私はいま、異世界にいる

デンテン

第1話 待ち望んでいた光景、その先の末路

 まるで発作のように、何もかも投げ出したくなる時がある。

 ストレスによる、ちょっとした鬱症候群だ。


 大抵の人達は気晴らしに飲みに行ったり、ジムで体を動かしたり、お金と時間に余裕があれば旅行に出かけることもあるだろう。


 私の場合は肝試しだった。


 廃墟を巡ったり、お札などの曰くつきの物を集めたり、交霊術を行ってみたり。

 人達がゲームや小説といった空想に耽るように、私はそれを肌身で感じようとした。


 とはいえ、別段何か起きたわけでもなく、微かに漂う冷たい雰囲気に浸るだけに終わった。

 だが、今回はそうもいかなかった。


 それは、ただの作り話だった。

 突飛もない、ありふれた怪談話。


 プレイヤーが電子世界に引きずり込まれ、己の半身たるアバターに殺されるというもの。

 よくある創作だったものは、情報の海を通じて数多の人目に晒され、妄想は加筆されていく。


 いつしかそれは、一つの都市伝説として数えられるようになった。

 手法も比較的簡単で、それ故に、いつもの軽い気持ちで手を出してしまった。


 そして私は、望んだ結果を得てしまった。


「―――最近、なんだか変な夢を見るんだ。この前にあの……」

「……どうした?」

「いや、やっぱ何でもないわ」


 兄だった。

 お互いに遠慮を知らない兄弟。

 可愛がられ、ふざけ合い、よく喧嘩もした。


 悪友であり、唯一の肉親。


 兄は殺された。

 惨たらしい有様だった。


 兄の左肩から心臓に至るまでの部分が、抉り取られたかのように失せていた。

 壁や床の至る所に、血肉の断片が四散していた。

 また、全身のあちこちが獣にでも貪られたかのような剥き出しの肉を覗かせていた。


 兄の部屋。


 開けた扉の前に呆然と立つ私の眼前。

 机に置かれたモニターの光が、それら兄だったものを曝け出す。


 映し出されたモニターの画面には、兄が夜通しするほど好きだった電子世界。

 私を嘲笑うかのような、狂気に歪んだ兄のアバターを映しながら。


 現実感は失われ、部屋に入ると同時にモニターの電源は落ちてしまった。

 その画面に、二度と兄を殺した怪物の姿が映ることはなかった。


 その日から私は、突き動かされるように行動を起こした。

 組織を抜け、情報の海に身を投じ、地域を駆け巡り、手段を模索する。


 枷が外れたかのように体は軽く、思考は明瞭に、復讐という道筋を辿っていく。

 そしてたどり着き、引きずり込まれ、いつの間にか私は鬱蒼と茂る暗闇に落ちた森にいた。


 周囲で木々が騒めき、近くから獣の獰猛な唸り声が聞こえる。


 私は動じず、ただ待つだけだった。

 ここで待つことで、怪物が現れることを知っていた。


 所詮、これはただの作り話だった。


 人達の歪んだ妄想によって生まれた怪物と一人の被害者、その結末も、人達によって加筆され生まれたもの。

 有り体に言えば、これら出来事は人の手で誘導することが出来た。


 兄は間が悪かった。


 この作り話に登場する被害者は一人だけで、故に私と兄、そのどちらかが選ばれる。運よく私は免れ、誘いを受けた兄はどうしようもなく殺された。


 手段が加筆されてなければ、被害者に救いなどない。

 引きずり込まれた時点で兄は詰んでいた。


 暗闇の奥から、見知ったモノが現れる。

 私の怪物アバターだった。


 目の前に現れた怪物は、ケタケタと嘲笑う。

 獲物が怯え、逃げ惑う様を待ち望んでいた。


 私はポケットからスイッチの部品を取り出す。

 市販で見かける、ありふれた機器部品。


 電源も入っていないそれに、私はスイッチを入れた。


 ただそれだけで目の前の怪物は悶え苦しみ、体が霧散して消えてしまった。

 周囲から途切れなく聞こえていた獣の唸り声も消え去り、森には静寂だけが残る。


 兄はただの被害者でしかなかった。

 だが、私にとっては違った。


 あの日、あの瞬間から私の運命は動き出した。

 深い絶望と先の見えない暗闇を彷徨うことになったのは私の方だった。


 そして今も私は、出口の見えない森の中で呆けていた。

 脚色された物語に怪物が打ち倒された後の話はなく、故に結末を知らずに待ち続けている。


 兄の後を追うことも考えたが、その勇気が湧かなかった。

 どうしようもなく情けない、だが、これが今の私だった。


 暗闇にたった一人取り残され、動けずにいる。

 膝を抱え蹲り、ただ待つだけしか出来ない臆病者。


 いつまでそうしていただろうか? ふと気付くと、周囲の闇が淡く照らされていた。顔を上げれば、いつの間にか森の奥から光が差し込んでいた。

 ゆっくりと立ち上がり、光が差す方向へと向かう。


 森の出口が、そこに待っていた。


 明るい光に誘われるように、私は森を抜け出した。

 視界を遮るものが無くなり、広く開けた場所で周囲を見渡す。


 遠くに人の営みを思わせる町が顔を覗かせていた。

 街道を辿り、子供を乗せて荷車を引く牛飼いもいる。

 ここからなら、それほど遠くない距離にあるようだ。


 涙が流れる。

 自分の心を貫く光景に身が震えて、美しくも胸が締め付けられて涙が流れた。


 見上げれば、青い空が広がっている。

 雲一つない澄み切った青が、私に教えてくれていた。


 私は焦がれていたのだ。

 憎悪に身を焼き、復讐に傾倒する私なんて何処にも存在しなかった。


 だが、あの非現実的な事象が兄の命を奪った時、真の意味で私は現実を失った。


 兄が殺された時、私は肉親を失った悲しみを覚えなかった。

 兄の死後に迫る後始末に、そんな感情を芽生えさせる余裕などなかった。


 誰もかれもが、ありもしない罪と噂を生やしたてる。

 あらぬ罪を被せて、あらぬ評価を付けて、あらぬ人物像を生み出した。


 ただ評価されることが全ての、私が生きた世界を嫌悪した。


 自分らしく生きていく自由はどこにあるのか。

 どうして私は、未だこの世界に囚われているのだろうか。


 気が付けば、私はありとあらゆることに手を染めていた。

 私の身体は不健康に痩せ細っていく。身体が醜く軋み、悲鳴を上げている。

 人々の輪から外れていき、誰もがみすぼらしい姿の私を指差し蔑んだ。


 それでも、どうしてこの体はかつてないほどに一生懸命に動かすことができるのだろうか。そういった疑問は、この刹那の歓喜に比べれば些細なものである。


 私は一歩二歩と続けて駆け出していく。


 服はもつれ、息が上がり、今にも倒れ込んでしまいそうなほどに苦しい。

 それでも、私は止まることが出来ない。


 これまでの人生で、私は一度も己の意志で目的を持ったことなど無かった。

 ただ周りの意見や評価に流されて、行きたくもない学校に通い、やりたくもない仕事をして過ごしたのだ。


 そんな自分が今、心の底からやりたいことの為に足を動かしている。

 懸命に地面を蹴り、無様に走り出している。


 荷車を引く男が私に気付いて、何やら不明瞭な言葉を叫んでいた。


 男はピッチフォークを取り出し、子供を荷車の陰に隠れるよう促す。

 男はピッチフォークを構えて、駆け寄ってくる私の出方を窺った。


 だがそれよりも先に、大きな影が荷車の男を覆った。

 姿形を保ったまま、その影はより色濃く大きくなっていく。


 目の前に巨鳥が現れる。

 ピッチフォークを構えた男が地面に押し潰されて絶叫を紡ぎだす。


 男の全身を擦り付け、叩き付けて、削り取る。

 悲鳴、骨が折れる音、内臓が抜き出される音。


 非現実的な惨劇を奏で上げて、男を血肉に染め上げる。


 私は、都市伝説に手を出したことを悔いていない。

 私は、兄が死んだことを悔いていない。

 私は、自分が住んでいた世界を捨てたことを悔いていない。

 私は、怪物が蔓延る理不尽なこの世界に来たことを悔いていない。


 気が付けば、私は巨鳥がいるその横を通り過ぎていた。


 荷車に辿り着き、陰に隠れた子供を抱き寄せて駆け出した。

 私の体はとっくに限界を迎えているはずなのに、これほどまでにないほど活気に溢れていた。


 いつか町の人々のすべてが、私たちを迎え入れてくれるように力強く地面を蹴った。


 巨鳥が羽を広げて羽ばたく音が聞こえる。

 子供が何やら叫んで、上空に指を差す。

 巨大な影が私たちに迫り、覆い被さろうとする。


 私は抱えた子供を勢いよく前に放り投げた。

 瞬間、私の体は地面に押し潰され、摺り切った。


 もう下らない思索に耽る必要もない。

 ただ思い思いの叫びを捻りだして、身を震わせた。


「行け――行くんだっ!」

「あガッ――痛い、いたい、イタイッ!!」

「嫌だ、シにたくないっ! 誰か助けて、たすけて――――っ!」

「私は、ワタシハ――――!」


 私はいま、異世界にいる。

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