十五話 二番手の百千代

 薄雲の群れが点在する晴れた空の下で、紅の城が佇んでいる。


 首里城の最も外側に位置する歓会門かんかいもんでは、門の左右に配置された二人の門番が変わり映えのない南国の景色をぼんやりと眺めながら、世間話で暇を潰していた。

 たまに蝉の声で相手の話が聞こえないが、わざわざ聞き返すほどの興味もない、いつやめてもいいような他愛ない会話だ。


「花の匂いがする」


 たった今あくびを終えた一人が呟いた。


「花なんてあちこちに咲いているだろう」


 もう一人が石垣からこぼれ落ちるように咲くハイビスカスを指差し、肩をすくめる。


「違う。もっと甘い、らんのような匂いだ。王妃様から香る、あれをさらに濃くしたような……」


「王妃様の匂いが分かるほど近づいたことがあるのか。果報者め」


 吐き捨てるように言った門番だが、僅かに甘い匂いがしたかと思うと突如として足元の白砂の道が一面の花畑に変わった。息を忘れるほど驚いたのち、目を擦って幻覚だと気付いた。


「ご苦労様です」


 門番の二人は息を飲む。歓会門から出てきたその者の挨拶に返事すらできず、ただただ見惚れてしまった。人というより花そのものが歩いているように思えた。


「……?」


 その者は、ほうけたように立ち尽くす二人の門番に困惑しつつ、気まずそうな笑顔を浮かべ、軽く会釈をして去っていった。


「……まさかあの方が王妃様か?」


馬鹿者フリムン、あんなにお若いはずがないだろう。王妃様は二十代半ばだが、あの子は見るからに十二、三ではないか。それにお連れの者も連れずに一人で城から出ていくわけがない」


「そうだよな。だがあそこまで美しい子がいるなんて、どこの士族のお嬢様だ? もしかして按司あじ筋の娘か? いや、どことなく感じる神秘的な雰囲気は上級神職の家系かもしれん」


 二人は遠ざかる背中を目で追いながら推理する。しかし一人が思い出したように言った。


「待て待て、そもそもここは歓会門だぞ。男しか通れない。ここから出たということはあの子は男だ」


「なんと、信じられない」


「王宮を出入りする美少年といえばアレしかない」


 二人の門番は顔を見合わせ、声を揃えた。


「――楽童子がくどうじだ」




 真南風は背中に感じる門番たちの視線に気付かない振りをしながら、城前の道をくだっていった。に気づかれてしまっているのではないかと不安だった。


「王妃様、問題ないって言ってたのに……」


 真南風は纏っている芭蕉布ばしょうふの振袖を指先で撫でた。王宮が管理する芭蕉園で生産された極細の系を一流の技術で織りなされた最高級品だ。蜻蛉とんぼの羽のように薄くて軽く、その極上の肌触りは絹をも上回る。通気性が良すぎるあまり裸かと錯覚してしまうほどだ。


 対照的に、化粧を施された顔面には一枚膜が乗っているような異物感がある。宝石のついた立派なジーファーで結い上げた赤毛も、いつもと頭の重心が違って落ち着かない。


 すれ違う町民たちは皆、真南風の顔を見ると時が止まったかのように硬直した。それは浮世離れした美しさによるものだが、そんなことは知らない真南風にとっての不安の種は、自分がに見えているかだけだった。


 ――男の振りをして楽童子になる。


 琉球の危機を救うためそう決意した真南風。一夜明けた男装初日の本日は、他の楽童子たちとの顔合わせである。


 八重山出身の女百姓という身分は隠し、士族の養子になる予定だが、誰に籍を預けるかはまだ調整中だ。女であることが明るみになれば真南風と与那原親雲上の首が飛んでしまうため、慎重に進めなければならない。


 なので昨晩は王宮に泊まった。そして今朝、王妃の阿応理屋恵あおりやえに楽童子として相応しい装いを施された。とはいえ、普段王宮にいるため市井しせいに疎い王妃はいささか興が乗りすぎたようだ。

 もともとの素材の良さに加えて、真南風の「士族の美青年」を演じる表現力が相まって一級の色気と気品が備わってしまった。素っぴんでボロ布を纏っていた昨日の方がよっぽど男に見えた。



 真南風は楽童子の集合場所であるアカギの森に向かっている。しかし土地勘がないため迷ってしまった。


 道を尋ねようにも、通行人たちは真南風を見るとしばし見惚れ、正気を取り戻すや否や失礼のないようそそくさと立ち去る始末である。


 困り果てながら辺りを見渡す。すると遠くの方にある人混みに気付いた。三線の音色が聞こえてきて、気持ちが少し落ち着いた。人混みなんて避けたいはずなのに自然と足がそこに向かった。


「楽童子の百千代ももちよ様よ!」

「あの方の踊りを観られるなんて!」


 興奮した若い女性たちが真南風を追い抜いていく。


「踊り? 誰かが踊ってるの?」


 真南風は振袖の裾を抱えて早足で向かった。そこは人通りの多い橋のたもとで、ちょっとした広場になっていた。老若男女で構成された半円の人だかりができている。中央で踊る一人の男の子を、誰もが輝くような眼差しで見つめていた。


「きれいな踊り……」


 連なる人垣の胴の隙間を覗き、真南風が呟いた。踊っているのは顔立ちの整った十五、六ほどの美少年だ。

 身体の動きにそって紅型が舞い、空気を孕んで広がってゆく。川に反射する陽光で後光が瞬いているかのようだ。


「人はここまで美しくなれるものなの?」


 重力を感じさせない旋回は、体幹から指先までしなやかに連動している。驚くべき天性の身体操作能力だが、何よりも目を引くのは彼の穏やかな表情だ。焦点の合わない瞳はまるで空中から街全体を見守っているかのよう。きっと悟りを開いた菩薩はこういう目をしているだろう。


「すごい……私なんかより遥かに……」


 真南風は一瞬で技巧の差を感じ取った。これに比べたら自分の踊りなど児戯にすぎないと思った。


 真南風の独り言が聞こえたようで、すぐ横に立つ女性が言った。


「すごいのは当たり前よ。百千代ももちよ様はあの天才踊り子集団、楽童子のなんだから!」


「二番手? あんなにすごいのにさらに上がいるんですか?」


「そんなことも知らないの? 今の楽童子の一番手、つまり花形はながたは、百千代様の……」


 そう言いかけて、女性は真南風を見下ろした。そして真南風の見るからに身分の高い装いに気づいて顔面蒼白する。飛び跳ねるように土下座し、震える声で謝罪した。


「どこぞの姫様かは存じませんが、失礼な言葉遣いをしてしまい大変申し訳ありません! つい踊りに興奮してしまい……どうかお許しくださいませ!」


「え!? ……あ、違います! 私は男です!」


 真南風はこんな扱い初めてでどうすれば良いか分からない。とりあえず女であることを慌てて否定したが、そのせいで余計に萎縮させてしまった。


「ひっ! 重ね重ね申し訳ありません……! 何なりと処罰を……!」


 近くの数人は何だ何だとこちらの様子を伺っている。このままではあの素晴らしい踊りを止めてしまう。真南風は慌てて膝をつき、女性の両肩に手を乗せた。


「顔を上げてください」


「いけません姫さ……、若様。高価な振袖なのにお膝が汚れてしまいます」


「服は汚れるものなので仕方ないです。それより一緒に観ましょう。あなたが立たないと、私も踊りを観ることができません。それに先程の話の続きを教えて下さい。私、楽童子について知りたいんです」


 女性がおそるおそる立ち上がってくれたので、真南風は胸を撫で下ろす。そうして二人が前を向くと、すでに演奏が止まっていた。真南風が辺りを見渡すも、百千代はいない。


「あれ……終わって帰っちゃったの?」


 そう残念そうに呟いた瞬間、真南風は右手を取られ、下から声が聞こえた。


「なんとかわいらしいお嬢様だろうか。あなたに一句贈らせて頂きたい」


「えっ?」


 先程まで踊っていた百千代が片膝をつき、真南風を艶やかな表情で見上げていた。彼は困惑する真南風の手を握ったまま即興の琉歌を詠んだ。


「夏ぬ陽射ひじゃ透かし薄雲流るる君が目前んめーらぃ透けゆ」


(夏の陽射しが薄雲を透かすように、眩しいあなたの前では群衆すら透けて見えるようです)


 異性に琉歌を送るのは最高の口説き文句である。美少年の色気ある唇から発されたロマンティシズム溢れる一句に、隣の女性はときめきのあまり足元がふらついている。普通の町娘なら一撃で恋に落ちるだろう。


「放してください」


 ところがその文化に覚えのない真南風には大して響かず、すかさず手を引き抜いた。よほど意外だったのか、百千代は大きく目を見開いた。


「私はお嬢様じゃありません。私は、おと――」


 真南風が否定しようとすると、背後から叫び声が割り込んできた。


「百千代――!!」


「まずい! お嬢様、ご無礼をお許し下さい」


 百千代が真南風を抱きかかえる。


「きゃあ! 羨ましい!」


 隣の女性は顔を真っ赤にして両手で口元を押さえた。その間にも叫び声が近付いてくる。男らしい野太い声だ。


「貴様、これから楽童子の集まりだぞ! また与那原よなばる親雲上ペーチンを怒らせる気か!!」


「ただの練習ならがいれば充分だろうが。俺はこの子と遊ぶと決めたんだ!」


 百千代の口調に先程の上品さは無いが、生き生きしている。こちらが彼の素の態度なのだろう。


「楽童子の二番手なのに、集まりに行かないんですか?」


 真南風が抱きかかえられたまま尋ねた。


「もしかして練習風景でも見たいのか? だとしたら悪いな。楽童子は男しかいないからつまんねえ。それよりも俺ともっと楽しいことしようぜ」


 百千代は風のような身のこなしで、足幅ほどの太さもない橋の手すりに飛び乗った。


「百千代、そのご令嬢を放せ! 万が一怪我でもさせたら父上の顔に泥を塗るぞ!」


「この俺が女性を傷つけるわけないだろう。女の扱いなんて微塵も知らない兄上はさっさとアカギの森に向かえ。男と踊ってばかりで貴重な若い時間を浪費するなんて俺は御免だ!」


 百千代は人混みを避けるため、不安定な橋の手すりを駆けていく。まるで地面を走るかのような迷いのなさと安定感だ。しかも真南風には全く振動が来ない。


 真南風は首を伸ばし、百千代の肩の向こう側から追ってくる男を見た。百千代に似た美少年だ。しかし細身な彼と違って体格が良い。たった今橋のたもとにたどり着いたようだが、人通りが多いため百千代のように手すりを走るでもしないと追いつけないだろう。


 百千代は真南風を見下ろし、にっと歯を出して笑った。踊っていた最中の穏やかな表情とは違い、悪戯っ子のような幼さのある笑みだ。


「行きたいところはあるか? 俺は首里の町なら隅々まで遊び尽くしているからな。要望があればなんでも言って……」


 ところがそう言いかけたところで、百千代の体がぐらりと揺れる。


「貴様、いい加減にしろ! 天賦の才を授かりながら、いつまでもふらふらと……!」


 追手の男が橋の手すりを両手でがっちり掴んでいた。袖から伸びる二本の太腕にはびっしりと血管が浮いている。ミシミシと木が軋む音が聞こえた。


「この馬鹿力! やめろ、さっきこの方を傷つけるなと自分で……!」


 その訴えは届かず、追手の男は雄叫びを上げると共にすさまじい膂力を発揮し、長い手すりを根こそぎへし折ってしまった。

 足場を無くした百千代は真南風を抱いたまま川に落ちていく。


「……しまった!」


 正気に戻った男が川を覗き込んだ。橋から川面までは大人の身長二人分ほどはある。


「百千代なら怪我はさせてないよな……?」


 川面に映る、ゆらゆらと揺れる自分の顔に向かって呟く。


 すると独り言のつもりだった問いかけに返事が来た。


「信頼してくれてるみたいだな。その通り。俺はそんなヘマはしねえさ」


 橋の裏から現れたのは真南風を抱いた百千代だ。偶然通りかかった小船サバニに着地したようだ。


「兄上は楽童子を背負う花形はながたなんだから、集中すると周りが見えなくなるその悪い癖は早く直した方がいいぜ!」


 高笑いと共に船が去っていく。橋の上の男は分厚い人だかりに囲まれながら拳を握りしめた。彼の「百千代――!」という叫び声が虚しく響いた。




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琉球神舞 国仲 @shinkq7

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