先輩と真夏の通り雨

野茨アザミ

並行する先輩Aと観測する後輩Bシリーズ


 どうしようもなくなった時、思い出すのは決まって先輩の事だった。


 先輩と私の出会いは、大学のとあるサークル活動だ。サークルと言っても、特定の何かをするための集まりではなく、古びた旧サークル棟の一室を占拠して、古いテレビゲームに興じたり、食事会や演奏会を催したりと、主となる活動目的のない奇妙な集団だった。

 それが旧サークル棟の取り壊しに反対する密かな抗議活動の一環だったと知ったのは大学を卒業してからで、なんなら私は首謀者の一人として認識されていたというのだから驚きだ。それだけあの場所に入り浸っていたということであり、狭い部室で過ごした不思議な時間の数々は、今もなお、私の心の拠り所となっている。

 サークルの決まったメンバーと言えば、私と先輩ぐらいで、残りは常に流動的だった。言ってしまえば、大学の構内に気楽に集まってのんびりできる場所が欲しい人たちの隠れ家的存在だったのだろう。老朽化が進むところまで進み、ちょっとした振動でも倒壊してしまいそうなほど荒びれた建物の一角で、私と先輩は徹夜でよく語り明かした。会話はどれも他愛もないものばかりで、その内容は殆ど忘れてしまったけど、卒業してから思い出す記憶はいつも、先輩と過ごしたあの空間を切り取っている。


 先輩について覚えていることは沢山ある。

 先輩はとても器用な人だった。何をさせても要領が良く、誰かが持ってきたホットプレートセットを使って様々な料理を作ってくれた。私のお気に入りは毎週のように注文したタコ焼きで、極限まで丸く整えられた生地は淡く光沢を帯び、芸術的な美しさすらあった。もちろん、味はこれまで食べてきた何よりも美味しく、料理人の手腕によってこんなにも味が変わるのだと驚かされた。

 驚いたことと言えば、先輩の音楽的センスだ。元々は軽音楽系サークルの部室だったということもあり、誰かのお土産や思い出と共に置き去りにされた楽器が沢山あった。雨降りの物憂げな日には、名称も演奏方法もわからない奇妙な形の民族楽器を手にとって、遠い国の民謡を不思議な音色で奏でてくれた。初見でも楽器の構造と弾き方さえわかれば、一時間足らずで披露できるようになるのだから開いた口が塞がらない。

「凄いですね」と感嘆する私に「何でも簡単にできちゃうのも考えものだけどね」としっとりとしたバリトンボイスで嫌みを言う。何でも極める前に飽きてしまうから、器用貧乏なのだと。贅沢な悩みだなと笑う私が「いつまで経っても上手くならない私よりはましじゃないですか」といじけてみせると、先輩は焦ったのか、慰めてくれるように唄を歌った。

 時々、私が落ち込んでいる時には、自作の曲を披露してくれることもあり、歌詞は忘れてしまったけど、そのメロディは今でも私の中に響き続けていて、気分が良い時に無意識に口ずさむのは決まって先輩の曲だった。


 この人は一体何者なのだろう。会うのは決まって部室の中だけで、大学の構内でふと見かけるようなことは一度もなかった。そもそも、どの学部に通っているのかも、何年生なのかも知らない。そういう意味では、この大学の学生なのかも怪しい。課題を手伝ってくれる(締め切りで焦っている時に限って、わざとらしく私の知らない言語で答えを教えてくれるのは困ったものだったけど)先輩の姿を盗み見しながら、私は色んな事を考えた。あまりにも完璧過ぎるので、実は地球の調査に来た宇宙人じゃないかとか、この部屋の座敷童じゃないかとか疑っている。そんな私の思考を読み取ったのが、先輩はいつも意味深な微笑みで応えるのだった。


 そんな先輩は当然のように、とても頭が良かった。テレビゲームの勝率は私の方が上だったけど、頭脳を使うボードゲームでは勝てた例が殆どない。余りにも私が勝てないので、わざとらしく手を抜いたり、ハンデをくれたりするのだけれど、「勝てそうな時の嬉しそうな顔が嫌だから」と最後の最後で負かされる。

 そして先輩はかなりの読書家でもあり、私と話していない時は基本的に本を読んでいた。本の虫とは彼のことを言うのだろうと、窓際の定位置で活字の世界に没入している姿に何度も思った。細長い指で抱えるようにページを捲っているのは、洋書だったり図鑑だったり、はたまた絵本だったり辞典だったりと、本の形をしていたら何でも良かったらしい。博識な先輩の話はどれも面白く、私の知らない世界に先輩を通じて触れるのは、純粋に心地良い時間だった。


 あの頃は単なる憧れだと思っていた感情も、五年もの時が経ち、様々な経験を積めば、尊敬だけではなかったのだと冷静に思い返すことができるようになる。しかし、今更その想いを伝えるには時間が経ち過ぎていた。それに、その機会自体もすでに、唐突に失われてしまっていた。

 先輩は思い立ったら国内外を問わず、ふらりと旅に行く人だった。そして私が三年目の大学生活を終えようとしていた頃、いつものように突然、姿を見せなくなった。私も就活で忙しくしていたので、部室に顔を出す頻度は少なくなっており、暫く見てないというサークルメンバーたちの話に今回は長めの旅なんだなと思っていたのだが、とうとう、私が卒業するまで一度も姿を現さなかった。

 居なくなってからは一度も連絡を取っていない。そもそも、部室に行けば会えるのだからと連絡先すら知らなかったし、浮き世離れした所もあったから携帯電話を持っていたのかも怪しい。全ての学部の学生課に片っ端から問い合わせてみたが、個人情報だからと取り合ってはくれなかった。

 どこかで事故にでもあったのではないか、犯罪に巻き込まれたのではないか。調べようにも、私は先輩のことを何一つ知らなかった。私は学生生活の殆どを、先輩と過ごしたというのに、肝心の情報は何一つないのだ。どうやら私たちの関係は、朽ちたサークル棟のように随分と脆いモノの上に、奇跡的なバランスで成り立っていたらしい。どちらかともなく交流を止めてしまえば、簡単に崩れて二度と交わる事はない。先輩の行方がわからなくなっても、世界はまるで、始めからそんな人物など居なかったかのように回り続けた。私の世界は色を失ってしまったというのに。

 就活を終えてから卒業までは、先輩の面影を捜す日々だった。といっても、私にできたのは流動的なメンバーに代わって部室でひたすら待つことだけで、記憶の中で雄弁に語る先輩は、時間と共にその輪郭を失っていく。そして、その声色も正確に思い出せなくなっていく過程の中で、徐々に私は「先輩など始めからいなくて、実は私だけが見ていた幻だったのだ」とか、「実は本当に未来人で、何らかの目的を果たして元の時代に帰ったのだ」と考えるようになった。そういう風にでも自分を騙さなければ、夜道で突然灯りを失ったような底知れない不安と、押しつぶされるような喪失感からは逃れることができなかった。前に進むために、私は先輩を美しい記憶の住人にしたのだ。

 先輩が失踪してから約一年後、いなくなった先輩の後を追うように大学を卒業した私は、普通の就活を経て、普通の会社に就職をした。それなりの給料が貰えるそれなりの職場で、自分がやりたい訳でもない仕事に従事して、気づけば5年が過ぎていた。

 振り返れば、ただ生きていくためだけの5年間だった。張り合いのない毎日の中で、日々擦り減っていく心を支えるために、先輩との思い出を消費して今日まで凌いできたが、もう限界だった。普通で良いと思って生きてきたが、普通で居続けることが一番大変なのだと身に染みて感じた。そして、私の普通とは、先輩と一緒に過ごすことなのだ。 

 差し障りのない対応しかできない私は、次第に会社で浮いた存在となり、いつしか居ない者のとして扱われるようになった。それだけならまだ耐えられたのだが、鬱憤を晴らす場所が欲しかったのだろうか、一年ほど前から陰湿な嫌がらせが始まった。そして今日、同期が犯した大きな失敗の責任を押し付けられ、部長たちから身に覚えのない叱責を受けた私は、追い討ちをかけるようにやってきた真夏の通り雨に全身を濡らしながら、もう無理だと悟った。これ以上、先のことを考えるのは無理だった。私の心は、先輩と過ごした日々に置いてきたのだ。社会人としての生活にすっかり疲弊した私は、人生の幕をひっそりと下ろす前に、最後の思い出にと懐かしい場所へ向かうことにした。


 山間を淡く染める夕日が沈む頃、懐かしい大学の構内にこっそりと侵入した私は、旧サークル棟があった場所に足を運んだ。しかし、思い出の建物は跡形もなく消え去っており、綺麗に舗装されて小洒落たベンチが立ち並ぶ広場になっていた。まるで知らない場所のように感じられ、そのあまりの変わり様に、あの時間までも幻だったかのように思えてくる。それでも、握り拳の中にある部室の鍵だけは、頼りなく足下を照らす外灯の光を反射させながら、あの場所は確かにここにあったのだと示している。

 再び小雨が降り始める中、何か痕跡がないかと探していると、不意に声をかけられた。振り返ると若い男女が訝しげに私を見ている。現役の学生さんだろうか。肩を寄せ合いながら、小さな赤い傘に二人で入っている姿に昔の記憶が蘇る。そう言えば、先輩とも一度だけ、今日みたいな通り雨の日に相合い傘をした。部室に置いてあったものの中からわざと小さな傘を選んで、図書館に向かった先輩を迎えに行ったのだ。結局、先輩は身体の半分をずぶ濡れにして、暫く風邪を引いていた。端から見れば5年前の私も、こんな風に輝いていたのだろうかと懐かしく思った。

 明らかに怪しんでいる様子の二人は、警戒しながらゆっくりと近づいてきた。スーツ姿のやつれた女が、死に場所を求めるように雨の中で暗い構内を彷徨っているのだ。どう見ても不審者か幽霊のように見えただろう。取り敢えず、私がまだ人間であることがわかったのか「何かお探しですか」と男の子が優しく訊ねてくる。この大学の卒業生であり、旧サークル棟の事を話すと、二人はハッと顔を見合わせた。それから新サークル棟の一角を案内してくれた。各部屋からは色んな部活やサークルに因んだ音や声が漏れていて、いつの時代でも賑やかだ。

「この部屋なんですけど」

「もしかして……」

 一番奥にある部屋だけが、他の部屋と扉や鍵の様式が違っていた。握り締めていた鍵を、ゆっくりと穴に差し込む。右に捻ると何の抵抗もなく回って、ガチャリとロックが外れる音がした。後ろで見守っていた二人が、おおっと声を上げる。

 電気をつけて中に入ると、そこは私たちの部室だった。私たちの部室にあったモノが、あの時のまま集められてる。どうしてここに、という問いに女の子が答える。誰かが気づいた時には鍵が替わっていて、開かずの間として有名だったらしい。侵入を試みても、気づけば意識を失って廊下で寝ており、誰一人として中に入ることはおろか、ドアを開けることも叶わなかったそうだ。

「この大学の七不思議の一つですよ」

「それが今、解明されたわけね」

 懐かしい匂いを鼻腔いっぱいに感じた瞬間、色褪せて味気ないものに変わってしまった記憶の数々が、水を与えたように色鮮やかに蘇っていく。ここで待っていれば、すぐに先輩が現れるような気がする。と同時に、先輩はもうこの世には居ないんじゃないかとも。

「ゆっくりしていって下さい」と残した二人の後ろ姿を見送りながら、私は、当時の私たちについて考えた。あれは一体、どういう関係だったのだろう。単なる先輩と後輩か。それとも端から見れば、恋人同士のようにも見えたのだろうか。だとしたら、そう思ってくれた誰かの中で、私たちは確かに結ばれていて、今も仲良く隣を歩いているのだろうか。


 先輩がよく抱えていたギターを手にとって、演奏していた姿を思い出しながら弦を鳴らしてみる。不格好な音が響き、苦笑いが出た。ギターってこんなに難しいのか。滑るように奏でられた優しく包み込むような音を、先輩は一体どうやって出していたのだろう。

 幾つかのコードを鳴らしていると、弦を押さえる指先が痛くなり始めた。艶を失った爪に、ささくれの立つ乾燥した肌が目に入る。ネイルもいつの間にかしなくなってしまった。くっきりと凹むように痕のついた指先が赤くなっているのを見つめていると、ふと疑問が浮かんだ。

 どうして弦が錆びていないのだろう。

 先輩が弦の交換をしていた姿が脳裏を横切る。

 開かずの間と言っていたけど、誰かが手入れをしているんじゃ……。

 その問いに答えるように、突然、ドアが開いた。

「下手な演奏が聞こえると思ったら」

「……なんで?」

 振り返ると、コンビニ袋を手にした先輩が立っていた。まるで、いなくなったあの時からここにタイムワープしてきたみたいで、とても五年の年月が流れたとは思えない。

「……先輩、どこいってたんですか?」

「どこってコンビニだけど」

「そうじゃなくて……」

 聞きたいのはそんなことじゃない。どうして突然、私の前から居なくなったのか。

 先輩がテーブルの上に置いたビニールの袋には、夏によく一緒に食べたアイスのパッケージが透けて見えている。

 ああ、そうか。

 私は夢を見ていたのか。

 本当の私はまだ大学生で、通り雨に濡れた服を、こうして部室で乾かしているうちに眠ってしまったのだ。そして悪い夢を見た。にしても悲惨な内容だった。代わり映えのない生活に失望して、生きる事を諦めようとするなんて。でも、数年後には正夢になっているかもしれないから笑えない。

「なんて顔してんだよ」 

「社会人なんてなるもんじゃないなって」

 いつものように脱いだ靴をきちんと揃えた先輩は、当たりクジ付きのアイスを手渡してくる。

「ありがとうございます」

「今日こそ当たるといいな」と微笑む先輩。

 そうですね、と返した私は、受け取ったアイスに口を付けた。懐かしく感じる味に、涙が出そうになる。

 それから私たちは、沢山の話をした。先輩がいなくなってからのこと、就職してからのこと、味気ない日々の生活に心が磨耗し、もうダメになってしまったこと。そういう長い夢を見ていたこと。先輩は私の話を、何度も頷きながら静かに聞いてくれた。

 喋り疲れたらボードゲームをして、楽器を弾いて、互いの静かな呼吸音を聞きながら本を読んだ。そして、先輩の唄を聴いているうちに、気がつけば朝になっていて、私は一人、机に伏して眠っていた。

 やっぱり、夢だったのだ。

 救いは、そう簡単にはやって来ない。

 そう思って机を見ると、アイスの当たり棒が残っていた。手に取ってよく見ると、マッキーペンで書かれていた。それは紛れもなく先輩の字で、思わず笑みがこぼれた。交換するまで大切にとっておかないと。

 カーテンを勢いよく開けた私は、窓を全開にして部屋の空気を入れ替える。私を包んでいた先輩の気配が、澄み切った空に溶け出すように流れて行ってしまう。太陽は既に見上げる位置にあって、突き刺すような眩しさの中で、眩暈がするほどの蝉の声が聞こえる。

 草木に潤いを与えた真夏の通り雨はすっかり止んで、水たまりがきらきらと輝いていた。

 もう少し、もう少しだけ、頑張ってみよう。

 部室の鍵を閉めた私は、雨に洗われた清々しい空気の中にゆっくりと足を踏み出した。

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