。

「そんな事情があるんだな…。じゃあおれの願いも叶えてくれよ。元に戻る…のは無理そうなんだったか…じゃあ例の魔法使いを退治する、ってことで。お前達もただ手伝うだけじゃなくなるしやる気もでるってもんだろ?」

「ん…そうだね。うまくいったらそうさせてもらおうかな」

 そうは言ったものの、彼の本当の願いは元に戻ることだろう。アータイルの一件ののちに幾らか依頼をこなしてわかったのだが、灯火は心の底からの願い以外にはほとんど反応しない。その魔法使いが処罰されてもあまり大した成果にはならないだろう。

 とはいえ、塵も積もればというのもある。回収させてもらえるならそうしたいが…。

 と、行く先に獣の気配を感じた。リックも獣としての感覚で察したようで身構えている。おそらく鹿だろう。私達は茂みに身を潜める。とはいえ喋りながら歩いてきたのだ、既に警戒されてしまっているだろう。

「…狩りはお前がやる方が早そうだな?」

 マリアベルがリックに使ったような魔法についていっているのだろう。確かにあれならば、確かにここから動かず捕まえることができるだろう。しかしあれは現象術だ。私には使うことはできない。

「あーごめん、私はお姉ちゃんみたいなことはできないんだよ。魔法使いには間違いないけど、出来損ないなんでね。できる事は人とそんなに変わらないんだ」

 そうか、と私の無能さを咎めるでもなくリックが言う。

「人と変わらないならそれで十分な事だろう。…なら、おれがやるしかないな。」

 しかしリックは動こうとしない。どうしたの、と問うと「この身体でどう狩ればいいんだ?」と答えが返る。

「そりゃあまた…難しい事を聞くね…。」

 人間としての意識である以上、獲物の捕まえ方などわからなくて当然だろう。だがそれはこちらとて専門外だ。リックの身体から想定される攻撃方法を想像する。まずはとにかく追いかけて…首に噛み付く?いや嘴だから突くのかな…?気になるなら前脚で叩き殺す…?口に出していると、やな方法だなという顔をされた。

「方法はなんでもいいけど、やらなきゃ食べ物なしだよ。やるしかないでしょう。」

 リックは覚悟を決め、茂みから飛び出す。獅子の体躯でこの森の中で狩りができるのかとも思っていたが、初対面で逃げた時のようにその動きは驚くほど速く、鋭かった。

 鹿はすぐ気づき、身を翻す。が、ろくに走ることもできずにリックに追いつかれた。

 前脚に蹴られ、倒れたところを抑え込まれる。鹿は必至にもがいていたが、それを片脚で抑えるリックには余裕すらありそうだ。元の獣とは比べものにならない能力。これがキマイラか。

 そのまま首を押さえた足の力を込めると、鈍い音が響いた。首が折れたようだ。嘴で刺したりするよりはスマートな方法だろう。

「すごいすごい、あっという間。」追いついて賞賛する。

「手で骨を折る感触は遠慮したいもんだがな。まぁやってる事は鶏を締めるのと変わらないか。ともかく、さっさと持って帰って解体しないとな」

 そう言いながらも、リックは獲物の周りをうろうろするだけだった。何をしているのだろう。

「…どうやって持っていけばいい?」

「背中に載せればいいんじゃないかな?」

「……無理だ、背中まで手が届かない。載せてくれるか?」

「いやぁ普通に無理でしょう、そんな重いの持ち上げられないよ。咥えていけないの?」

「やりたくないな…。」

 人間の基準であるがゆえに、獣のままだったら心配しなくていい事が気になってしまうのだろう。かといってこのまま放っておいたら鹿も殺され損だ。流石にそんな真似はしたくない。

「そうだ、こうしよう」ふと思い立ち、交魔術を使って馴染みの死霊を呼び出す。リコだ。

「リコ、あの鹿を動かせる?」

 リコはうなづく素振りを見せ、横たわる鹿に潜り込む。と、首が折れたままの鹿が立ち上がる。

「お、おぉ…どうなってんだこれ。さっきの小さい奴のせいか?」

 リコは私達にしか見えない。それがキマイラには見えたのか。いや、もしかしたら人間だけが見えない、という可能性もある。それはそれで興味深い。

「…っと、そうだよ。あの子は死体を動かす能力を持ってる。そういった、色んな事ができる者達を呼び出せるのが私の魔法。お姉ちゃんはこれができない。私はお姉ちゃんの使うような魔法が使えないってわけ。普通は両方できるのが当然なんだけどね。」

「じゃあ二人でいるとちょうどいいって事か。」

「ま、そうとも言える。私の方は使いづらいんだけどね。基本、見ず知らずの誰かに頼み事をするのと同じようなものだから。」

 リコのおかげで獲物を家に持ち帰ることができた。しかし、本当に大変なのはそれからだった。

 まずは獲物を解体をしなければならなかった。リックはやり方を知ってはいたものの、道具が使えないので自分ではできない。大人しく丸焼きで我慢してと言ってみたが、頑なに断られた。

 しかたなく、リックが手順を説明しながらマリアベルが解体を行ったが、解体作業は食欲の失せる光景だった。もちろん、実験材料として動物を解体することもある私たちだが食用にする大型動物とはサイズも手順も違う。解体するマリアベルもあまり獲物を見ないようにしながら――もちろんナイフではなく魔法で――作業を行った。

 そしてようやく解体作業が終わった後も、すぐには食事にありつけない。形態上、リックは生肉でも食べられるはずなのだが、やはりそのまま食べる気にはなれなかった。もっともそれができるのであれば解体すら必要ないのだから当然と言える。

 では調理すればいいのかとなると、そもそも食事を必要としない我が家には料理道具も調味料の類もほとんどないという始末だ。

 仕方なく私とマリアベルが街に買い出しに行くことにした。

 せっかくの機会ではあるし、調味料以外にも食材を一式揃えて料理を作ってみることにする。結構な出費となるが最近は簡単な依頼をそれなりにこなせているから以前のように家の財政は逼迫しているわけではない。少々嗜好品を楽しむくらいの余裕はある。

 とはいえ、それらの依頼は灯火の足しにはなっておらず、ただの便利屋をやっているような状態なので歓迎できるわけでもない。

 調理自体は手順さえわかれば道具も必要なく、現象術ですぐに終わらせる事もできる。しかし今回人間がするのと同じように調理を行った。食べるまでの苦労を一通り知っておこうというわけだ。

 結局、食事ができたのは昼下がりの頃だった。リックだけでなく私達もその料理を食べた。流石に店での食事には及ばないが美味しい鹿料理が出来上がったと思う。

 しかしその手間たるや。人間の食事を用意するのはこれほど手間のかかるものなのか。たまに友人と並べる食卓にこれほどの苦労が詰まっているとは思いもしなかった。

 できた料理は結構な量だったが、リックはそのほとんどを平らげた。空腹だったのもあるだろうが、この調子では明後日の話が終わるまでにはもう一回狩りにでなければならないだろう。ちなみに味へのリックの評価は「取り立てて可もなく不可もなく」だそうだ。おそらく味覚が違うのだろう。多分。


「それで、会議にはどう報告するの」

 リックが食後の睡眠をとっている間、私は懸念していた事をマリアベルに聞く。

 元に戻す方法については、いくらでもリックの事を隠して聞けるからいいのだが、問題は、リックが見たという件の魔法使いへの対応をどうやって進めるかだ。

 キマイラ製造は禁止されている以上、それに違反した場合は処罰対象となる。間違いなく死刑となるだろう。処罰対象の魔法使いには、会議から対魔法戦装備を備えた執行部隊が差し向けられる。そうなれば放っておいても部隊は刑の執行を完遂するだろう。リックが危険を冒して復讐する必要はない。

 だが、部隊を派遣するためにはまずその必要性を会議へ伝えなければならない。今回の件をそのまま報告してしまうとリックというキマイラの存在が会議に伝わる事になるだろう。

 そうなれば彼は魔法使いに命を狙われる。

 いやそれ以前に、一番近くにいる私達こそがリックを殺さなくてはならなくなる。キマイラ排除はリックとて例外ではない。人間の意識があるかなど、魔法使いにとって問題ではない。逃げられたと言えば、おそらくその部隊がそのまま追跡に移り、リックを殺すだろう。逃した私達は私達でそれなりに罰を受けるだろう。

 最悪、普段の私達の言動からすれば「逃げられた」ではなく「逃した」と判断される可能性もある。正直な報告はなしだ。

 では報告をせずに自分達で解決するとなれば、今度は私達自身に危険がふりかかる事になる。捕まれば死刑とわかっている魔法使いが大人しく捕まる訳がない。当然、戦闘になる。

 魔法使いの戦闘能力は誰であってもそれ程差はない。私達が例の魔法使いを処罰することも不可能ではないが、逆に私達が返り討ちになる可能性も十分ある。

 実行部隊の対魔法戦装備は会議が管理しており、必要時に貸与される。更に複数人数で行動する事で処罰対象者に対して圧倒的に優位に戦闘をする事ができるのだ。対魔法戦装備は実物、製造法ともに会議が秘匿・管理している。自分達で作る事はできない。

「悩みどころね…どうすればいいと思う?」

 マリアベルがそのまま質問を返す。今のところ良い手がないのだろう。対して私は自分の考えていた案があった。

「会議には報告する。けど部隊は派遣させない。処罰は私達でやると提案する。」

 続けて、と促すマリアベル。

「部隊を不要とする代わりに、私達が装備を借りる。これなら比較的安全に戦えるし部隊が来ないのならリックの事もばれないし、キマイラの処分報告はどうとでもなるでしょう」

「そうね。けれど、爺共が理由なくそれを認めるとは思えない。」

 そこで私は両手を上げる。「そう、それが思いつかなくて。」

 実行部隊は常に存在しているわけではなく、会議の取り決めにより次回出動を割り当てられた魔法使いが有事の際に派遣される。義務なので拒否はできない。明確な理由なく派遣される、されないを指示するのは駆り出された事のある者にも、駆り出される者にとっても不平の種となる。会議自身がそんな種をばら撒くわけにはいかないだろう。

 二人で椅子の背もたれに寄りかかって思索を巡らす。

「……すごく嫌な方法なら思いついた」姿勢を変えず、マリアベルが呟く。

「とりあえず、聞かせて」

「ライネストのあるロンディオ領は元々、姉さんの管理領。今は私達の能力不足を理由に保留されているけど」

 魔法使いは、属する家系によって一定の地域を領分として受け持つ。自分の属する領分を出て他人の領分に踏み入る場合は必ずその両方の領分を管理する魔法使いに通告が必要になる。また、領分の魔法使いの許可なしにその領分で魔法を使用する事が許されない。

 私達の姉、ミレニアはこのレインサイニスがあるレインサイニス領と、それに隣接するロンディオ領の二つを管理領としていた。所属魔法使いは私達姉妹の三人のみ。ミレニアの失踪後、管理は妹であるマリアベルの管理に移ったが、会議は未熟なマリアベルがこの二つのエリアを管理できるのか疑問を呈し、ロンディオを一時的に会議預かりとした。

 正直、領分の所有自体は私達にとってはどうでもいいが、ミレニアから受け継いだものとなれば別だ。不平を述べたが、私達は半人前扱いだ。その内の返還は約束されたものの、会議預かりとなることを拒否はできなかった。

「それを私達の手に戻すために、今回のロンディオでの事件を私達だけで解決するっていう理由、ねぇ…。」

 筋自体は通っているが、基本的に実験以外での不確実性を魔法使いは嫌う。この場合、私達だけで本当に解決できるのかと問われると弱い。特に私はお荷物扱いになる。

「だけど、それを喜んで受け入れる奴が会議にいるじゃない」…あぁ、と、私はあからさまに眉間に皺を寄せる。

 会議において発言力を持ち――あっても他の魔法使いが羨むかは別だ――私達のこの提案を嬉々として推薦するであろう者がいる。根拠について問われてもその者がバックアップする、と言えば話は通るだろう。

 だが、私達姉妹が特に嫌悪する魔法使いだ。そいつをあてにするのは癪だったが、リックのためを考えるとそれ以上の策は出なかった。

「仕方ないとはいえ、あいつを喜ばせるのは気に入らないな。」

「今回は気にしないことよ。鼻を明かしてやる事なんていつでもできる。」

 マリアベルはそう言って意地の悪い笑顔を浮かべる。どういう事かと聞いても、マリアベルは教えてくれなかった。


 リックが我が家に来て三日目。

 昼食用に私とリックは連れ立って二回目の狩りに出る。

 それなりに明るい森を獣道を辿って歩く。先を歩くのは私だ。危険な獣に出会うと私は対処できないのでできればリックに先を歩いてもらいたいところだが…先日の狩りのような軽い感じはリックにはなかった。話し掛けても曖昧な返答が多い。まさに心ここにあらず、だ。

 当然だ、今日の夜は会議がある。期待するなとは言ったものの、思うところはあるだろう。戻れないなら戻れないで、今後どうするかも考えなければならない。

 実際、どうしたものか。原則、他の者が来ない私達の領分内で生活することは守ってもらわなければならない。そうしなければリック自身は処分対象になるし、間違って私達との関わりが漏れれば私達も危険だ。幸い、ロンディオが私達の領分に返れば生まれのライネストの近くで暮らすこともできる。それが逆に辛いのであれば、それこそこのハウダ森林内で暮らすのもいいだろう。困ったことがあれば私達もサポートできる。

 リックにもそういった話をしておいた方がいいかもしれない。会議の結果にショックを受けていきなりいなくなられても困る。

「…気になる?今日の集まりのこと。」

 少し間を置いて、そうだなとリック。「すまんな、おれの飯のために付いて来てもらってるのに。だがどうしても考えてしまってな。」

「それは仕方ないよ。」

「…考えなきゃならんよな、戻れなかったら…どうするか。」

 幸い、口に出しづらいところにリック自身が触れてくれた。

「どうしたいかは、漠然とでもある?」

「単純に希望を言えば村に帰りたい。だが、この姿で戻る訳にもいかんだろうな。」

 そうだね、と私。「村では無理だけど、村の近くで暮らしたい?」

「そこまでは。村の連中と居られないなら村にいる意味はないだろ。」

「いっそこの森で暮らす?それなら私達もサポートできる。」サポート?と問うリック。「そう。例えば…流石にうちの家に住むのはあれだから…近くにリックの家を作ったり、リックでも解体調理できる道具を揃えたり。」

リックがクッっと笑う。「なるほど、そりゃありがたいね。」

 あとは…何かないだろうか。リックのためにできること。

「そうだ手紙!村の人と手紙のやり取りなら手伝える!」

 リックが顔を上げしばし私を見つめる。どうかな、と問うつもりで小首を傾げてみせる。

「…そうか、会うことができなくても、か。そうだな。」

 心なしか、声が明るくなった気がする。村の人達との関係を残せる。それは何もかも失ったリックには必要なもの。事件が片付いたら、隣人が増えるわけだ。少々忙しくなりそうだ。もっとも、大変なのは姉であって私ではないのだが。

「あ、まずいな…。」

「どうし…これか、なんか匂いがするな。」

 うん、とうなづく。「これ多分熊だ。」

 熊は食用にはできる。だが、とリックを見る。狩れるのだろうか?確かにリックの能力は驚異的ではあった。だがハウダ森林に生息する熊は直立すると2メートル以上と大型だ。私の見立てでは狩れると思うが、鹿の時のように軽々とはいかないだろう。それに怪我をした場合、治療はできるのだろうか。リックのパーツごとの動物ならマリアベルも治せるだろうが、キマイラとなっている今の状態がそれらと同じ構造とは限らない。

「私は本当に危ないから上にいる。リックは飛べる?怪我は避けたいから回避したいんだけど。」

「いや、そこまで飛んでることはできないな。それに…大丈夫だ、狩れる。」言うが早いか、リックが森の奥に走り出す。

「え、えぇ!?」

 慌てて私も追いかける。熊のものだろう、獣の争う声が聞こえる。立ち上がった熊と四つ足で身構えるリックが対峙している。

 熊が右前脚をリックに振り下ろす。が、後ろに僅かに跳ね、前脚の射程外に出て避ける。と、逆にリックが左前脚を振り上げる。振り下ろされた熊の前脚が妙な方に跳ね上がる。身体から切り離されて。爪で切断したのだ。のけぞるように悲鳴を上げる熊を飛び越すようにリックが跳ねた。右前脚で熊の太い首を切り落としながら。

 その様子を私はやや上から呆然と眺めていた。

「リック、それ…。」

「ん、あぁ、昨日爪の出し方がわかってな。試してみたら鋭いんで、これがこの身体の武器なんだろうな。」と私に出して見せる。これは爪なのか?確かに獅子の爪の位置から出てきているが、獅子の爪ではない。それどころか、どの生物もこれほど長く鋭利な爪をしていない。どうしてその位置からこの長さの爪が出てくるのか不思議ですらある。

 ティエリア?とリックが首を傾げ、私は我に返る。

「あ、あぁ、熊をこんなふうに倒せると思わなくて。びっくりしただけ。持って帰ろうか。」私はティコを呼び出し、昨日のリコと同じように熊を歩かせてもらう。

 直立し、切り離された脚と首を抱えて、私達の後ろをのそのそとついてくる熊の姿に「これ、夢に出そうだわ…」とリックが呟くのが聞こえた。私も同じ感想だった。

  


 自宅の会議部屋から仮想の議場にリンクする。何もない黒い空間に長大なテーブルが数列並び、多くの魔法使いがその席につき、各々雑談を繰り広げている。私達もその一席に座っている。

「なんだマリアベル、今日は妹も一緒か。珍しい」

 隣席に座る魔法使いが声を掛けてきた。概ね、私は会議には参加しない。基本的に家長が出ればいいのだ。

 と、議場に咳払いが響き、会場が静まる。会議の議長のものだ。それが癖なのかはわからないが、それが、この議長が会議を始める際に必ず行うことだった。

 会議はいつも通りに始まり、いつものように退屈に進んで行った。なにか問題や会議からの通達がなければメインは魔法使いの研究成果報告くらいだ。これもないと五分で終了することもある。というか、その方が多い。正直会議を集まって行う意味などほとんどないのだが、無断欠席は厳罰だ。

 その会議の中でマリアベルが質問する。

「誰か、キマイラを元の獣達に戻す方法を知らない?情報でもいい。何か知っている者がいれば教えて欲しい。」

「キマイラを戻すだと?キマイラがあらかたいなくなった今、そんな事を知ってどうする。」

「どうするかは後で説明する。まずは質問に答えて欲しい。なにも知らないなら口を開く必要はない。」

 誰も何も答えなかった。

「そう、誰もわからないのね。期待はしていなかったけれど。」

 ため息を漏らす姉に、先ほどの魔法使いが絡んできた。

「で、そんな事を知ってどうするつもりだったんだ?御法度のキマイラ製造をして、大事なペットでも混ぜこんじまったのか?」

「キマイラを発見した。それの処分方法として、元に戻す事はできないかと考えただけよ。」

「処分するなら焼却でもすればいい。戻したところでなんになる。」

「私が見つけたキマイラを、私がどう処分するかなんてあんたには関係ない。無駄な質問をしないで。」

 辛辣ともいえる物言いだが、会議の間、というより親類でもない魔法使い間はそんなものだ。私もこいつらに丁寧に話してやる気など起きないし、向こうも知り合いですらない魔法使いに丁寧に接しようなどとは思っていない。

「処分方法については、情報もないなら仕方ない。こちらで適切に対処する。問題は、そのキマイラが最近作られたものである可能性が高い。」

 議場がどよめく。昨今見られない重罪の事案となる内容だから無理もないことだ。動揺が静まったところで、詳細を、と議長が続きを促す。

「キマイラを偶然我が家の前で発見し捕縛した。一般的な鳥獣タイプ。調べた結果、ロンディオ領にあるライネスト周辺から来たものと判明している。ロンディオは現在会議の管理領とされている。何者かがロンディオに入り込み、禁止されたキマイラ製造を行っているのではないか、と考えている。」

 マリアベルの報告に議長が答える。

「由々しき事だ。報告に感謝する。そしてマリアベル・グレイ。その件について調査をしたまえ。ロンディオを管理する会議はグレイ家のロンディオ領への進入、およびその中での魔法使用を許可する。異議のある者は。」

 当然ながら、皆無。皆どうでもいいと思っている。

「承知しました。」

「調査の結果、必要と判明すれば予定人員から執務実行部隊を編成することになる。」

「その点について、私から希望があります。」

 珍しい展開に議長が白い片眉を上げる。「述べたまえ。」

「ライネスト地方は元々、我が姉、ミレニア・グレイの管理する領域だった。前任のミレニアが行方不明となり、私の管理能力に会議が疑問を呈したため一時的に会議預かりとなっている。だが、あれから既に三年が経っているし、そもそも、会議預かりとなっているのに管理者不在に等しい状態なのも適切とは思えない。そろそろロンディオを返還していただきたい。管理能力の証明としては、今回の調査はもちろんのこと、必要な際の執務実行は私とティエリアが二人で実施する。もちろん、執務実行時は対魔戦装備を貸与していただきたい。」

 ふむ、と議長が顎を撫でる。

「希望についてはわかった。しかし、部隊の派遣を差し止める理由としてはな。叛逆罪への対応だ、そこは確実にこなさなければならぬ。その点…」

「よいではないですか、議長」

 議長の言葉を隣に座る女が遮る。私達の予想通り、飛びついてきた。副議長、ノーラ・グレイ。

「姉の後を正式に継ぎたいというのでしょう。昨今の魔法使いでは領分などどうでもいいと考える魔法使いも多い。ならば、そういった魔法使いに任せるよりは、気概のある彼女達に任せる方がよいでしょう。ここは認めてやってもいいのではないですか」

「はっ、あんたは自分配下の領域を戻したいだけだろう。もう一つ増えれば議長の席も目の前だしな。」

 どこの席からともなく、ヤジが飛ぶ。

 会議の議長は、分家を含む家系の管理する領域の数で決まる。要は一番大きい家柄の人間が議長となるのだ。そしてグレイ家は議長のガスト家に次ぐ大家。ノーラはその本家家長なのだ。

 実際の所、議長になったところで何かメリットがあるわけでもないのだが、家柄を重んじるあの女は議長となることにやけにこだわる。その事はここにいる誰しもが知っていることだった。

「…そうだな、お前達二人がそれで良いというなら、副議長も理解を示している事だし承認してもよい。ただし、執行は確実になされなければならぬ。グレイ家がそのサポートをすることを条件とする。」

「承知致しました。我が家が二人を補佐致します。」

「よろしい。次回召集予定だった諸君は予定が先送りされることになる。彼女らに感謝したまえ。」

 提案は思った以上にあっさり承認された。議長もさほどルールに拘る気はないのだろう。案外、議長の座などさっさと誰かに譲ってしまいたいのかもしれない。確かにこんな連中をまとめる立場など、面倒ばかりだろう。

「では、先の通りマリアベル・グレイはロンディオでの調査を行い、報告すること。対魔戦装備については経過報告と共に私に必要数を通知すること。こちらで内容を確認し、必要であると判断したら貸し出す。」

「承知しました。異論はありません。」

 他に議題のある者は、と議長。反応はない。基本的に議題のある者などいない。

「では、本日は以上だ、解散。」

 議長が解散を宣言した直後、ノーラが口を開く。

「マリアベル、ティエリアは残りなさい。」

 周囲の魔法使い達の姿が消えていき、仮想の会議場には三人だけが残った。

 私、マリアベル、ノーラ・グレイ。私達の叔母にあたる。

「マリアベル、ティエリア。これはグレイ家の名誉に関わる事。失敗する事は許されない。」

「ご心配いただきありがとうございます、叔母様。グレイ家の名誉などどうでもよいですが、まずは調査だけですから問題ありません。」

 いきなりの対決モードだが、いつも通りだ。それは向こうもしっかり弁えている。

「あなた達は私の慈悲でグレイ家の席に着かせてあげている。今こそそれに答えるべき時よ。元々ミレニアの不始末で失った領分なのだから、責任をもって取り戻しなさい。」

 姉の不始末、などという言い回しに、私は少なからず怒りを感じる。それはマリアベルも同じだろう。だが、この叔母は私達をただ怒らせるつもりで言っていることも知っている。腹を立ててはその期待に応える形になる。それは更に腹立たしい。

「承知しました。グレイ家の席に加えてくれと頼んだ覚えは私達にもミレニアにもありませんが。」

はぁ、とノーラがこれ見よがしに大きくため息をつく。「そういう反抗的なところはフィエラそっくり。本当に気に入らない。」

「従順であっても、あなたは自分の姉の娘というだけで気に入らないのでしょう。ならば従順さなど相手をつけ上がらせるだけで無駄です。そうしてほしいのなら、相手がそうしたくなる威厳のある態度をお取りになってはいかがですか?」

「どうしてあなた達がそんなに私に逆らおうとするのか、わからない。ミレニアもそうだった。あなた達の母を家から追い出したのは私だけの判断ではない。家長となるべき立場を捨てて人間の男と一緒になるなど、許される筈がないのだから当然でしょう」

「それは関係ない。母は、自身が家を追われたのは当然だと理解している。私達もそれを理解している。私たちは人として魔法と縁なく暮らすつもりだった。それをわざわざひっ捕まえてきてここに列席させたのはあなたです。迷惑もいいところですね。」

「三人もの魔法使いを野放しにする事など出来るはずがない。家族の不始末ならばなおさら。私には立場がある。」

「ならば、そんな立場など捨ててしまえばいい。」

「そんな無責任なことができる訳がない。」

「それができずに立場を優先したのなら、その結果として私達の事も受け入れるべきでしょう。そもそも順番を間違えてもらっては困ります。私達があなたを嫌っていたのではなく、あなたが姉の娘である私達を嫌悪していた。初対面から、明らかにね。そんな行動をとっていれば敵意を抱かれても何の不思議でもない。単純にただそれだけのことですよ。叔母様。」

 ノーラは深くため息をつき、追い払うように手を振る。

「もういい。あなた達が役目を果たしさえすれば何でもいい。支援が必要ならば言いなさい。出来る限りの事はしましょう。下がりなさい。」

「重ねて言いますがグレイ家の支援など不要です。ありがとうございます。必要があれば直接会議に泣きつくことにします。では、失礼。」

 議場が消え、我が家の会議用の一室に戻った。

 今まで支援や協力を申し出てきた事など一度もないというのに、自分の利になることであれば自分のこだわっている事すら投げ捨てる。そういうところも気に入らない。…いや逆に、一番こだわるところになら全て投げ打っているとも言えるのか。

「相変わらず偉そうだね。」

「実際にふんぞりかえるのが大事と思っているから救いようがない。どうせ何を言ったところで聞く耳なんて持たないんだから放っておけばいいわ。予定通りに運んだからよしとしましょう。リックの事は残念だけど予想通りね…。」

 わかっていた事とはいえ、それを彼に伝えなければならないのは気が進まないが伝えないわけにもいかない。部屋を出てリックの元に向かう。

 外に出ると、池の側でリックが腹這いになって待っていた。私に気づくと、と上体を起こす。どうだった、と言おうとしたのだろう。口を開きかけ、すぐに元の腹這いの姿勢に戻った。

「言わなくていい。聞くまでもない。まぁ期待はしていなかったからな、気にするな。」

 確かに、元に戻る方法があったら玄関から飛び出しているだろうな、と思う。

「……気を使わせて悪いね」

 覚悟していたとしても堪えたはずだ。池の方を向いたまま、こちらに顔を向けずにいる。

「…それよりもう一つの方の話は?」

 元に戻る望みがないのであれば、リックにとって今最も重要なのはこちらだ。

「ひとまず、協力はしてもらえる。と言っても直接協力するのは私達だけだけどね。まずは、ライネストに調査に行く。実際にキマイラ製造をしている魔法使いがいるという事を確認しなきゃならない。」

「おれの説明じゃ証拠にならないか?」

「疑ってはいないよ。けど、他の連中に証明する方法にはできない。あなたは既に私達が処分したことになっている。だから、あなたの事は私達だけでなんとかしないといけないけど、そのためには私達だけで今回の事を処理するっていう理由づけがいる。調査はそのため。全て正直に伝えてしまうとリックに他の魔法使いの追っ手がかかってしまうから。」

「……手間をかけさせて悪いな。」

「気にしないで。私達がそうしたいってだけだからね。今日出発するのは流石に遅いから、明日の日没に出発するよ。リックはここで待っていてもいいけど。」

「いや、おれも行く。正確な位置まではわからんが案内は必要だろう。心配するな、お前らの忠告を忘れたりはしない。」

 それに、と彼は続ける。「お前らがいないと、おれは生肉を食わにゃならなくなる。」

 彼の冗談に笑い返した後、彼におやすみと告げて家に戻る。私に気をつかってくれているのだろう。人に戻れない、という事実を告げられても。

 家に戻ってドアを閉める。ドアが閉まる直前、隙間から見えたリックは、変わらず腹這いのまま、池の揺れる水面をただ見つめていた。


 翌日の日暮れ時、三人でライネストに向けて出発した。

 レインサイニス近郊から離れるのは久し振りだ。いや、レインサイニスに来て以来か。他の地域への移動は通告が必要だ。手間のかかる事ではないとはいえ、そんな手間を踏むほどの用事もない。

 そうか、実家にはずっと帰っていないんだな、と実感する。旅費の問題もあるが、以前はずっと灯火のことばかり考えていたから、実家を思い返すこともなかった。機会があれば戻るのもいいかもしれない。

 ライネストに到着するまで出発してから丸三日を要した。私達だけなら一日目に着く事もできたのだが、リックはそもそも飛行することができなかった。体格に対しての羽のサイズの不釣り合いさを考えれば当然と言える。彼の翼は移動手段としてより、脚力で高く跳ね、上空からの滑空攻撃用の能力なのだろう。

 それに、街道を避けて遠回りしたのもある。夜は飛行、昼は徒歩だったがリックと一緒では街道を通れない。

 リックの案内でライネストの村からやや手前の山中に降りる。

「この辺りなの?」マリアベルが辺りを警戒しながら問う。

「ああ。すまんが位置は多分、くらいだ。正確な場所まではわからん。あの時は無我夢中だったしこう暗いと判別できん。それに、この山には村人は来ないから詳しくないんだ。」

 「どうして?」山に入って何かを採集することもあるだろうに。

「立ち入ると帰って来れないって噂があってな」

 もしかしたらその噂は件の魔法使いのせいかもしれない。山に立ち入る人間が居なくなったから、麓まで降りてリックを攫ったとも考えられる。ともあれ、この山だけでも結構な広さがある。曖昧な場所でも手掛かりなしに捜索するよりはいい。

「周囲に魔力の痕跡はないわね。少し移動しながら探してみましょうか。」

 ここからは、その魔法使いが残した痕跡が見つかるまで闇雲に探索を行うしかない。

 周囲の木々は密集という程生えてはいなかった。その分、私達の住む森に比べて下生えが多く歩きづらい。リックの言う通り、人が踏み入る事がないのだろう。

 下生えを刈りながらならもっとスムーズなのだが。移動は捗らない。飛行や明かりをつけることも出来るには出来るが、魔法使いは魔力に敏感だ。相手に気づかれやすい行動は避けたかった。

 しばらく歩き回ったものの、手がかりは得られなかった。夜が明けてから再開しようかと言うところで不意にリックが声をあげる。

「あの高い木…逃げる時にあんな木の側を通った覚えがある」

 リックの向く先に、周囲の木々より背の高い木の影が闇夜に浮かんでいた。リックが通った道があれば、少なくとも住処の方角はわかるだろう。

「まずはあそこまで行ってみて、手掛かりがなければ、夜明けを待ちましょう」

 マリアベルの提案に同意し、その木の所に移動する。周囲の下生えが薄くなっている箇所が二つ。登り方向と下り方向。

「道、ね」

「………?」私は首を傾げる。

 わかりづらいが、確かにそれは踏みならされた道だった。リックもここを通ったのだろう。それは間違いない。だが不自然だ。獣道とは思えない程、踏み慣らされている。何故こんな道が残っている?

「どうしてそう思うんだ?」

「魔法使いは飛べるんだよ?こんな道を残すと思えない。」

 あ、という表情をリックが浮かべる。

 ここまで道らしくなるためには相当にここを通らなければならないだろう。だが、魔法使いはこんなところを馬鹿正直に歩いて進む必要などない。それに、隠れ住む魔法使いは所在は知られたくないはずだ。なにかが通った証拠ともなるような道を残しておくとは思えない。可能性としてありそうなのは…。

「罠?でもそれも…。」

 それはそれで考えづらい事ではある。人間相手に罠を張る必要はなどないし、逆に魔法使いに効果のある罠が思いつかない。そんな罠が用意できるならば、違法行為をしている魔法使いとしては有用ではあるのだろうが。

「なら、考えても仕方ない。他に手がかりもないし、上に行ってみましょう。私からは離れないでね。」

 道に沿って山を登って行く。十五分ほど経っただろうか。中腹で、岩壁が露出している場所に突き当たる。岩壁を回り込んで、さらに登る道を探すが、その先に道は続いてはいなかった。

 と、姉は声を上げずに岩壁を示した。私にも判った。見た目にはわからないが感じる。魔力の痕跡がある。だとすればここが目的の魔法使いの住処と見て間違いないだろう。入り口を擬装しているのだ。

 マリアベルが元の道を指差す。一旦戻ろうということだろう。調査するにも作戦は必要だ。提案に従って先ほどの木まで引き返す。

「さすがにいきなり踏み込むわけにはいかないわね。対魔戦装備もないし」

「今居るかはわからないけど、しばらく監視してみよう。いなくなった隙に中を調べてみればいい」

「最悪数日出てこない可能性もあるけど、それが一番良いでしょう。証拠が見つかれば装備を借りることもできる。急ぐより、安全な方法を取りましょう。」

 マリアベルの提案に私、そしてリックも賛成してくれた。「おれのことでお前らになにかあったら死に切れんだろ。無理強いはしない。」

 岩壁が見渡せるよう、隣の山の尾根に移動し、見張る。

 幸い、そこで数日を過ごすような事にはならなかった。

「出てきた。」

 夜が明けて少し経った頃、岩壁を監視していたマリアベルが言う。見ると、確かに岩壁に穴が空いている。その中から一人の男が出てきた。

「リック、あいつ?」

「はっきりと見えていたわけじゃないし、この距離だからな…。いや、あの背格好…ほぼ確実に、奴だ」

 リックが爪を出して地面を抉る。

「まだ、だからね。」自分の仇を目の前にして無茶をしないよう釘を刺す。

「わかっている…。お前らが危険になるようなことはしないさ…。」

 と、姉が怪訝そうな声をあげる。

「…どうして歩いて下山する?」

 姉の疑問に私も確認する。男は例の小道を歩いて下っていく。

「魔法が使えない魔法使い、とかはないのか?」

「魔法が使えないっていう例はあるけどね。私達も半分だけしか使えないし。でも飛ぶ事ができないっていうのはない。少なくとも聞いたことがない。これは私達の種族としての能力だから。人間が物を掴めるっていうのと同じくらい自然にできることなんだ。」

 魔力を操るというのはそういう事だ。物心ついた時には扱うことができる。それすらできないとしたら、それはもう人間とあまり変わらない。…ということは。

「…もしかして、人間なの?」

 私の一言に、マリアベルもリックも私を見る。

 キマイラ製造は合成機を使って行うものだ。合成機を作るには魔力が扱えないと無理だが、完成した合成機は機械と変わらない。ならば、合成機さえあれば人間がキマイラ製造が出来たとしてもおかしくない。

「入り口の仕掛けはどうなる。」

「それも同じ。ただのスイッチ式なら人間にも開けることができる。」

 私とマリアベルは顔を見合わせる。

「疑問はあるけど、いずれにしても中を覗くなら今がチャンスなのは間違いない。調べてみればわかることがあるはずよ。」

 男の姿が見えなくなった頃、目的の岩壁に向かってマリアベルと私は岩壁に移動する。もしも男が魔法使いで、調査中に戻ってきたらフォローできないのでリックはそのままの場所で待機してもらうことにした。

 岩壁の入り口は閉じていたが、マリアベルが男の素振りからおおよその位置を見ていた。思った通り、岩塊に擬装したスイッチがある。それを押すと入り口が開いた。

 中はひんやりとした洞窟だったが、床は歩きやすいように平たく削られていた。人工の洞窟だ。そして奥に鉄製の大きめのドアがあった。

 開くとそこには、魔法使いの使う設備が並んでいた。予想した通り、合成機もあった。

 間違いない、ここは魔法使いの研究室だ。

 …だが、その室内は荒れ果てていた。まともに使えそうなものはほとんどない。書物が乱雑に積み上げられ、紙片がいくつも散乱している。なにかのメモのようだ。拾いあげようと指でつまんだところだけがちぎれた。そのまま床に残っている紙片を読む。内容はキマイラ製造に使う合成式だ。

「…どう見ても、今使われているものじゃないね。」

「そうね…でもまだ奥に部屋がある。行ってみましょう。」

 研究室の奥の扉を開けると、そこには居住スペースのようだった。こちらは書物が積まれている以外は片付けられている。

「魔法概論・序章…」

 一番上にあった一冊を手に取り、タイトルを読み上げる。物心ついた魔法使いが最初に手にする本だ。紙はやはり傷んでいるが、埃はかぶっていない。これをあの男が読んでいたのだろうか。こんなものは一度目を通したら二度と読むことはない。それにしても、本を手にして思う。幼少時に見た本はもっと厚かったように思える。今改めて見ればこれほど薄い本だったのか。身体のサイズが変わって昔大きいと思っていたものが小さく見えることはありそうだ。自分も成長できているのだな、とブレスレットを撫でる。

 室内を見渡してミレニアが感想をいう。「…魔法使いが住んでいるにしては生活感がありすぎね。」

 私も同意した。

 テーブルの上には食器がいくつも放置されている。何かを食べた後だろう。魔法使いも食事はすることはあるが、洗っていない皿が何枚も積み重なるほどに食事をするとは思えない。

「これはやっぱり…人間なんじゃないかな…。」


「どうだった。」

 監視場所に戻ると、リックが開口一番に聞いてくる。

「中の施設は魔法使いのものよ。」

「じゃあ…。」

「でも、ほぼ間違いなく、あの男は人間ね。こんなところで何をしているかは知らないけれど。」

「人間だとしたら、何をしに出かけて行ったのかな」

「おそらく、食料の調達じゃないかしら。中の様子からするとあそこで生活しているふうだったけど、食料の備蓄らしいものはなかったし」

「だとしたら、ライネストの村が一番近い。男の事を知っている人もいるかもしれない。リックは知らないの?」

「いや、村であんな感じの男を見かけたことはないな。」

「だとしたら外から来た人間?でもあんな生活感出すようでも数日前までには見ていないのよね…。訳がわからない」

「うーん、現状は手がかりが少ないね…。取り敢えず村に行って聞き込みしてみよう。」

「村に行くのか?ならついでに…伝言を頼まれてくれないか?」

 リックは数日間行方不明になっていることになる。そう考えれば村の人に伝えておきたいこともあるだろう。マリアベルも頷く。

「酒場の主人にトラスって奴がいる。結構歳を食っちゃいるが、気の合う友だ。そいつに伝えてくれ。おれはもう戻ってはこない。おれの物は村で好きに使ってくれ、ってさ」

「…わかった」

 リックの遺言同然の伝言を預かり、村に向かう。

 どうして人間の事を、魔法使いは理解できないのだろう。体の構造や能力が違えど、自分達と同じように感情を持つ者達なのに。…いや、同じように?

 魔法使いの感情は、本当に人と同じなのだろうか?

 

 ライネストの村から見えない位置で地上に降り、歩いて村内に入る。入り口に通じる道に比べて村はやや低い場所にあるのだろう。全体が見渡せた。畑がほとんどの面積を占め、家はまばら。どこにでもありそうな小さな農村だが、レインサイニスに比べれば落ち着く風景だと感じる。

 比較的家の集まる区域に向かって畑の中の道を歩いていく。途中、私達の横を3人の子供達がはしゃぎながら駆け抜けていった。平和な日常だ。ということはリックの事はまだ広まっていないのだろう。

 村の誰かが居なくなったとしたら、当然親は用心する。それが攫われていなくなったかなどわかる筈もないのだが、山の噂もある。さっきのように好き勝手にさせられはしないだろう。

 話の聞けそうな人を探すと、荷車に干し草を積んでいる男を見つけた。近づいていくと男もこちらに気づき、先にあちらから声をかけてきた。

「なんだいお嬢ちゃんら。こんな村に合わない小綺麗な格好して、どうかしたかい」

 この村は街道からはやや外れた場所にある。旅人が立ち寄る村ではないから、都市生活者の格好の私達は目立つのだろう。

「えぇ、旅人なんですが、少し用事がありまして。ところで、村で食料品を扱っているところはありますか?手持ちが心もとなくて、調達しようかなと」

「なるほどね。そんなら次の十字路を右にいけば店がある。っつっても小さな村だからぁ大したもんはねえがよ」

「ありがとう、助かります。あ、あと、酒場ってあります?できれば食事もしたいなと」

「こんな村で酒以外の楽しみなんてねえさ。あるとも。その店が酒場もやってるよ。飯も色々出してくれるぜ。」

 彼に礼を告げ、教えられた通りに進む。店はすぐに見つかった。建物はかなり古風だがしっかり手入れされてきたのだろう。綺麗な印象だ。古くからの建物を維持し続けているのだろう。

 店の扉を開けると、下げられていた小さな鐘がカランカランと乾いた音を立てる。この店の主な客達は農作業に出ている時間だ。店内には客はおらず、主人らしき男もカウンターの向こうで仕込みを行っている。鐘の音に顔を上げる。

「ん?おぉ、いらっしゃい。…この村に来るような格好には見えないな?」

「ええ、ちょっと用事がありまして」

「へぇ、こんな村に?うちに関係ある用事なのかい」

「いくつかあって。あ、そういえば、さっき村のちょっと手前の山から人が出てきたのが気になって。猟師やら山菜採りって雰囲気でもなくって。

「…あぁー。どんなやつだった?

「茶色い短髪でちょっと頭頂あたりがやや薄くなってる、おじさんと同じくらいの背丈でひょろっとした男を知ってる?」

「カーネんとこの馬鹿息子か。まだふらふらしてんのか。あの親不孝の穀潰しめが。」

「知ってるの?」

「知ってるもなにも。…っと、話してもいいが、おれも仕込みで忙しくてね。客ならもうちょっと相手してもいいんだがね?」

 しっかりしている。こちらも話を聞かせてもらうのだし、言う通りにしておいたほうが良いだろう。マリアベルがエールを二つ注文する。

「いやお姉ちゃん、ちょっと…」

 私の抗議に被せて店主が確認する。

「あんたはまだしも、ちっこい嬢ちゃんもエールなのか?」

「あ、そうか、苦くないものはある?」

「ってーと…あるのはシードルくらいだな。」

「じゃあそれで」

 …私の抗議は私の分も酒を頼んだことだったんだが。そういえば水が安全でない地域は子供でもアルコールを飲むと聞いたことはある。

 それに、私達は酒を飲んだところで吸収をしないので酔っ払ったりはしないが、エールは確かに苦いので遠慮したい。

 カウンターにエールとシードルの注がれたマグを置くと、主人が話し始める。

「で、あの馬鹿息子の話だな。あいつぁ村でも有名な穀潰しでね。見ての通り、大分いい歳のおっさんだろう?だってぇのに野良仕事も手伝わず夢ばっかり見ててな。いつも魔法使いになるんだーとかな。そこまで行きゃあ寝言どころか世迷言よ。そんでいっつもふらふらしてるわけよ。カーネも今度こそ追ん出すって来るたび来るたびに言っちゃあいるし俺から見ればさっさと放り出しちまえと思うんだが…まぁそんなんでも子供は子供だからなんだろうな、未だに世話焼いてやってるってわけよ。ここんとこ、よくうちで食い物を買ってどっか行っちまうがなにをしてんだか。いや何をしているかなんてどうでもいいけどよ、誰がその金を稼いでくれてたと思ってやがるんだか。次来たら引っ叩いてやるぜ。」

 家庭の事情はともかく、これで決まりだ。魔法使いに憧れる男。あの男は魔法使いではない。その夢見がちな男が何かの拍子であの研究室を見つけ、そこに入り浸っている。わかってみればつまらない話だ。

 わかってみればつまらない話。…本当にそうだろうか。

 魔法使いに憧れるとはいえ、人間には倫理感がある。同じ村の人間を実験材料にするだろうか?もちろん世の中には倫理観の欠如した人間は少なからずいる。では、それを行えるような人間だったとしても、材料はどうなる?合成機は確かに人間でも扱える代物ではあるが、合成する材料は自分で揃えなければならない。

 リックの元となった獣は蛇、鷲、人間のリック、そして獅子。蛇や鷲までならなんとか出来る可能性はある。リック自身も運ぶのは楽ではないにしても無理ではない。だが、獅子は。そんな獣はこの辺りには生息していない。レインサイニスのような都市ならば大枚をはたけば購入する事もできるだろうが、件の男がそんな事ができるとは思えない。ならば、誰がその獅子を用意したのか?それにリックの証言からすれば、リックは間違いなく魔法をかけられている。それをかけたのは誰なのか。

「あんたら、ひょっとしてあいつが何やってるか知ってんのか?」

「あぁいえ、たまたま、人が消えるという噂の山から出てくるのを見たので」

「…なんだってあんなとこに行ってんだ。まぁ噂ってよりは言い伝えだな。すげえ昔、入った人間が帰って来ないって話があってな。山に住む怪物に食われちまうんだとよ。」

「怪物ねぇ…」

 研究所から逃げ出したキマイラが彷徨いていたのだろうか。ない事はない話ではある。

「まぁ流石にもう誰も信じちゃいないけどな。特に採れるものもないからわざわざ行ったりはしないがな。」

 ということはキマイラが彷徨いてるわけではないか。相手が魔法使いでないとわかった以上、コソコソする必要もなくなったのだし、あの研究所をもっと深く調査してみる必要はありそうだ。

「これでほぼ聞きたいことは聞けたわね?

 小声で確認する姉に私は同意する。会計を伝える。

 だがここを出る前にリックのことも伝えておかなければ。

「ところで、貴方がトラスさんですよね。実は…」

「いや、おれの名はロウウェンだが?」

「あ、あれ?」

 店の主人然としていたので勘違いしていた。

「失礼。トラスさんはおられますか?」

「この店はおれと母ちゃんが二人でやってる。この村にゃトラスなんて奴はいないぜ?」

「え、いない?村に?ある人からこの村で酒場をやっているって…」

「この村に酒場はここだけだぜ。いやでも聞いた事あるな…。トラス、トラス…」

 腕を組んで考え込む店主。その時間はそう長くなかった。

「あぁ!トラスの爺様か!!」

「いますか?伝言があって…」

「いるもなにも、とっくに天国さ」

 ロウウェンの意外な言葉にマリアベルも私も目を見開く。

「え…な、亡くなられた?!」

「なんでそんなびっくりしてんだ?召されねえ方がおかしいさ。この酒場を開いたのがトラスの爺様だ。ほれ、そこの看板見てみなよ」

 ロウウェンが指差す看板に目を向ける。

「!?」

 そこには、私達が予想していなかった事が書かれていた。そしてそれが疑問の答えだった。

「で、そんな爺様にお嬢ちゃん達がどんな用なんだい?」

「…いえ、多分人違いですね。忘れてください」

 ロウウェンが怪訝な顔を浮かべるが、私たちは言葉を濁す。とても説明できる事ではなかった。

 飲み物の代金をロウウェンに渡し、席を立つ。

「最後に一つだけ…聞いても?」

「おう、なんだい?」

「この村に、リックという村人はいますか?」

「いや、そんな奴はいねえよ。こんな小さな村だ。おれの知らない奴なんていないが聞いた事ないぜ?」

「そう、ですか…」

 酒場を出て、私達は入り口の上で小さく揺れる看板を信じられない思いで見上げた。


 何かわかったか、と戻った私達にリックが問いかけてる。私は努めて平常を装い、答える。

「あの男はやっぱり人間、村人だったよ。リックがその姿になった事には関係がない。予想だけど、間違いはないと思う。」

「なんだと?あれが村人?言っちゃあなんだがこんな小さな村だ、おれの知らないやつなんていないぞ?それにあいつが関係ないなら、誰がおれをこの姿にしたっていうんだ?」

「そのために…確かめたいことがある。もう少しで日が落ちる。暗くなってしばらくしたら…一緒に村に行こう。遅い時間ならリックも気づかれずに入れる」

「?それは構わないが…それで何がわかるというんだ?」

「全部がわかるよ。多分…ね」


「なんだ?どういうことだ…?ここは本当にライネストなのか?どうしてこんなに変わっている?」

「………」

 村に着くとリックはキョロキョロと辺りを見回す。生まれてからずっと過ごし、ここ以上に知っているはずのない村で。

「どうなっているんだ。教えてくれ。お前達にはわかっているんだろう?」

 問いかけられた私は逆にリックに問う。

「ねぇリック、今の暦はいつか、わかる?」

「千百十二年、だろう」

「今は…千四百ニ十一年、だよ」

「…………なに?」

 理解できない、というように瞬きを繰り返す。

「リックの言っていた酒場はあった。けど、主人のトラスはいなかったよ。酒場の主人はトラスの子孫だったよ。トラスは…六代前の主人だって」

 ロウウェンが差した看板に書かれていたのは、千九十三年開業、その一言だった。

 目を見開くリック、その呼吸が荒く、早くなる。

「なにを、言っている…。…じゃあ、洞窟にいた男は。あいつはなんだったんだ。村人だと言ったな?」

「そう。あいつの事を酒場の主人は知っていたよ。村で有名な穀潰しだって。だけどリックは知らないと言ったよね。リックが知るはずがない、今の村人の一人。魔法使いに憧れる、夢見がちなただの人間。魔法なんて使えやしない。あいつにはリックを今の姿にする事はできない。合成材料となった獣を揃えることは、一介の村人にはとてもできることじゃない」

「じゃ、じゃあ……おれ、は……」

 

 荒れ果て風化したものもある研究室。

 そこにあった私が知るものより薄い魔法概論。

 「噂」ではなく「言い伝え」の残る山。

 いるはずのない同じ村の住民。

 いるはずの天に召された友人。

 それら全てが指し示すもの。

 

 リックは、現在の村人ではない。それが全ての答えだった。


 三百年程前、魔法使い狩りが行われていた時代の人間だろう。当時はまだ、魔法使いは人間を実験材料としても咎められる事はなかった。リックを攫ったのはその当時の魔法使い。

 あの研究所はその魔法使いのものだ。

 近隣にあるライネストの村から人間を攫って研究材料としていた。だから禁忌の山としての噂ができたのだろう。

 そして、その魔法使いによって攫われたリックはキマイラ製造にかけられたのだ。

 だが千百十三年、会議によってキマイラ研究は禁止された。合成されたリックはそのまま放置されたのだろう。そしてそのまま三百年以上もの間、打ち棄てられた研究室の培養槽で眠り続けていたのだ。

 リックが見た魔法使いと思われていた男。それはただの魔法使いに憧れる人間だった。たまたまあの山に入り昔の研究所を見つけ住み着いた。そこで培養槽に眠るリックを見ただろう。興味本位で合成機の操作を行った。

 その結果、リックは目覚めを迎えた。三百余年を経過した現代で。

 培養槽で三百年を生きることができるのか?そんな事を試した魔法使いはいない。合成したキマイラが培養槽で自分の寿命より長く生きるかなど、試すわけがない。これらは憶測に過ぎない。しかしその憶測が全てを繋げる、何よりも現実的な答えだった。

「そんな……そんな事が、信じられるかぁ!!」

 リックは叫び、私達が止める間もなく村の奥に走り去る。放って置く訳にはいかない。私達は彼を追いかけた。耕作地を通り過ぎ、民家の並ぶ通りを過ぎてもなおリックは止まらない。木立の中の道を走って抜けていった。やや遅れて、私達もそこを抜ける。抜けた先にあったのは小さな教会。そして、墓地。

 多くの墓碑の中には相当に古い墓碑もあるようだ。多くの村人がここに葬られてきたのだろう。

 その墓碑の間にリックの姿を見つけた。それらの墓碑を見て回っているのだろう。私達も距離を空けながらついていく。

「…イルザ、ジョン、サイラス、アンナ、カール」

 墓碑の名前を読み上げていくリックの声がかすれていく。

「…!!」

 リックが目を留めた墓碑。それに刻まれた名前。トラス・サーグル。没年千百三十一年。リックの友人だった、酒場の主人。

 かけられる言葉を、私達は持たなかった。

 リックは何も言わず、さらに墓碑を見て回る。もう彼にもわかっているのだろう。

 それでも信じられない、信じたくないのだろう。

 だが、近くの墓碑の前でリックが足を止めた。墓碑を凝視し、震えていた。

 その墓碑に刻まれた名前は、リック・ウェイル。没年千百十二年。それは、リックの記憶にあった年だった。人でない姿から、人の哀しみに満ちた叫びが上がる。それは夜空を割き、静かな村に遠く響いた。



 リックはその場を動かなかった。私達も同じように、その横にただ佇んでいた。かける言葉もなく。

 そろそろ日の出が近い。身を隠したいところだがどうすれば…。そう考え始めた頃、リックが口を開いた。

「なぁ、お前達、願い事を叶えているって、言ったよな」

 私に目を向けるリックに黙って小さくうなづく。

「おれの願い、聞いてくれるか?」

「…いやだ」

 にべもなく拒否する私の顔を、リックが正面から見る。

「ろくでもない願いでしょう。そんなもの、聞いてなんてやれない。」

「…ろくでもないのは、おれの人生だ。なんなんだこれは…。平凡に農夫をやっていたはずだったのに。たまにトラスと呑み明かすのが楽しみだっただけなのに!なのに、どうしてだ!!目覚めたらこんな身体にされたうえに!!おれが知っていた者、おれを知っている者は皆この世にいない!?そんなおれがどうして生きていける!!こんなおれにお前は!!なおも生きていけっていうのかぁ!!!」

 感情のままに絶望を吐露する彼に、私は返す言葉がなかった。顔を背けることしかできなかった。

「…お前らはただ、処分するべき生き物を一匹処分するだけのことだ。気に病む事はなにもない。おれは既に死んでいたんだよ。魔法使いに攫われた時点でな。今は、ただの悪夢に過ぎない。」

 そして彼は、心からの願いを吐き出す。


「…頼む、殺してくれ」


 そんな願いですら、彼の気持ちを考えれば安易に否定することなどできはしない。だがそれでは、本当に救いがないではないか。

「…駄目だよ。そんなものは願いじゃない。そんなものは、聞いてやれないよ…。」

 リックが私を睨むが、私は引かない。どうすればいい…リックの為にできる道は…。

「…私達が貴方の為に聞いてあげられる願いは一つだけ。だから答えて。」

「…?」

「また、人間として生きられるのならば…あなたはそれを望む?今までの自分ではない人生だとしても」

「…なんだって?」

「ティエリア…!」

 私の考えがわかったのだろう。マリアベルが咎める。それでも私は続ける。

「あの研究室に残っている合成機はまだ動く。それを使って、誰かの死体とあなたを合成すれば…元の身体ではないにしても、あなたを人の身体に戻すことはできるかもしれない」

 分割して元に戻せないなら、再度別の生物――人間とリックの脳を合成する。人間のパーツと人間を掛け合わせた、キマイラ。こんな単純な足し算のような合成がうまくいくかはわからない。それでも、リックが人間の姿に戻るためには唯一の方法と言えるだろう。

「成功するとは限らない。そんな事をした例はないからね。失敗すればあなたは間違いなく、死ぬ。成功したところであなたが幸せになれる保証はなんてない。けれどあなたがそれを願うなら、私達は聞いてあげる。ただ死にたいなんて願い、私は聞かない。…いいよね、お姉ちゃん。」

 マリアベルは大きくため息をつく。

「馬鹿を言うな、と言ってもあんたは一人でやるんでしょう?まったく…いいわ、手伝うわよ。」

 ごめんね、という意志を込めて笑みを送ると、やれやれ、と言った表情が帰ってきた。

 あとは、リックの意志次第だ。

「………」

「聞かせて。あなたの願いを。」

 間をおいて、彼は答えた。


 私が期待しない、けどそう答えるであろう答えを。


「おれは、おれだ。獣であることも、他人にもなりたくなどない。」

 自分の中で、困惑と憤りが綯い交ぜになっているのがわかる。彼の答えは決して否定できるものではない。それはわかっている。でも受け入れる事ができない。

 膝をついてリックの頸に腕を回す。

「…どうしてよ。賭けだとしても人の姿を取り戻せるかもしれない。そうなれば、人としての人生を過ごすこともできるじゃない。それすら拒否したら、あなたは本当に救われないよ…。」

「気を遣ってくれているのはわかるよ。ありがとうな。だがお前にはわからないさ。大切なこと全てに置いていかれてしまった、おれの気持ちは。」

「わ、わかるよ、私…私だって!」

 そう叫び返しながらも、彼の失ったものは私の比ではない事はわかっていた。それでも反論せずにはいられなかった。しかし、それ以上続けることはできなかった。

 そんな私の気持ちを汲んでくれたのか、リックの翼が私の頭を撫でる。

「そうだったな。悪かった。でも、お前は取り戻す希望があるだろう?おれにはもう、希望すらないんだ。願えばきっと、お前が何もかも始めに戻してやり直させてくれるんだろう。だが、それはもうおれじゃないんだ。おれは、三百年前にこの村で生まれこの村に生きていたリック・ウェイルなんだ。トラス達と笑い合ったおれとしてしか、生きられない。生きたくない。」

 もう何も言えなかった。これ以上引き止めても、彼を困らせ、苦しめることにしかならない。涙が零れ、地面に落ちる。頸に回していた腕を外し、涙を拭い、立ち上がる。

「ありがとうよ。お前達がいなかったら、おれはどうしていいかもわからなかった。こんな目に遭っても、お前達に出会えたことは幸運だったと思うよ。」

「やめてよ、そんなの聞きたくない。」

 再び涙が溢れないよう天を仰ぎ、そしてリックに向き直った。杖を出し、呪文を吟じる。杖の描く軌跡が異世界の門を形作ってゆく。

「わかった。せめてこれ以上、苦しむことのないように。」

 彼は目を瞑り、一言。「世話をかける。」

 杖の模った線をなぞり、鉄の門が空間に具現する。

「宿命に裏切られた者にその慈悲を。ル・カリ・エス。」

 私の呼び声に答え、門がゆっくり開き、光が溢れる。門が開き切ると光の奥から黒髪の美しい姿をした女性の姿が現れた。安らぎを与える者、ル・カリ・エス。

 彼女は閉じていた目をゆっくりと目を開くと、優しく、そして哀しい響きで語りかける。

「私が与えられるのは、安らかな眠りと終焉。それでもあなたはそれを望むのですか?」

 私はうなづく。

「私の頼みたいこと、わかるよね。」

 ル・カリ・エスはうなづき瞑目する。その目端から一筋の雫が溢れる。そしてその唇から唄を響かせる。優しく、とても美しく、そして、とても哀しい響きの唄。

 リックは目を閉じ、聞いていた。

 やがて、唄が終わる。リックは目を閉じたまま、その身体を地面へと横たえる。

 私は彼の横に膝をつき、首に腕を回しそっと抱きしめる。

「…ありがとう、ル・カリ・エス」

 彼女は哀しそうに小さくうなづくと、風に吹き消されるように姿を消した。



 会議の仮装議場。長いテーブルに多くの魔法使いがついている。議長の声が響き渡る。

「マリアベル・グレイ。例のライネストのキマイラの件について、調査の報告を。」

 はい、とマリアベルが立ち上がる。

「発見されたキマイラの製造された地点を特定できました。ロンディオ地方、ライネストの村の南西四キロ、モルディウス山中腹の放棄された研究所です。現地に残されていた資料を調査し、研究所を作ったのはゲイル・ドウォーカ。輪天千八十年から千百三十年に生きていたキマイラ研究者です」

「ゲイル・ドウォーカ…魔手のゲイルか」

「そうです」

 ゲイル・ドウォーカはキマイラ研究で多くの成果を挙げ、悪魔の手と呼ばれた魔法使いだった。特筆すべきは生体と無機物を合わせた特殊合成技術。

 だが、千百十三年、会議でキマイラ製造が禁止されることとなった時も、彼はキマイラの研究をやめようとはしなかった。会議の執行部隊に追われながら各地を転々としていたが千百二十九年、ついに彼はマリュー王国で捕縛され、翌年、死罪となった。

 彼の死後、会議は彼の研究室を探したが、ついに見つけ出すことができなかったのだ。あの研究室はその中の一つだった。

「ドウォーカの製造物として残っていたキマイラだというのか。三百年余りが経っているというのに。」

「保証することはできませんが、ほぼ間違いなくドウォーカ製でしょう。当該のキマイラの遺骸を調査したところ、獅子の脚部でありながら獅子とは異なる、長く鋭利な金属爪を有していました。これはドウォーカ特有の無機物合成技術にあたるもの。また、研究所には稼働する製造機がありました。製造途中で放棄されたまま、培養槽で生き続けていた事になります。」

 会議の場がどよめく。これほど長期間の間、キマイラが生き続けるという話は過去に例がない事だった。作ったキマイラを三百年も塩漬けにしておくものなどいないから、当然と言える。

 静粛に、と議長が場を鎮める。

「三百年もの間保存されたキマイラが出てきた事について、理由は考えられるか。」

「近隣の村民の一人が研究所を見つけ、居住していました。「魔法使い」という存在に興味があったようです。当時は近寄るのを忌避されていた山であったため、長期間に渡って手付かずだったのでしょう。近年では忌避感はないも同然らしく、偶然研究所を見つけた人間が合成機を適当に操作したら、中のキマイラが解放された、という事でしょう。」

「なるほど。その人間への対処は。」

「研究所、およびそこで見たものに関わる記憶を抹消しました。」

「研究所自体は。」

「設備、建屋ともに破壊しました。資料も全て焼却しました。」

 マリアベルの発言に会議の一席から非難の声が上がる。

「そこらのキマイラ研究者ならまだしも、ドウォーカの研究成果を灰塵に帰したというのか?」

「彼の専門はキマイラ研究。会議に禁止されているもの。そんなものを残しておいてどうする?」

 姉の反論に対して、その魔法使いからは声は上がらない。代わりに議長が発言する。

「マリアベル・グレイの判断は正しい。キマイラ技術の知識など先達の汚点でしかない。後世に残してはならないものだ。遺骸を調査と言ったな。キマイラ自体は処分はしたのだな?」

「はい、元に戻す方法がないとのことだったので、遺憾ながら殺処分し、灰に。これが、生体の爪の代わりに付けられていた金属爪です。後ほど資料として会議に送付します。」

 よろしい、と議長がうなづく。

「結果的に執務実行部隊が必要な事案ではなかったが、負の遺産が三百余年経った今でも残存している可能性があるという重要な事案であった。過去の魔法使いの研究内容について、再確認を検討するものとしよう。」

 それと、と議長が続ける。

「マリアベル・グレイの今回の働きは十分な成果を挙げたと言える。会議はロンディオ領をマリアベル・グレイに返還するものとする。異議のある者は。」

 声は上がらない。皆、どうせ反対する理由もないのだからどうでもいい、と言った顔をしている。そうではない者と言えば、ノーラが満足げな表情をしているだけだ。

 これでグレイ家領は現議長の家と並ぶ。同数の場合、議長の席は年次での持ち回りとなる。ノーラが望みの議長の椅子に座る事も有り得るわけだ。誰にとっても意味のない名誉にさぞご満悦な事だろう。

「他に議題のあるものは。…いないな。では、本日の会議は以上。解散」

 周りの魔法使い達が消えた後、再び私達とノーラが残った。

「あら、どうかされましたか、叔母様」

「よくやった、と一言だけ褒めてあげようと思ってね。つまらない事件ではあったけれど、グレイ家にとっては重要な一歩。よくやったわ、マリアベル。お前達でも苦にならない事件でよかった。」

「つまらない事件、ですか。」

「そうでしょう?昔の魔法使いの所業の尻拭いをしただけよ。」

「会議には報告しませんでしたが、件のキマイラには意志がありました。どういう事かお判りでしょう。人間が材料とされたのですよ」

 私達には衝撃的な話にも、叔母は特に反応を示さない。

「まぁ。今だったらとんでもない話ね。でもそれは昔の話に過ぎない。まったく、人間などいっそ先人達が駆逐してくれていれば後腐れもなかったでしょうにね。そうすればフィエラも血迷うこともなかった。…まさか、その人間に同情でもしているの?グレイ家の者ならば、下らない事を気にするのはやめなさい。」

 下らない?下らないと言ったのか?リックの事を?

 血が沸き立つのを感じる。口を開こうとしたところで、姉が顔を伏せ、低く笑っている事に気づく。

「グレイ家のものならば、ですか。ふ、ふふふ…はははは。」

「…なにがおかしいの。」

「では、その下らない事を気にする私達はグレイ家と縁を切らせてもらう。もちろん領分はあなたには渡さないわよ。我らラスニール家の領分ですからね!」

 顔を上げ、吐き捨てるように宣言するマリアベルを、ノーラが呆れたように見る。

「何を言い出すかと思えば。そんな事が認められる訳がない。独立するには相応の功績がいる。研究を人助けとやらの片手間にやっているようなあなた達にそんな事ができるとでも。」

「知っていますよ。功績が必要な事は。例えば新しい理論を見つけるような、ね。…でも叔母様。私達の姉がどういう人だったか、お忘れ?」

「…ミレニアが何か残していたとしてもそれはミレニアの成果。現在の領主のあなたの成果にはならない」

 そういうノーラだが、先ほどまでの見下すような余裕は消えていた。

 姉はふん、と鼻で笑い飛ばすと、虚空から紙束を取り出す。

「これがその研究の論文。見えるかしら?私と姉の連名。しかもなんと!主たる研究者は私なのよ。ミレニアは共同研究者よ。ミレニアの署名も入っている。おわかりかしら?」

「…!それが、独立を許可する材料になるとは限らない!!」思わず立ち上がるノーラ。

「先日、私達があなたを嫌うのはあなたが私達を嫌っていたせいだと言いましたね。訂正させてもらいます。私はあなたが大っ嫌いよ叔母様。他の魔法使いの比じゃないくらいにね。それはティエリアも、姉も同じ。独立を許可する材料になるとは限らないですって?なるわよ。姉も私もその為にこの研究を完成させたのだから。あぁ言っておくけど難癖つけようなんて考えない方がいいわ。少しでも否定意見出したら大馬鹿扱いされるくらい完璧だから。あんたも絶賛のコメントを出さざるを得ないわよ。これをこれまで公開しなかったのはね。あんたにざまあみろって言ってやるタイミングを図っていたからなの。今こそ最高のタイミングだと思わない!?今のあなたの顔を姉さんに見せてやれないのだけが残念で仕方がないわ!!」

 小馬鹿にしたように手を広げて語るマリアベル。

 ノーラが怒りに震えているのが見て取れる。魔法の一つも飛んで来そうな程にだ。だが今は幻の会議場だ。魔法を使ったところで相手には届かない。もっとも本当に目の前にいたとして、そういった行為がご法度なのは会議の副議長である彼女自身がわかっている。

「…半人前のあなた達に目をかけてやった恩を仇で返すとはね。覚えておきなさい、いつかあなた達は伏して許しを乞うことになる。」

「言ったでしょう、目をかけてくれなんて頼んでないって。あなたも含めてこんなクソ溜め連中の集まりに放り込まれて、姉妹全員大迷惑よ。えぇ覚えておきますよ、先ほどの悔しそうな表情だけはね。それでは、ご機嫌よう。」

 厭味ったらしく丁寧な一礼を見せた後、議場が消える。見慣れた我が家の水晶部屋。

「ふん、せいせいした」と姉が鼻を鳴らす。

 いつでも鼻を明かしてやれる、とはそういう事だったのか。理由を知らなかった私はノーラにいっぱい食わせたことよりも、驚きの方が大きい。

「そんなのがあったんだね。知らなかった。」

「半分私も忘れてたんだけどね。今回の件で思い出したの。内容はあとで説明してあげる。」

 うん、とうなづく。

「でもあの様子だと今後色々嫌がらせしてくるかもね。」

「気にする事ないわ。体面を気にするあちらは陰湿な方法では絡んでこない。そうすると逆に自分の格が落ちるからね。面と向かって何かすれば、家と家の争いになる。安易には手を出せないから、ま、何かあってからでいいわ」

 あの叔母だ。このままでは済まさないだろう。今後何かしらのアクションはあるに違いない。だがどんな手で来るかわからない以上、姉の言う通り今考えても仕方がない。

 改めて、家が独立することを考えると魔法使い連中の社会から一歩遠ざかれることになる。それは確かに喜ばしいことだった。魔法使いであることを嫌だと思ったことはないが、情をどこかに捨ててきたようなあの社会に属さなければならないことは嫌だ。

 もし、魔法使いの社会があのようなものでなければ。魔法使い達があのような連中でなければ。リックはあの姿になることもなかっただろう。

 どうして同じような容姿なのに、魔法使いは感情が壊れたような者達ばかりなのだろうか…。先日も思った疑問が、再び私の頭をよぎった。



「お、久し振りだな、お嬢ちゃんら。今度は誰を探してんだ?」

 三月後、再びライネストの村を訪れた。酒場の近くを通る私達に主人のロウウェンが声を掛けてきた。

「今日は人探しできたのではないの。…そうね、墓参りよ。」

「墓参り?縁もゆかりもなさそうだが…誰のだ」

「トラス爺さんと、その友人。」

「…トラスの爺さんはともかく、なんで爺さんの友人なんてあんたが知ってんだ?」

「色々と遠い縁があったらしくてね」

「ふぅん?まぁそう言うこともあらぁな。そういう話なら当然、爺さんの店にも寄っていってくれるんだろう?」

 そう言って自分の店を顎で差し笑う。しっかりしている。確かに夕日も地平に差し掛かっている。早めの夕食を摂ってもいい時間だろう。

「いいわ、でも期待外れだったらおごりね」

「三百年以上も村の衆を満足させてきた店だぜ?期待しておけよ」

 店内は既に十人足らずの男達で賑わっていた。一日の仕事を終えた農夫達だろう。私達は入口に近い席に着く。大樽をテーブル代わりにした席だ。

「あらあら、お嬢さん達みたいなお客は珍しいね。なんにする?」

 人の良さそうな中年の女性が注文を聞きにきた。ロウウェンの奥方だろう。マリアベルはエール、私はシードルを頼んだ。料理はおすすめの物を二人前。

 店の奥のカウンターで男達が騒いでいる。比較的若い男――と言っても周囲のに比べれば、だが――に年配の男達が絡んでいるようだ。男は髪が薄く、身体も細い。あまり農夫らしくは見えない。

 その様子を見ているとロウウェンが飲み物と料理を持ってきた。

「騒がしくて悪いな。ほれ、あれが前言った奴だろ?馬鹿息子さ。なんだが、急に畑仕事を手伝い始めてよ。なんか悪魔に殺されそうになった、だとか言ってたらしい。丁度あんたが聞きにきた後頃だな。なんか知ってるか?」

「いいえ、悪魔ですって?訳が分からないわね。夢でも見たんでしょう。…いや、夢から覚めた、かな?」

 ちげえねえ、と笑いつつロウウェンは厨房に戻っていった。すると騒いでいた農夫達から一人――こちらは三十程度――が、マグを片手にこちらに近づいてきた。

「よぉ、随分可愛らしいお客だなぁ。」

「酔っ払いはお断りだよ。」

「手厳しいな。まだそんな飲んじゃいないさ。」

 彼はそう言って私達の隣のテーブルにエールが注がれたマグを置く。その様子を見てカウンターの男達が囃し立ててくる。男はうるせえ、そういうんじゃねぇ、と返す。

「楽しそうだね。」

「節操がないのはいけねえがな。だが皆いい奴らさ。素性の知れないおれを仲間に入れてくれるんだから。」

「へぇ、余所者かなにかだったの?」

 私の質問に男は困った様に肩をすくめる。

「おれは昔の記憶がなくてな。三月くらい前に、道端で倒れてるのを拾ってもらったのさ。」

「それはそれは…。で、私達にはなにかご用?」

「おぉ、それだ。なんかわからんが、あんたらの事を知ってる気がするんだよな。どこかで会ったような…あんたらはおれの事、知らないか?」

「知らないわ。私達は一月前に一度、この村に寄っただけだもの。もしかしたらその時に見たのかもしれないけど。」

 尋ねる男ににべもなく答えるマリアベル。

「そういうのでは、ない気がするんだよな。その、世話になったような…気が…」

 男の言葉にマリアベルがなにそれ、と笑う。

「私達が世話になるならまだしも。私達が貴方の役に立てるとは思えないわ」

 うーん、と男が考え込んでいると、カウンターの連中が男を呼ぶ。

「…あんたらが違うというなら違うんだろうな。…いや悪い、妙なことを聞いたな。」

「別に、気にしてないわ。楽しんで。」彼は仲間達のところに戻る。

「おいリック、何を話してたんだ?」

「なんでもねえ、ただの世間話さ」

 彼は仲間達と楽しそうに酒を酌み交わしていた。その様子は幸せそうに見えた。

 けれど「彼」はもう私達の知る「リック」ではない。三百年前、この村で友人達と過ごした彼はもうどこにもいない。彼の記憶と共に失われてしまった。

 それでも、思い出をなくしてでも、生きていて欲しかった。生きてさえいれば新しい思い出は作れるから。それが、彼の望みではないとわかっていても。


 …だが、本当にそれで良かったのだろうか?

 楽しそうな彼の姿を見ても、それを確信することはできなかった。


 テーブルに置かれた料理を口に運ぶ。素朴だが、おいしかった。店の創業当時から続く看板メニューだそうだ。彼もこれを食べていたのだろう。私は感情が外に出ないように目を押さえる。

 そんな私を、姉が優しく撫でた。

 

 

 

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Wishes 樋口はさお @hasao

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