雪の降る夏、被写体の君
紗也ましろ
第1話
開け放たれた窓から吹き込む風が、白いカーテンを優しく揺らす。誰もいなくなった小さな病室に、潮の香りが漂う。
海が近いこの病院は、かつて彼女と出会った場所だ。今となっては、もう会うことはできないけれど。
手元のヒビの入ったデジタルカメラの電源をつける。しかし、どのフォルダを覗いても写真はひとつも残っていない。
それでも確かに、この身体に刻みこまれているあの夜の出来事。
たった一夜、されど一夜。
短くも、これまでの価値観を大きく揺るがすには充分だったあの夜のことを、私は生涯忘れることはないだろう。
▽ ▲ ▽
「……誰ですか?」
夜も深まり、窓から差し込む月明かりだけが頼りの丑三つ時。白いベッドがぽつりとひとつ置かれた病室に、消え入りそうな声が反響する。
そのベッドの上には声の主であろう少女がおり、突然開かれた病室の扉から入ってきた私のことを警戒している様子が伺える。
――ああ、今回はこの少女か。
「初めまして、死神です。あなたの魂、頂戴しに参りました」
無機質な声でそう告げると、目の前の少女は一瞬ぽかんとしたものの、すぐに相好を崩す。
そして——
「気持ち悪い」
鼻で笑われた。
古今東西、この世には世界の理から外れた者が存在している。例えば天使。彼らは生を終えた生き物の魂を回収し、それを相応しい場所に導いているらしい。故に、この世の理に縛られることなく、その任務を全うできるようになっている。
死神も同じようにその理から外れた存在であるが、天使とは少し違う。私たち死神は、天使が魂を回収する前にそれをこっそり掠め取るコソ泥のような者なのだから。
これだけ聞けば、死神と天使は敵対しているように思われるかもしれない。しかし、実のところそんなことはない。天使たちは私たち死神のすることを黙認しているのだ。それが何故なのか私にはわからない。さらに言えば、何故自分が死神なのかもわからない。
ただ、唯一理解していること。それは、私が人の魂を回収するために存在しているということだ。
死神には人の寿命はわからない。ただ、死期の近い者にだけその姿が見えることから、死神は自分が見える者の魂を貰い受ける。
私がこの場所に足を運んだのもそれが理由だ。病院、それも入院棟は死期の近い者の割合が比較的多い。だから私は、院内を巡り歩いてひとつひとつ病室を確認していたのだ。そして今、私のことを認識できる者を見つけた。
だというのに。
「わー、本当にいるんですね」
急に得体の知れない不気味な人が現れたというのに、目の前の少女はただ興奮した様子で目を輝かせているだけ。
適応能力が優れているのか、はたまたただの馬鹿か。時間的に夢だと思っているのかもしれない。
「どうやって入ってきたんですか?警備員さんとかいなかったんですか?それともやっぱり魔法みたいなものが使えたりするんですか?」
畳み掛けるような問いかけに、一瞬気後れしそうになるが、軽く咳払いをして気を持ち直す。
「別に、私はあなた以外に認識されないだけだ」
誰かに観測されるまで死神の存在は確定しない。そのため、死期の近い者に接触するまでは何にも干渉されないのだ。ただ、そんな曖昧な説明で全てが通じるわけもなく。
「ごめんなさい、ちょっと何言ってるかわからないです」
「……別に理解する必要はない」
おどけて肩をすくめる彼女に対してそう告げた次の瞬間、私の背後の扉が勢いよく開いた。
「雪乃さん、どうかしましたか?」
少し苛立ち気味で入ってきたのは、白衣を着た看護師だった。
どうやら彼女は、いつの間にかナースコールを押していたらしい。
先程の馬鹿発言は取り消そう。彼女はそれなりに警戒はしていたみたいだ。捲し立てるように話していたのも、看護師の足音から注意を逸らすためだったとしたら納得できる。
しかし、それは何の意味もなさないのだけれど。
今、私は明らかに看護師から見える位置に立っている。しかし、看護師は何にも言わない。まるで私の存在を認識していないかのように。
「えっ、と?」
目の前の少女は、その不可思議な光景に困惑しているようだった。
「……何にもないなら戻りますよ?」
「えっと、知らない人が病室に入ってきたので」
「あら、それは……その人はどこに行きましたか?」
「そこに、いません?」
私のことを指で差して看護師に訴えかける少女。しかし、看護師の答えは彼女にとって想定外だったみたいで。
「誰もいないですね」
「……すみません、誰かいたような気がして」
「はぁ、大丈夫ですよー、ゆっくり休んで下さいねー」
そんな雑な看護師の言葉は目の前の少女には届いていないようで。彼女は驚きを隠せなかったのか、ずっとこちらを見つめている。
やがて看護師が病室を後にすると、ぽつりと一言。
「ほんとに見えないんですね」
「だからそう言っただろう」
どうやら本気でタチの悪い悪戯だと思っていたらしい。そして、ついに私もここまで来ちゃったか、なんて頭を抱えながらぶつぶつと呟き始めるものだから、こちらも溜め息が溢れる。
「……はぁ」
「ええっと、それで、死神さんっていいましたっけ?」
状況を理解したのか、はたまた思考を放棄したのか。落ち着きを取り戻した彼女が語りかけてくる。
「ああ」
「死神っていうのは、やっぱり、そういう?」
左腕を振り上げて何かを切るような仕草をする彼女。それによって、何が言いたいのかを理解する。
「そうだ」
だから、その命を刈り取るようなジェスチャーを躊躇いもなく肯定する。しかし、彼女はそっか、と小さく相槌を打つだけで。
「驚かないんだな」
「どうせ長くはないと思っていたので」
そんな悲観的なことを笑いながら告げられてしまい、どう返したら良いのかわからなくなる。
「やっぱりザクっとやっちゃう感じですか?痛いですか?」
「……そんな物騒なことはしない」
「あれ、そうなんですか?」
期待外れのような顔をする彼女に呆れながら、ポケットから小さなデジタルカメラを取り出す。
「それは……カメラ?」
「ああ、これであなたの魂をもらう」
「……鎌じゃないんですね」
あーあ、と落胆を隠そうともしない彼女。本当に意味がわからない。
「今の時代、鎌なんて物騒なモノ持っていたら死期の近い者に見つかった時にすぐに逃げられてしまう」
「はぁ……死神業界も苦労してるんですねぇ」
それに。
「あんなものを振り回すより、こちらの方が断然楽でいい」
「なるほど。それで、貴方は私の命?魂?を取りに来たんですね?」
「ああ」
「はぁ、そうですか」
流石に受け止めきれなかったのか、先程までより声のトーンが少し落ちる。
「悪いが決定事項だ」
「いや、別に構わないんですけど……今すぐですか?」
「……いや、少しなら時間の猶予を与えられる。やり残したことがあればそれをするための手助けもしよう」
「へぇ。案外優しいものなんですね」
「……やりたくてやってる訳じゃない」
死の直前の感情は魂の純度に深く関わってくる。それこそ私たちが鎌を使わない理由のひとつになるが、魂の回収時は相手にできるだけ負の感情がない方がいいのだ。
そんな説明をしようにも、彼女はこちらの事情には全く興味を示さず、ただ窓の外を眺めているだけだった。
「それじゃあ、もう少し待ってください」
「……何かあるのか」
「ええ」
「あまり長くは待てないぞ」
本当に死ぬ直前になると天使が来てしまう。いくら死神の行動が黙認されているからといって、それが天使と鉢合わせていい理由にはならない。
「大丈夫です。今晩だけ。この夜が明けるまででいいので」
何かを求めるかのように真っ暗な窓の外に目を向ける彼女。その姿は儚く、情趣を感じられて。もしかしたら、彼女は何か特殊な事情を抱えているのではないか。そんな風に感じさせられる。
「ついでに何か食べ物買ってきてください」
前言撤回。ただの性悪女だ。
深夜のコンビニには、店員を除いて誰もいなかった。そのまま惣菜パンの並んでいるコーナーで適当なものをいくつか掴む。
人には見えなくてもちゃんとお金は払えと彼女にしつこく言われたため、仕方なくポケットからいつしか拾ったお札を取り出してレジ前に置いて外に出る。
そうして病室に戻ってくると、数分前と全く変わらない姿勢で彼女がわぁ、と声を漏らした。
「ちゃんとモノは持てるんですね」
「それはそうだ」
「まあいいです。はやくください」
そう急かされて、言われるがまま持ってきたパンを渡すと、彼女は遠慮のかけらもなしに袋を開けてそれにかぶりついた。
全く、労いもなしか。そんな不満が顔に出ていたのか、彼女は恥ずかしそうに唇を尖らせる。
「仕方がないじゃないですか。病院食ばっかりだったんですから」
何に対する言い訳だ、とは言わないでおいた。ただ、そんな彼女がパンを食べる様子に違和感を覚える。
「ありがとうございます。あとは死神さんが食べていいですよ」
そう言って彼女は、食べかけのパンを渡してくる。やはり――
「味がしないのか」
「……それも死神だからわかるんですか?」
どうやら図星だったらしい。
「別にそういう訳じゃない。経験則だ」
これまで何人も同じような人を見てきた。彼らは決まって物を咀嚼した後に眉間に皺を寄せていた。そして、彼女も同じような表情をしていた。ただそれだけ。
「へぇ。じゃ、どうぞ」
ただ、彼女はそんなことを気にする素振りも見せず、手に持っていたパンを無理やり押し付けてくる。
「別に私は食べなくても問題ない」
「食べられない訳じゃないんでしょう?なら食べてください。私の代わりに」
無茶苦茶だなんて思いながらも、これも純度の高い魂のためだと自分に言い聞かせて渡されたパンを口にする。
久々にモノを食べたからか、薄皮の中にぎっちり詰め込まれた餡は私には甘すぎた。
「間接キスですね?」
喉にパンの破片が詰まった。
彼女の馬鹿みたいな発言に動揺して、その光景を目にした彼女に笑われること数分。
「ふふ、ふふふっ、そんな、動揺しちゃって、ふふ」
「……物を食べるのが久しぶりで、慣れてなかっただけだ」
「ふ、ふふふ、そうです、か、ふふふ」
どうやら彼女は私の言い分を聞き入れる気はないようで、涙を浮かべながら腹を抱えて笑い続けている。
「……笑いすぎだ」
「ふふ、だって、おもしろい、から」
この空気感にいたたまれなくなって、はやく魂を回収させてくれと心の奥底で願う。
「はー、笑った笑った」
すると、それを察したかのように彼女はスッキリした顔でそう告げた。
「ならもういいか?思い残すことはないか?」
「んー、まだありますけど」
「時間はないぞ」
「あ、じゃあ夜が明けるまでこうして私の話相手になってください。夜が明けたら、もう私のこと持っていっていいですから」
「……わかった」
その発言は普通に考えれば死を先延ばしていると捉えられる。しかし、彼女の思っているところはそうではなさそうで。
「何からお話しましょうか」
そうして、夜会が始まった。と言っても、ただ彼女の話に私が適当な相槌を打つだけだが。
彼女の感性は独特で、話しているだけで精神が削られていく。ただ、これも全ては純度の高い魂のためだと自分を律する。
「死神がいるってことは、天使もいるんですか?」
そんな我慢をしていたからか、唐突に投げかけられた問いに反射的に答えてしまう。
「ああ、まあ、そうだ」
「へぇ、やっぱり仲悪かったりするんです?」
本当は世の理を外れた者についてはむやみやたらに口にしない方がいいのだが、既に一度口を滑らせてしまったため、もう話してしまってもいいのだろうかと一考する。そもそも、彼女はもうすぐこの世から消え去る。それなら話しても問題ないだろう。
「……天使については互いに不干渉でいることが暗黙の了解となっているからよくわからない」
「じゃあじゃあ、何で死神さんは人の魂を集めているんですか?」
「……わからない。ただ、ノルマがある」
「うへ、まるで会社みたい」
肩をすくめて嫌そうな顔をした後、目の前の少女は何を思いついたのか楽しそうに手を叩く。
「つまり、あなたは下請けの平社員だということですね!」
なんて聞こえの悪い言い方をするんだ。とはいえ、それを否定できないのも事実で。
「お互い、苦労してますねぇ」
そんなしみじみということじゃないだろうと思わなくもないが、口に出す気にはならなかった。
そして訪れる静寂。彼女は一度窓の外を眺めて、改めてこちらに向き直る。
「ねぇ、寡黙な死神さん」
「……何だ」
「写真、見せてください」
カメラを指差しながらそう頼み込んでくる少女に、なんて返答をしたらいいのか迷う。何通りか返答のパターンを考えた上で、結局普通に全てを伝えることにした。
「このカメラで撮ったものは命を失う。だから、何も見せるようなものはない」
「へぇ……そうなんですね。なら普通のカメラで撮った写真とかは?」
「これが普通のカメラだ」
そう告げるも、目の前の少女はいまいち理解できていない様子だったため、もう少し噛み砕いて説明をする。
「死神が写真を撮ると、その被写体は死んでしまう。だから、あまり不要にシャッターを切ることはできないし、見せることもできない」
天使は死なないけどな、なんて皮肉もセットで。
すると彼女は納得がいったのか、なるほどとだけ呟いて考え込む。
「あなたは——きっと写真が好きだったんですね」
「何故そう思う」
「だって、死神さんは携帯じゃなくて、そのしっかりとしたカメラを使っているじゃないですか。それって写真が好きだからじゃ無いんですか?」
全てを見透かしたような瞳でそう尋ねられて、思わずこちらから目を逸らしてしまう。
たしかに、写真さえ撮れればいいわけだから、使う機器は別にこのデジタルカメラである必要性はない。なんなら、今の時代は携帯で撮る方が一般的だ。ただ、それでも自分はこのカメラを使っている。その理由は自分でもわからない。
「……わからない」
「わからないことが、多いんですね」
それは、これまで自分の存在について考えたことがなかったから。
今こうして彼女に色々と問われ、そこから私というものが形作られているような気さえする。
「まあ、そこら辺はどうでもいいです。どうせみんな、自分のことなんて何一つわかってないんですから」
「極論だな」
「でもそうでしょう?」
妖麗な笑みでそう語りかけてくる彼女は、どこか挑発的で。
「私は、綺麗に撮ってくださいね?」
「……善処する」
目を背けながらそう告げて、壁の時計で時刻を確認すると、もう朝5時前になっていて。
「そろそろ時間だ」
「……そうですね」
目を伏せて私の言葉を静かに肯定する彼女。
「看護師たちも、私がいなくなって清々するでしょうね。だいぶ面倒な患者だったみたいなので」
寂しそうに微笑みながらそう告げた彼女は、そのまま窓の外に目線をうつす。私もそれに釣られて窓の外を覗いてみるも、見えたのは未だ燻んだ暗い空だけで。
「さ、どうぞ。撮っていいですよ」
投げやりな発言とは裏腹に、彼女の瞳はまだ何かを待っているかのようで。
「……何を思い残している?」
「別に、なんにも」
「嘘つけ、何だ?」
「……本当にくだらないことですよ」
自傷気味に乾いた笑いを浮かべる彼女は、目線を動かさないまま小さく呟く。
「雪、見てみたかったんです」
そのあまりに予想外な発言に、一瞬思考が停止する。
「私、これまで一度も本物の雪を見たことがないんです」
だから、と。
「一度だけ、一度でいいから、あの綺麗な白を、この目で見てみたかったんです。もちろん今が夏だということはわかってますよ?それでも、最後くらいは待ってみたかったんです。奇跡を」
「それは――」
「でも、あまりお待たせするわけにはいきませんからね」
「色々、ありがとうございました」
ベッドの上で深々とお辞儀をする彼女は、先程までの生意気さも飄々とした感じもなくて。
何となくカメラのフォルダを開く。次々と写真を切り替えながら見つけた、いつしか撮った雪景色。
「……ついてこい」
そう告げて目の前の少女に手を差し伸べる。彼女は困惑しながらも私の手を取る。それを確認してから、優しく引っ張りあげるとその手から伝わってくる彼女の存在。その身体は枯れ木のように細く、軽かった。
彼女は移動することを悟ったのか、その細い腕に繋がれていた点滴の針を躊躇うことなく引っこ抜く。ブザーはならない。それは私が彼女に触れているから。私が触れているものは、私と同様にこの世の理から外れるのだ。
そのまま、彼女を支えながら病院の階段を登る。やがて屋上へと繋がる扉が見えてきたところで、彼女が口を開く。
「屋上、なんて、初めて、きました」
「悪い、背負うべきだったか」
背中を丸めて息を切らせている彼女を見て、流石に抱えてあげるべきだったかなんて人並みの反省をする。
「いえ、私も、自分の足で、歩きたかったので」
だいぶ息が整ってきたのか、彼女は背筋をのばして屋上へと踏み出した。
「……静かですね」
そんな彼女の呟きと同時に、私はカメラのフォルダから一枚の写真を消す。それは、あの雪景色の写真で。
それから数秒後、空からハラリと舞い降りてくる白。
「……雪?」
流石に夏の気温には勝てないようで、その白は地面に着く前に儚く消えてしまうが、それは確かに雪で。
「わぁ!すごい!何で!?死神さんの力!?すごいすごい!」
子供のように喜ぶ彼女。しかし、その言葉から乖離されたかのように彼女の身体は全く動いていなくて。
「……きっと、冷たいんだろうな」
ぽつりと呟かれたその言葉は、もう彼女には感覚がないことを示唆していて。次の瞬間、彼女の背中側から明るみ始める空。
「——!」
初めてだった。こんなにも美しいと思えた光景は。ハラハラと舞い散る白と差し込む朝日。その中心にいるのは空に向かって手を差し出している少女。
無意識のうちに、彼女にカメラを向けてしまう。
しかし、シャッターを切る指は動かない。ここでシャッターを切ってしまったら、この美しい光景はどうなる?
「撮らないんですか?」
こちらを見ることなく、彼女がそう尋ねてくる。
「……撮りたくない」
「……なんでですか?」
このまま、ちゃんと天使の元へ送り届けるのが正しいのではないか。そう思ってしまったから。
「私、あなたに写真を撮って欲しいです。今の私、最高に輝いてません?」
こんな時でも軽口を叩くのが、いかにも彼女らしいというか。
「お願いです。もともと長くないことはわかってましたから。今も、意外と痛くて苦しいんです。だから——」
——お願いします、死神さん。
その一言で、私の指先が動いた。
気がつけば朝日が昇り切っていた。未だ降り続ける雪と、その真ん中に横たわる少女。その彼女の亡き骸に、手を添えようとしたその時。
「死神……!」
空から嫌な声が聞こえてくる。
「……天使」
「チッ、何で死神なんかと鉢合わせるんだよ。もっと早く仕事しろよ……」
そんな罵倒も今の私には届かなくて。
「何を――」
私は、手に持っていたカメラを思いっきり地面に叩きつける。カメラが粉々になることはなかったが、液晶は割れ、フォルダも破損したのかあたりに不思議な光が溢れてゆく。それはつまり、これまでに撮り溜めてきた魂の解放を意味していて。
「持っていけ」
天使の発言に腹が立ったからではない。ただ、自分がこのカメラに閉じ込めてきたものに価値を感じられなくなったから。
そんな私の行動に戸惑いながらも、溢れ出した魂をかき集める天使。そんな彼らを背に、壊れたカメラだけ拾ってその場を離れてゆく。
静かに、季節外れの雪だけが彼女の亡き骸に降り積もっていった。
▽ ▲ ▽
あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。あの日から、私は毎日この病室に足を運んだ。数年前、この病院が廃業してしまってからも、毎日、毎日。
手元の液晶の割れたカメラを起動させてフォルダをみても、当たり前だが写真は存在しない。ただ、どうやら写真は撮れるみたいで。あれだけ激しく投げつけたのに、データが消えただけで済んだことが奇跡だ。
とはいえ、あの日から何も撮っていないのだけれど。
私は、好きだったのだ。カメラのレンズを通してみる、美しい光景を切り取ったようなあの一枚が。彼女のお陰でそれを思い出すことができた。しかし、私は死神。そのカメラでおさめたものは虚しく散ってしまう。
あの夜、彼女と話していると精神が削れられるような気がしていたのは、私の本心を覆い隠していたものを彼女によって露わにされていたから。そのことを理解できたのは、彼女がいなくなった後だったけれど。
何となくカメラのレンズを通して病室を見る。すると、背後から声が聞こえてくる。
「撮らないんですか?」
「……私が撮ると、その景色を閉じ込めてしまうから」
つい反射的に答えてしまう。
「はぁ、死神業界も苦労してるんですねぇ」
それは、いつしか聞いた覚えのある言葉。
「探しましたよ、死神さん」
ああ、まさか。そんなわけが無い。
「まさかこの場所にずっと引き篭もっていたなんて思いもしませんでしたが」
ただ、私はこの声を知っている。その正体を確かめるべく、ゆっくりと振り返る。
「どうも、天使になりました。雪乃です」
そのおどけたような態度は、何年経っても色褪せることのなかった記憶そのままで。
「私なら、いくら撮ってもそこに閉じ込められることはないですよ?」
視界が滲む。涙を流すのなんていつぶりだろう。何故彼女が天使になっているのか、何故ここに現れたのか。聞きたいことは山ほどある。
ただ、今は、今だけはこの一瞬を——
今まで私は取りたくもないものばかり撮ってきた。でも、だからこそ、これからは本当に撮りたかったものを撮っていこう。
楽しそうに微笑む彼女にカメラを向けて、シャッターを切った。
雪の降る夏、被写体の君 紗也ましろ @sayama_07
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます