殺さないアサシンの臨時休暇

茅花

 case0

 チクショウめ、目が開かない。上がらない瞼の裏側を覚えのある人の顔や場面が通り過ぎてゆく。これが走馬灯というヤツか。

 ふっ、と声に出して笑うと口から血が吹き出した。顎が酷く痛む。ガスの臭いが着実に強くなってきていた。もう起き上がるのは無理そうだ。起き上がれたとして、膝から先が瓦礫に埋もれている。これでは寝返りも打てない。ヒビが入っている。間違いない、経験上よく判る感覚だ。

 

 クソみてえな人生だったな。

 

 また笑いが込み上げた。ただ誰であろうと、いくらクソみたいであったとしても人生の最後は大事な時間であって、尊厳を損なわれることは許されない。今までどう生きて来たかで判断されるのならば




自分に関して言えば、このままおしまいまで静かに過ごせればそれで上々というところか。死んだら月の裏側へ行こう。きっとこの筋肉はよく売れる、そんなことを考えている内に、目の前が文字通り暗転した。





 病室は白い。天井も床も壁も清潔な白。白いものは苦手だから身に纏わないし近付かない。私のような者が触れれば汚してしまうような気がして、だから白に囲まれているのはどうしても落ち着かなかった。


「眉の下を縫いました」


 自分が縫ったわけでもないだろうに、申し訳なさそうな顔をして桜川が静かに言う。

 そうなんだろうと思っていた。右目がビクともしないように厳重な装備を施されている。片目でしか見えていないことに最初は気が付かなかった。

「箔が付いたな」

 自分の声がやけにしゃがれていることが面白くて笑いそうになる。そうすると顔が痛い。

真唯まいさん」

 桜川さくがまた申し訳なさそうに手を合わせている。本職の和尚に対面でそれをされるのは複雑な気持ちになった。しかも此処は病室で私は死にかけたばかりなのですが。


「労災がおりるそうです。しばらく休んでくださいね」


 さくは優しいから、きっと多くの言葉を飲み込んでいる。本当は言いたいことがたくさんあるだろう。

「あと左足の膝から下はヒビが入っています、まあまあ入っています。ご無理をなさいませんよう」

「でも足治るってさ。よかったね、竜巻旋風脚出せるの真唯だけだもん」

「出したことねえよ。あんなに回転してねえよ、いくらなんでも」

「よく考えたら宙に浮いてる時間が長すぎますもんね」

 お互い素性を知っている数少ない同僚たちが何人か集まっていた。会社から用意された個室は彼らにとっては快適なようで、同僚たちは皆やけに饒舌だった。あるいは励ましてくれようとでも思っているのかもしれない。嬉しいけれど、気恥ずかしいからそういうのは苦手なんだ。そして多分それはお互い様。


 アサシンと呼ばれることもあるがそれは誤解である。私の仕事は相手の動きを拘束したり、凝らしめるのにせいぜい驚かせて気絶させるくらいまでだ。あとは時間稼ぎや足止めもする。それを「マイルドな方のアサシン」と誰かが名付けて、そう呼ばれているらしい。知らんけど。吐かせ屋だの始末屋だのと様々な専門職の人がいるらしいが、顔を知っている相手は少ない。裏方のお仕事だ。

「あんなのかすっただけで絶対吹っ飛ぶじゃん。同じ場所に立って何発も喰らってる方がスゲーよ」

「あ、まだ竜巻旋風脚の話してます?」

 記録係の緑は頭が良いからいつも色んなことを同時に考えている。きっと今も既に別の考え事をしていたのだろう。

「喋んの遅くなってんだよ、口いてーから」

「喋んなくていい」

「看護師さんが来ますよ。安静にしてないとシメられます」

 緑が言った通り、次の瞬間ドアがノックされた。



「さく、ラジオつけて」  

 看護師さんから渡された痛み止めを飲んだ途端、凄まじい眠気に見舞われた。微睡むなんて良いものではなく、吸い込まれるような抗えなさがある。落ちるのはもうすぐだろう。さくの返事は無いが、すぐに電子音とノイズが聴こえてきた。もの悲しいピアノ伴奏によく似合う儚い歌詞が聴こえてくる。あの今際の際に聴こえたアルペジオ。もう眠っちゃってもいいかなと思わせる、月の裏側へ誘う小唄。


「また来るよ」


 さくは大柄の見かけによらず女子力が高いから肩に布団をかけてくれた。カーテンも閉めてもらえば良かった。日差しが強い。寝返りを打って窓に背を向けると背中が暖かくて、何秒もせず眠りに落ちてしまった。目が覚めたら3日後の朝になっていた。なんだあの薬。


 しばらく母にも祖母にも会えそうもないのは鏡を見なくても解る。姉にはなんとか、といったところか。ショックで心臓が止まることはないと思われるが心配はかけたくなかった。堅気の仕事に紛れ込むのも難しいかもしれない。緑が税務署や企業に潜り込む際のボディガードをすることもある。あれは楽で良い仕事なのにな。目の上の傷は抜糸したばかりで顔の特徴としては印象的すぎる。体も動かせないし片目では本も読みにくい。できることがないから、報告書を書く時の為に今回のことを思い出しておかなければ。メモを取りたいのに手が異常に重い。


 依頼が入ったのは二週間前の水曜日だった。依頼が何処から入って来るのか知らされたことはない。ただ、だいたいの理由は聞かされる。予算だの場所だの登場人物だのが記された、起案書と呼ばれる資料がいつもより分厚かった。起案書は進捗によって追加されることもあり、ミッションが完遂された時点で案件番号が外される。引き続くようなら枝番号が書き足される決まりになっているらしい。説明されたことがあるが事務方の掟なので詳しくは知らなかった。

 起案書を受け取った時点では何とも思っていなかったけれど、今回の仕事は今思うと初めから危険だった。


「危ないと思ったら帰ってきちゃって大丈夫だから」


 珍しく社長からそんなことまで言われていたのに深入りしてしまったから罰が当たったのだ。


 case《あの子》のことは近所の飲食店でよく見かけた。カレー屋やラーメン屋で見ることが多い。恐らく私の住む近くで会社勤めをしていて、私と嗜好が似ているんだろう。

「いただきます!」と必ず手を合わせて、それはそれは美味しそうに食べる。店を出るときには「ごちそうさまでした!」と厨房にまで聞こえるような声で叫ぶ。たぶん声が大きいだけなのだろうとも思う。「おいしい!」というちょっとした感想がしばしば店内を轟く場面に遭遇することもある。自分の天然すぎる姉を見ているみたいで微笑ましくも、心配になって目が離せないのだ。夕方に駅でも見たことがあった。切符を買おうとして小銭をぶちまけてしまったおじいさんと一緒に小銭を拾って渡してあげていた。後ろ向きのおじいさんの足の間から「はい」と渡すあの子と、「ありがとう~」と前屈の体勢で受け取るおじいさんが周囲を和ませていた。そういうわけであの子のことことは気に入っていたから、起案書を読んでいる内に眉間がくっついてくるのを感じていた。


 あの子より十は年上の元彼は仕事の続かない男で、ギャンブルに敗けては借金を繰り返して周囲に迷惑をかけているらしい。今回この男が金を借りた相手というのが、北区で店をやっている知り合いだった。この知り合いが更に良くない。返せないのなら女の子の働き手を用意しろと男に言ってきた。男に友人なんているはずもなく、北区に住むあの子のことを差し出そうと目論んだ。付き合っていたといっても、お試し中の最初のデートでこの男とは合わないと気付いた彼女が男の元を去ったという話だった。期間にして四日間。その部分だけは読んでいて鼻を鳴らしてしまった。あの子が学生だった三年前のことだ。

 あの子が就職先の近くへ引っ越しをして北区に住んでいるのを男が知ったのは、例の店長に借金の申込みに来た時だった。いったい誰がこんなにも子細に調べて来るのか。調べ屋がいるんだろうね。

 実は、店長は会社帰りに店の近くを通るあの子に目を付けていたらしい。何度かポン引きに「店で働かないか」と声をかけさせてもいたらしい。男はあの子を連れてくれば借金をチャラにしてやると言われていた。そもそも自分の借金の為に働いてくれる若い女の子がいると思い込んでしまったところがもうおめでたい。脳内でカーニバルでも開催されいるのではあるまいか。そんなうまい話があってたまるかアホンダラ。ボケ、カス。頭に蟲でもわいてんじゃねえのか。

「真唯さん、感想が駄々漏れです」

「だってさ」

 こういう思い込みの激しい個体は大体にして、自分の思い通りの未来がやってくることを疑っていない。そして想定外のことが起きてから取り返しのつかないことに気が付いて——気が付けることができればの話だが、途方に暮れる。この男は最初から殺される予定になっていた。


 この知り合いの店長も経営が苦しかったとある。借金も男の比ではなかった。そこで店長は愛人と心中を図ることにした。表向きには、という話だ。店長役が男、愛人役があの子というわけだ。店ごと焼いて証拠を消して海外にでも行けばいい、という青写真があった。


「あたしはあの子を助けるだけで良いんですね?」


 念の為の確認だ。余計なことはしたくなかった。

 鳥海社長は細い顎を引く。


「店長達の捕獲は専門の会社とこでやるよ」

「承知した」


 あんなクソ野郎にあの子の人生を邪魔させてたまるか。防げるのなら防ごうじゃないか。私は守るために戦うんだ、毎回ではないけどね。



 その店は申し開きようのない怪しさを放っていた。もともと濁っていたであろう赤の壁は脂で汚れ色褪せていて、どす黒くも見える。路地裏に佇む、やはり怪しさしかない外見をした建物の周りには見張りが何人かいたが、まあ特別なことは何もない。いつもの仕事をしただけだよ。


 2階の奥の薄暗い店に到着した時には元彼のクソ野郎は息をしていなかった。と思われる。


 ほらみろ。ろくな死に方をしない。


 生存の確認をしなかったのはどうでもよかったり触りたくなかったというのもあったけれど、カウンターにうつぶせているあの子の姿を見付けたからだ。これはよろしくない。既に一階は燃え始めている。消火の指示は出ていなかった。確か何かの思惑があって、それに関しての説明を受けたはずだが失念した。向こうが把握している以上は報告することでもないので良しとしておきましょう。


 あの子の近くに寄って名前を呼びかけても揺すっても、唸り声をあげる以外の反応は無い。大量の酒か、あるいは薬も飲まされているかもしれない。どっちみち病院には連れて行く手筈になっていた。運び屋が下に待機している。病院には記憶を消す忘れさせ屋がいる。

 もう一人転がっていた女は多分、起案書にあったあの子の同僚だ。スロット屋で出会った例の元彼から店に連れてくるように話を持ちかけられたらしい。これは店長の入れ知恵で、幾らかのを受け取ったようだ。私の感情だけで判断するならば捨て置いても構わなかったが、この女にはどうも子供がいるらしかった。千明が来たら相談してみよう。今はこんな女に構っている場合ではない。

 あの子を運び出そうと試みたが私ひとりではダメそうだった。力が強くても私は体が大きくない。身長155センチ。自分より背の高い、まして泥酔して眠っている人間を一人で運ぶなんて無理だ。

 千明は連絡してからすぐに来てくれた。あの子と倒れている女を交互に見る。

「窓から外に出るのであれば二人同時に運ぶのは無理があるな」

「じゃあとにかくこの子をお願い」

 千明が無言で頷いて、あの子を背中に背負って窓枠をくぐり、あっという間に地面に着いたのと同時だった。背後で静かにドアの開く音がした。黒いスーツに黒い手袋。店長ではなさそうだ。英語で「誰だ」と聞いてくる。絶対に味方ではない。敵と遭遇してもお互い不利益な戦いはしないことが多い、今回もそうであってほしかった。だって相手は一瞬で判るほど相当の使い手だ。そんじょそこらの気迫ではない。


「Bring it on」


 流暢な英語だった。静かな口調であったことが余計に私を後悔させる。慢心していた。ここのところ安全で簡単なお仕事ばかりだったから油断していたのだ。こんな仕事をしていれば刃物を持ち歩く人間に出くわすことなんか当然ある。だから刃物に怯んだわけではない。私に倒せない相手なんかそういない、なんて思い上がりも甚だしい。自分をぶん殴ってやりたい。まあ、そこは代わりに相手がぶん殴ってくれたわけだが。おかげで目が覚めた。


 あれはカンフーだろうか。うっとりと眺めていたいのに観察などしている余裕も生まれないほどの凄まじい速さだった。しかもナイフを持っている。ここまでステゴロを極めていながらそんなものを持ち出したことに驚いていた。それはつまり、獲物はどんな手段を使っても仕留めるということだ。相手がプロだと確信した時はもうとっくに手遅れで、私はコテンパンに踏み付けられた後だった。獲物とは思われなかったのかトドメは刺されずに済んだので命拾いだけはした。もしくは放っておけば勝手に息を引き取ると思われたのかもしれない。煙が部屋に充満して、地面も床暖房より暖かい。見えてはいなかったけれど気配と音で彼が店内を歩くのがわかった。それは迷いの無い足取りだった。ブツンッと何かを切る音がして、今度は足早に部屋を出ていく音が聞こえた。恐らくあの子や千明を追ったりはしないだろう。彼らの目的は判らないけれど、私たちの存在などあちら側の任務にとって重要ではなさそうだ。

 さあ、私も脱出しなければ。


 ここで最初の記憶に戻る。いつの間にか足の上に剥がれた壁が積まれていた。きっと意識が途切れ途切れになっていたのだろう。窓が開いているというのに堪らなくガス臭い。事態は一刻を争うのに体が動かない。

 時間をかけてしまったのも良くなかった。あの子さえ連れ出せればミッション完遂というところだったのに。相手は下にいたのと違って単なるチンピラではないとすぐに気付いたのに。窓から覗いた限り飛び降りられなくもない高さだった。千明が壁伝いで着地したのを見届けた時に飛び出してしまえば良かったのだ。

 室内ではドンガラガッシャンと景気の良い音を立てて壁が落ちている。その度に埃が舞って、もう店内の環境の悪さと言ったらなかった。とは言っても、もともと環境の良い店では無かったであろうことは想像ができる。辿ってきた通りの当然の終末を迎えているといったところか。問題なのは私もその店の一部になろうとしていることだ。意識が途絶える瞬間、顔に人の手が触れた。不思議と嫌悪感は無かった。ガス臭さと煙と熱気に包まれて朦朧とする中で、誰かが足の上の瓦礫を避けてくれているのがわかった。相変わらず瞼は動かない。


「千明、いいよ。逃げて」 


「そうはいくか」 


 アタリ。やっぱり千明だった。


「いいって、髪の毛燃えちゃうから」

 ブリーチした髪はパサパサしてよく燃えそうだから心配になる。


「帽子かぶってる。口開けんな」


 運び屋の彼はいつもと変わらないぶっきらぼうの口調で返事をした。送迎の担当をしていて、もう何十回と迎えに来てもらったことがある。需要によっては逃がし屋と呼ばれたりもしているらしい。私を肩に担ぐと窓枠を飛び越えた。体の揺れで感じただけだけれど、その様子は脳内で華麗に再生できる。自分の目で見たかったと思うが開かないことには仕方ない。



「千明」

「なんだ」

「ありがとう」


「ふ」と声だけ聞こえる。


 一生懸命コーヒーに息を吹きかけているから笑ったわけではないのかもしれない。

「私だってコーヒー飲みたいのに、自分ばっかり」

「起き上がれるようになってから飲むがいい」

 病室には西日が差している。千明はきっとこの後、何かを運びに行くのだろう。赤いキャップを被りなおした。あまり変化は見られなかったが彼なりに気合いを入れたのだと思う。


「迷惑にはならなかったか?」


 少しだけ振り向いて千明が言った。横顔に夕陽が射すから表情は見えない。


「何でだよ。感謝してる」


「そうか。随分と安らかな顔をしていたから、余計なことをしたんじゃないかと思った」



 確かに覚悟はしていたかもな。


 千明が人差し指と親指で左目を囲んだからハンドサインを返したかったのに、手が異常に重くて持ち上がらなかった。そういえば薬指がアメリカンドックみたいなことになっていた。


「あの子は無事?」

「退院したよ。何も憶えてない、あの男の存在も忘れた」

 これで解決したのならば、もう何も悔やまない。ただあの子が逆恨みをされたり、顔を見られたという理由でとか、そういった煩わしいことが無いとも限らない。

「あの子はどうして殺されずにいたんだろう」

 店長の恩情だろうか。その場合この先も執着されたりしないだろうか。私が倒した下っ端たちはどうなったのだろうと思うと不安になる。あの子を追ったりしないだろうか。


「全てを守れる力が欲しい」


 心の奥底にある願いが、朦朧としつつあるせいか口から溢れた。



「できない」


 即答だった。瞬殺というべきか。千明は嘘を吐かない。


「それはどうしようもない」

 

「でも他の人なら救えなかった人も、本来なら救われなかった人をもう数えきれないくらい真唯は救ってる」


 そうなのだろうか。自分にできることなんかもう無いのではないかとすら感じてしまったんだ。そのくらい今回は心理的にも物理的にも叩きのめされた。私は慢心を後悔も反省もしている。


「満身創痍だけに」

「少し休め」

 

 その後、千明は私が眠ってしまうまで言葉を発さなかった。やっと冷めたコーヒーを飲み干すところまでは起きていたが、いかんせんあの強力痛み止めXのせいで一度眠るときっちり一日以上は経っている。起きていれば体中が痛いのだからそれも良いかと考えて眠りにつく。


 翌朝目が覚めるとすぐに社長が来た。本当は目が覚める前に来ていたようだが、有能な看護師さんが入室を禁じてくれているのだと知ったのは後になってからのことだ。


「ごめんごめん、タイミング合わなくて」

 鳥海社長は本当に申し訳なさそうだった。今日はネクタイこそ締めていないものの落ち着いた服装をしている。


「ゆっくり休んで。温泉とか行きたかったら手配するから言ってね」


 この人が初めて目の前に現れた時は、そのチャラさに思わず型を構えてしまった。丸いサングラスをかけた人を実際に見たのは初めてだった。仕事から帰宅した、夜が始まるような時間にサングラスだ。その上「スカウトに来た」「慈善事業だ」というのだから胡散臭いことこの上ない。やばいやばいやばい。絶対に家を知っていて来ている。私は町で噂の美少女ではない。大学を卒業して2年目になる至って普通の社会人だ。家の前でスカウトだなんて何かの間違いでなければ悪徳商法に違いない。家を知られているのが恐ろしかった。私が仕事で不在の時間には年老いた祖母と母しかいない。狼狽して返事ができないでいる私に彼は名刺を差し出してきた。

「怪しい者ではない」と主張されて「出た!」と思ったのを鮮明に憶えている。怪しくない人はそんなこと言わない。ド派手な柄シャツに短パンとビーチサンダル姿は怪しまれようとしてるとしか思えないくらいだった。他に成す術もなく受け取った名刺にはphloxという会社名が印刷されている。


「花の名前なんだ」


 囁くような声で鳥海という男は言った。


「花言葉は調べてみて」


 あれは私が真っ当に生きていたほんの短い期間に起きたことだった。余計なことまで思い出してしまった。


「あの日は暑かったから」

 サングラスをしない社長は素朴な青年の顔をしている。大手本屋さんの売場長さんといった風貌だ。


「あのサングラスには度が入っているんだ。昼間に出かけた時に普段使いのメガネを忘れてしまって」

「そんなことってある?」

「あったんだよ」


 この人は未来から来た人で、私の理解が彼に追い付く日は来ないのではないか。そのくらい衝撃的な出会いから2年が経っていて、私は戦闘要員をやっている。家族は私が理学療養士を続けていると思っている。騙しているのは心苦しいが、仕方ない。世の中にはどうしようもないことなんていくらでもある。

「報告書はいつになっても構わないから。これ一応、回答書。早く見たいかなって思って」

「ありがとう」


 少しドキドキしながら受け取った紙を裏返す。


Case 0 解決案件


「あの子のことは心配いらないよ。もう店長も店の連中も皆どっか行っちゃったみたい。戻って来ないから」

「どこ行っちゃったんだろうね」

「さあね」


 世の中にはどうしようもないことなんていくらでもある。というか、はっきり言ってそんなことで溢れている。手を差し伸べられるかどうかは日頃の行いなんじゃないの?これでこのcaseは一件落着。



 それから一週間かけて報告書を作った。作文なんて昔から大っ嫌いなんだ。全快とはいかないまでも、アメリカンドックはフランクフルトくらいにはなったし、普通の速さで歩くくらいはできるようになった。早くジムで泳ぎたい。体が鈍って仕方ない。今日はリハビリがてら報告書を提出に出かけた。その後スーパー銭湯に行く予定になっている。

「千明、遅れてきたルーキーって何?」

「どうしたんだ」

「ちょっと気になっただけ。知らないならいい」

「まだ疲れてるんだろ」

 眠りに落ちる寸前にラジオから聴こえてきたのだ。確かロックバンドがゲストで出演している番組を聴いていた筈だった。

「これ出してくるね」

 千明は手を挙げて応える。事務所に入ると、事務のお姉さん達から犬か猫みたいに寄ってたかって撫で回された。

「心配してたんだよぉ!」

「引き際をわかってない!」と騒がしい。

 

 現場が任務中お姉さん達は特設した監視カメラで事務室から見守っているのだ。彼女らの中には専門職を引退した先輩もいる。報告書を出すのは普通の会社らしくする為だけ、それに尽きると思われる。


「わかったわかった、またね!」

「お大事にねぇ~」

「またすぐ来てね~」

 ああ、日常に戻りつつあるのだな。しみじみと感じる。ここ何日か、そうやって生きている。

「千明、何食べたい?」

「・・・お好み焼きとギョーザ」

「よし、焼こう!」

 千明が笑ったのを久しぶりに見た気がした。キャップを深くを被っているから目は隠れている。無精髭が伸びすぎてドジョウになりかけていた。ロン毛の銀髪のドジョウ。

「うるせえな。振り落とされてえのか」

「どぜう」

 その瞬間、左脇の窓が物凄い勢いで開いたので「ひぃっ」と声が出た。同時に急ブレーキで止まる。駅前の赤信号だった。わざとやりやがったな。魔改造したと聞いていたが、こういうことだったか。


「やめろよ!まだ受け身とれねえんだぞ」

「だったら黙ってろ」

 千明の口元がニヤリと動く。ガタイが良くて私よりもよっぽど殺し屋に見える為、よく現場で「アサシンさんっすかー?いかちいっすね!」などと気さくに間違われては傷ついているのを知っている。千明は繊細なんだ、あんまりからかってはいけない。


「ねえ、あの子」

 駅前にあの子がいた。お昼休みだろうか、ベビーカーを畳む女性に声をかけている。畳んだベビーカーを持ってあげて、女性は赤ちゃんを抱っこしながら何度も頭を下げていた。二人で笑いながら階段を降りて行くのを見届けた時、信号が青に変わった。千明のとんがった革靴の先がブレーキからゆっくりと離れる。


「良いことをしたね」

「慈善事業だからな」


 これで本当に、このcaseの話はおしまい。

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殺さないアサシンの臨時休暇 茅花 @chibana-s

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