第4話

「昨日東伝くんが倒れて、今日の昼過ぎに意識を取り戻して、件くんに会いたいって言ってる」

 ショックのどん底から漸く脱した翌日の夕方、愚昧さんが電話越しにそう告げた。

「急がなくてもいいからね。急がずに、ゆっくりと東伝くんの家まで来て」

 そうくり返す彼女の声は、気軽な世間話をするときのように落ち着いている。「倒れた」という一語を聞いた瞬間は心臓が凍ったが、命の危機に瀕しているわけではないらしい。

 自己申告によると、先生はcholeraに感染している。先生があれほど警戒していたのだから、choleraは恐ろしいもののはずだ。とても無事だとは思えないが、愚昧さんが平然としているのだから、栄田くんが心配しすぎているだけなのだろう。

 それにしても、まさか、再び先生の家に行くことになるなんて。

 動揺や混乱がないと言えば嘘になる。それでも、冷静な振る舞いを意識ながら支度を整えていく。


「おっ、こんにちは」

 京山家のインターフォンを鳴らすと、愚昧さんが応対に出た。今日もお馴染みの暗灰色のストールを巻いている。三和土に出ている履物は、合計三足。

「東伝くんは目覚めてすぐ、件くんの名前を口にしたみたい。寝室で安静にしているから会ってあげて」

「分かりました。……えっと」

「どうしたの?」

「名前を口にした『みたい』ということは、『会いたい』という言葉は愚昧さんではない人に対して言った、ということですよね。履物、三足ありますけど」

「そう。あたしと件くん以外の親しい人間にね。件くんは心当たりがあるんじゃない?」

 その返答を聞いて、先生でも愚昧さんでもない人物の正体が分かった。

 栄田くんはしかつめらしい顔で頷き、草履を脱いで家に上がる。愚昧さんの先導のもと、先生の寝室へ。

 場所も用途も把握していたが、一度も中をお目にかかることがなかった一室の襖が、愚昧さんの手によって開かれる。

 広さは栄田くんに宛がわれていた部屋とほぼ同じ。閑散として殺風景な空間の中央付近に一枚、その三十センチほど右隣にも一枚、布団が敷かれている。みすぼらしくはないが高級でもない、ごく普通の布団だ。

 二枚とも人が横になり、首から上を掛け布団から出している。前者は先生で、後者は心愛。先生は仰向けの姿勢で、心愛は体ごと先生の方を向いている。両者とも目を瞑り、身じろぎ一つしない。

 気配を感じたらしく、先生が瞼を開いた。窮屈そうにほんの少し首を持ち上げる。戸口に佇む愚昧さんを数秒間見つめ、斜め後ろに控える栄田くんへと視線を転じる。

 先生の瞳は、色ばかりが鮮やかなガラス玉のように空虚だ。それでいて、これまでで最も強く、栄田くんの干渉を欲している。

「昨日の昼過ぎって言っていたかな。心愛ちゃんは用があってこの家に来たんだけど、何度インターフォンを鳴らしても応答がなかったから、胸騒ぎがしたらしいのね。それで窓ガラスを割って中に入ったら、書斎で倒れている東伝くんを発見したんだって。看病、昨日からかなりがんばってくれたみたいで、今はこのとおり。一人だと心もとないから、ということであたしが呼ばれて、『件くんと会いたいと訴えている』と心愛ちゃんから聞かされて、あなたを呼んだという経緯なんだけど」

 愚昧さんは淡々と説明し、栄田くんの背中を軽く押すようにそっと叩く。

「話を聞いてあげて。短い間ではあったけど、あなたの主人だった人なんだから」

 栄田くんは首肯し、先生の寝床へと歩を進める。枕元に置き時計が置いてある。栄田くんが働いていた当時、玄関の事務机の上に置かれていたものだ。

 現在時刻も分からない部屋で、先生は毎日寝起きしていたのだ。

 栄田くんは泣きそうになる。込み上げてくるものをどうにか堪え、敷き布団のかたわらに跪く。

 先生の首がゆっくりと回り、虚ろな双眸が元書生の顔を捉えた。

「君には申し訳ないことをしたね。どう謝ればいいのか、作家のくせに言葉が見つからないよ」

 声はあまり出ていないが、口調は比較的しっかりしている。栄田くんは頭を振った。

「責任は、先生の期待に沿えなかったわたくしにあります。choleraの侵入を許してしまい、申し訳ございませんでした」

 深々と頭を下げる。昨日別れたときも、最後はお辞儀だったと思い出す。

「謝らないでくれ。君自身のためにも、心愛のためにも。昨日は大人気もなく、感情的になって君を怒鳴りつけたが、今では君が取った行動は正しかったと認めているよ。私がcholeraを発症したのは、心の余裕を失い、栄田や心愛に不当に厳しく接してしまったのが原因なのだから、自業自得というわけだ」

「発症? どういうことですか?」

「感染した原因は君の帰りが遅かったからだが、発症の引き金は君を馘首したことだった、という意味だよ。一般的な感染症と同じく、感染と発症のタイミングは同じではないからね。もっともcholeraは、肉体ではなく精神に作用する病。作家生命を破壊する病なのだが」

「作家生命を、破壊する……」

「底なしのスランプ、とでも表現すればいいのかな。choleraに罹患した作家は、二度とペンを握れなくなるくらいに、創作意欲と想像力が衰えてしまうのだよ。昨日の昼前、君と別れるさいに、『作家としても終わりだし、人生も終わりだ』という意味のことを私は喚いただろう。あの発言はね、栄田。私は文章を書くしか能がないから、作家として生きていくしか道がないから、choleraに感染した時点で破滅したに等しいという意味なのだよ」

「……先生」

「この説明を聞いて、私が病的にcholeraを恐れた理由が腑に落ちただろう。土川先生も本岡先生も、それぞれの考え方でcholeraを割り切っているというのに、私ときたら……。私は両先生よりもデビューの年齢が早かったが、作家として生きていくために必要なものを手にしないまま、作家人生を歩み始めてしまったのかもしれない。いくら大人びた態度をとろうが、どれだけ端正な文章を書こうが、心は青いままだ。なにせ私は、cholera感染を過度に恐れていることを誰にも知られたくなくて、名状しがたいだの、変幻自在だのと、曖昧な説明に終始してきたのだから。プライドが高くて、そのくせ幼稚で……。情けないにも程がある」

 先生は力尽きたように後頭部を枕につけ、瞑目する。

 心臓が物理的に痛む。返す言葉が浮かばない。目の前の弱々しい先生をどう受け止めればいいかが分からない。

 栄田件にとって京山東伝は、遥かなる目標であると同時に、不変不動の尊敬の対象だ。

 生活を共にする中で、抱いていたイメージとの相違、不満に思う点などはいくつか浮き彫りになったが、失望の念を覚えたことは一度たりともなかった。一瞬たりとも揺らぐことなく、先生は栄田くんにとって憧れの人であり続けた。

 しかし、こうも露骨に、下品なまでにあからさまに弱さを見つけられると。

「それにしても、疲れたよ。choleraに心を蝕まれていることを差し引いても、疲れた。まあ、長きにわたる試みが徒労に終わったのだから無理もないのだが」

 おもむろに瞼を持ち上げ、先生は再びしゃべり出した。

「私はね、栄田。choleraに対する最強の番人として君を育成するために、君を厳しく指導してきた。しかし、先程も言及したように、愚かにも目標や目的に囚われるあまり、それ以外の一切を蔑ろにするのも厭わないという、心の余裕を欠いた態度を取った。それこそがcholeraを発症する要因だとは知らずに、君に甘い対応をとってしまうたびに、物語を途中からやり直して、cholera感染や発症から免れる未来を模索してきた。その結果が、このとおり。発症の直接のきっかけが、番人候補ではない心愛にまで厳しい態度で臨み、それを哀れに思った栄田が彼女を助け、その行動を私が叱ったことなのだから、皮肉としか言いようがないな」

「……えっと。物語をやり直したというのは、どういう……」

「伝え忘れていたが、この世界と、この世界にいる人間は全て、私の創作物だ。心愛も、三輪木も。そして言うまでもなく、栄田件、君も例外ではない。土川先生や本岡先生など、実在の人物にアレンジを施した者も中にはいるが、本人そのものではないという意味で、私の創作物であることに変わりはない」

 栄田くんは口を半分開けた顔で愚昧さんを振り返る。最後に見たときと同じ場所で同じ体勢でいた彼女は、事もなげに首を縦に振った。

「記憶を遡ってみるといい。栄田はこれまでに随分と、非科学的で、超現実的で、荒唐無稽な事象に遭遇してきただろう。それらは全て、私の空想が反映されたものだ。要するに、私が描き出した世界だからこその事象というわけだ」

 あまりにも簡潔すぎる説明だったが、この世界や世界観、自分や愚昧さんや心愛は先生が創り出したものなのだと、瞬時に、なおかつ心の底から納得できた。

 僕が物語の登場人物で、「先生の説明に瞬時かつ完璧に納得する人物」として設定されたからこそ、瞬時に、そして心の底に納得できたのだ――栄田くんはそう理解する。

「choleraという名称も、私が実際に生きている世界では、全く別の病気のことを指しているのだよ。栄田たちは知らなかっただろう? 当然だな。『登場人物は本来のcholeraを知らない』という設定にしたのだから。恐ろしい病という意味でcholeraと名付けたのだが――これ以上余計なことを話すのは慎もう。無益だし、ただ口を動かすだけでも酷く疲れるからね」

 先生はいったん口をつぐみ、気力を振り絞るようにして再び唇を動かす。

「栄田たちには迷惑をかけたし、何度もやり直した分愛着も感じている。だから『cholera』と題されたこの物語は、私の手では終止符を打たないでおく。choleraを発症してしまった以上は、どうせ満足がいく仕上がりは見込めないのだから、いっそ未完結のまま放っておいた方がいい。物書きのつまらないプライドというやつだ。これからは、私が考えた筋書きではなく、己の意思に忠実に行動してくれたまえ。不安なら三輪木に相談するといい」

 再び瞼が閉ざされ、短くも重々しいため息。

「……仕方なかったんだ。傍から見れば馬鹿げているだろう。私自身もそう思う。しかし、死にたくなかった。不様でもしがみついていたかった。藁にもすがる思いだったのだよ。作中で自分自身を救済できたとしても、現実の私が作家として成功できる保証はない。そんなことは百も承知している。承知の上での『cholera』執筆だった。しかし私は、フィクションの世界ですら自分自身を救えなかった。運命だったのかもしれない。どう足掻こうが変えられなかったのかもしれない。私が敗北するのは運命だと言うのなら、諦めるしかない。受け入れるしかない。いくら納得がいかなくても、負けるのが嫌でも、そうなる運命なのだから。この世界はそのように創られているのだから……」

 永遠にでも続いていきそうな譫言がやむ。数秒間の沈黙を挟み、疲れたような声が先生の口からこぼれ落ちる。

「栄田、帰ってくれ。君に話すことはもうない」

「……承知いたしました。先生、ありがとうございました」

 こちらを見ていないのを理解したうえで頭を下げ、立ち上がる。黙して移動を開始した愚昧さんのあとに続く。

「施錠は、まあいいか。もう必要ないし」

 玄関扉を潜るさい、愚昧さんは栄田くんを向いてそう言った。彼は無言で頷き、扉を静かに閉ざした。

 ありがとうございました。いつまでも、いつまでもお元気で。

 心の中で呟いたが、切なさが込み上げてくることはない。

 物語の鎖から解き放たれたのだから、これは先生が決めたことではない。

 そう思うと、切ない気持ちが漸く追いついた。


「いやぁ、まさか、こんなことになるとはね」

 愚昧さんは分厚いトンカツを咀嚼しながら言う。

 彼女の対面の席、口の中の白米を飲み下した栄田くんは、「そうですね」と答えようとした。実際にそう唇を動かした。しかし、声には変換されなかった。

 書生を馘首となって初となる『紀尾井坂の虎』での食事。恐るべき真実を伝えられたあとでも空腹は覚えるものらしく、二人は絶え間なく箸と口を動かしている。京山家から『紀尾井坂の虎』へと移動する道中も、入店してからも、奇抜な光景は目にしていない。

 先生が言ったことは正しかったのだ。僕たちは物語の鎖から解き放たれたのだ。

 栄田くんはしみじみとそう実感する。

「件くんはどう思った? 自分も含めたこの世界が、神でもなんでもない一個人の創作物だと知って」

 トンカツの切れ端を口に放り込んで咀嚼し、フリーになったばかりの箸で栄田くんを指しながら、愚昧さんが問う。彼は白米に続いて口に入れた、キャベツの千切り数本を飲み下してから、

「驚きました。……と、答えたいところですけど、そうではなかったですね。ああそうなんだ、みたいな。拍子抜けするくらいあっさりと腑に落ちて、あっさりと腑に落ちたこと自体もなんとも思わなくて」

「東伝くんがそういうふうに設定したんだろうね。自己の存在の根幹に関わるシリアスな真実を告げられても、慌てふためかない人物ですよっていう設定に」

「やはり、そういうことですか」

「そうでしょ。そうとしか考えられない」

「驚きはなかったし、それが真実だと納得しています。ただ、矛盾するようですけど、信じられない気持ちがないわけではないんですよね。自分がフィクションの世界の登場人物だと気がつく、という趣向の物語作品の存在は知っていましたが、まさか自分が該当するとは思わなかったという意味で」

「ほんと信じられないよね。あたしですらそうだもん。東伝くんはどうも、あたしを精神的にかなりタフな人間に設定しているみたいだけど、それでも信じられないからね」

 淡々とそう応じて、新しいトンカツを箸でつまむ。栄田くんは無言で自分の皿のトンカツにウスターソースをかける。言葉なく食事をとるだけの時間が流れる。

「で、件くんはこれからどうする予定?」

 愚昧さんの静かな声が沈黙を破った。

「東伝くんが物語を途中で投げ出しちゃったから、これからあたしたちは、自分の意思で生きていかなきゃいけないわけだけど」

「正直、分からないです。あまりにも急だったので、右も左も」

「そうよね。まあ、それが普通の反応」

「愚昧さんはそうではない、みたいな言い方ですけど」

「いや、同じだよ。あたしもどうすればいいか分からないから、こうしてトンカツを食べて間を繋いでいるわけ。あ、でも、件くんがどうすればいいかは分かるよ」

 そば米汁の椀を持ち上げようとしていた栄田くんの手が止まる。愚昧さんは勿体をつけるように丹念に咀嚼してから嚥下し、

「二通りあると思うの。一つは、実家に帰って、平凡で人間らしい人生を送ること。もう一つは、東伝くんの後継者となって物語を書き継ぐこと。要は『cholera』の二代目の作者になるということね」

「僕が先生の作品を、ですか?」

「件くんのことだから、一介の登場人物に過ぎない自分にそんな大それた真似ができるのか、とかなんとか思ってるんでしょ。でも、あたしの考えだとできるよ。普通にできる」

 その根拠は? と目で問う。愚昧さんの回答はこうだった。

「よく考えてみて。件くんは書生兼choleraの番人として、東伝くんのもとで働いていたわけだよね?」

「はい、そうです」

「書生というのは、早い話が家事手伝いだよね。だから雇用する側としては、たとえ自分自身が小説家だとしても、小説家志望の若者を雇わなければならない理由はない。むしろ、体力があるとか、料理が上手だとか、そういうスキルを持っていた方が好都合。そうでしょう?」

「愚昧さんの言うとおりだと思います」

「それにもかかわらず、東伝くんはなぜ件くんを選んだの? 小説家志望の平凡な青年である件くんを。それは多分、というか絶対に、自分の後継者に据えるつもりだったからでしょ。choleraから守ってもらうというよりも、choleraに膝を屈したあとのことを考えてあなたを採用したんじゃないかな」

「後継者……。僕が、先生の……」

「東伝くんが物語を自らの手で閉じるんじゃなくて、投げ出すという対応を取ったのは、件くんに書き継いでほしかったから。そして、この世界の作者である東伝くんが、自らの後継者として件くんという存在を創り出したからには、件くんは東伝くんの後継者に確実になれる。そうは考えられないかな?」

 あまりにも飛躍しすぎた推論なのではないか、と栄田くんは思った。一方で、愚昧さんが唱える説に、斬り捨てがたい魅力を感じてもいる。それが真実だとは思えないが、真実だと信じてみたいとは思う。

 憧れの作家の絶筆となった作品を、書き継ぐ。

 小説家を志し、京山東伝に憧れる栄田くんにとって、これ以上に魅力的な未来はなかなかない。

「当たり前だけど、件くんが歩む道を決めるのは件くん。普通の暮らしを送るのか、物語の続きを執筆するのか、はたまた第三第四第五の選択肢の中から選ぶのか。それは他ならぬあなた自身が決めなければいけない。あたしはあくまでも、たとえばこんな道もありますよって、友人として、あるいは人生の先輩として教えただけだから。相談したいのなら乗るけど、基本的には自分の頭で考えるべきじゃないかな。――さあ、頭だけじゃなくて箸も動かして」


 愚昧さんと別れ、自宅までの道のりを歩く。

 歩き出してしばらくは、周囲に注意を向ける時間が長かった。しかし、明らかな異常と呼べるような異常は一瞬たりとも視界に映らない。嗅覚でも、聴覚でも、触覚でも、味覚でもキャッチできない。

 栄田件は物語の鎖から解き放たれた。それが厳然たる現実なのだ。

 そう結論したのを潮に、今後の自らの活動方針について考えてみる。

 栄田くんは小説が好きだ。書くのも、読むのも。

 そして、京山東伝が好きだ。小説家としても、人間としても。

 この二点は、絶対的な事実であると断言できる。先生の手によって植えつけられた「好き」なのかもしれないが、好きであることに変わりない。

 だからこそ、書き継ぎたいと思う。『cholera』と題された、先生の敗北を絶対の通過点とする物語を。

 では、どう紡いでいこう? 僕のような半人前が、すでにcholeraに屈してしまった状況から先生を救済するという、難しい仕事を成し遂げられるのだろう?

「……いや」

 なにも馬鹿正直に、途切れた箇所から書き始める必要はない。消しゴムをかけよう。気に入らない部分は消してしまい、ここぞという場面を始点に定めて書き足していけばいい。物語の作者は、いわば神。神の力であれば、神を創出した神が既成事実とした事実でさえも、なかったことにできるはずだ。いや、きっとできる。

 そして、幸福に物語を終えるのだ。

「……でも」

 本当に、僕にそんな大それた真似ができるのだろうか? 神とは言い条、物語を紡いでいくための技術・経験・知識、なにもかも不足しているのに。

 考えならば、ある。短所を補うための秘策ならば、一つだけ見つけている。

 不安がないと言えば嘘になる。それでも、やらなければならない。それ以上に、やってみたい。

 栄田くんは決然と顔を上げ、進路を変えた。力強い、迷いのない、泰然自若とした足取りで目的地へ向かう。


 砂埃が立つ往来を直進し、大きな樫の木の前を右折し、さらに道を進むと、小高い山を背にして建つ京山家に突き当たる。

 先生が物語を擲っても、敷地を囲うフェンスがなく、庭と山がなかば一体化していることに変わりはない。玄関扉の真上の壁に、木の棒に突き刺さった鰯の頭部が飾られているのも同じだ。

 鰯の頭部を飾る行為には、確か魔除けという意味があったはずだ。先生は鰯の頭部を、玄関――幽玄なる世界に通じる関門に掲げることで、幽玄なる世界の住人たるcholeraの侵入を阻止しようとしたのだ。

 一方で、自宅の敷地を囲うフェンスは設置しないという、ちぐはぐな対応を取ってもいる。

 どちらが本来の先生なのだろう?

「――両方だ」

 choleraへの感染をなんとしてでも防ぎたい。一方で、他者との交流も諦めたくない。だからこそ、フェンスは設けない。玄関番も雇う。choleraに対する恐れをもってしても消せないほど強く、人と深く交わりたい願望を抱いているから。作家は、孤独を愛する寂しい生き物などでは断じてない。

 楽にしてあげたい。

 choleraに感染する恐怖から先生を解放してあげたい。先生にとって不幸な形で、ではなく、栄田くん・愚昧さん・心愛――そして先生自身、その誰にとっても幸福な形で。

 インターフォンを鳴らした。不思議と緊張はなかった。足音と気配が近づいてくる。施錠が解かれ、扉が開かれた。

「ああ、君か」

 応対に出たのは、紛れもなく京山東伝だ。青白い顔に、こけた頬。痩せた体を藍色の作務衣で包んだ、憧れの先生。

「申し遅れました。わたくしは、本日から書生として京山先生のお世話になる、栄田件です。よろしくお願いします」

 深々と頭を下げる。くり返している、と思う。しかし、自らの意思でやっていることだ。神に操られた結果の自己紹介とお辞儀、ではない。

「話は三輪木から聞いている。まずは荷物を君の部屋に置いてもらって、それから仕事の説明に入らせてもらう。説明が終わったら、さっそくだが仕事だ。さあ、入って」

 先生に続いて栄田くんも中に入る。懐かしい、と思った。玄関に置かれた、スチール製の机と丸椅子。栄田くんの定位置だった場所。涙が出そうになるくらい懐かしい。黒電話も、アナログ式の置き時計も。

「戸締りを頼む。今回だけではなく、今後はその点に特に注意して――」

「choleraが侵入するとまずいから、ですよね?」

 先生の顔に驚愕が浮かんだ。今までに一度も見たことがない顔。人間らしい顔。

「知っていますよ、先生。先生はcholeraを病的に恐れている。choleraに感染し、発症してしまうと、二度と小説が書けなくなるから。小説を書くことでしか生きていけない先生にとって、それは死に等しい。だから、恐れている」

「栄田、君は――」

「先生、聞いてください。僕は今から、先生にとってとても大切なことを言います。いいですか。よく聞いてください」

 世界が最上の静けさに包まれた。真剣な顔つきで、先生の目を臆することなく見つめる。

「この世界にcholeraは実在しません」

 一転、表情をにこやかに弛緩させ、そっと言い添える。

「この世界の神である僕が断言するのだから、間違いありません」

 創造主としての知識と技術の不足を補う秘策――それは、物語を早々に閉じてしまうこと。

 ご都合主義でも、乱暴でも、投げやりでも、救われる人間がいるのならそれで構わない。

 それが栄田くんの下した結論だ。

 先生の瞳が潤いの膜に覆われた。崩れ落ちるようにその場に跪き、胸の前で両手を組み合わせ、首を垂れる。栄田くんは先生を真正面から抱き締める。

「先生。六日後に先生の実家からサツマイモが届くので、みんなでいっしょに庭で焼き芋をしましょう。先生と、僕と、愚昧さんと、心愛さんの四人で。絶対に楽しい時間になります。間違いなくなります」

 いつだって世界は変えられる。

 なぜならこの世界は、そのように創られているから。

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なぜならこの世界は 阿波野治 @aaaaaaaa

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