ラ・ディッシュ
牛本
ラ・ディッシュ
突然だが、私は今までモテたことが無い。
どれくらいモテないかと言うと、少しえっちな大根に欲情してしまうくらいには、モテないのだ。
寝ぼけてボヤける目を擦りながらベットから起き上がると、築50年は経っているであろう木造アパートの床を軋ませながら、洗面所に向かう。
一歩踏み出すごとに、床はキシッキシッと情けない悲鳴を上げている。
全く、毎日飽きもせずギシギシと煩いものだ。
私がギシギシと鳴かせたいのは、好きな女を乗せたベットだというのに。
そんな風に、全体重を預けるには少し強度が足りているのか怪しい床を踏みしめながら洗面所に到着した私は、毛先がホームレスのオッサンのモジャ髭よろしくごわごわとした歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を乗せ……そこで視線に気が付く。
『あ……。……おはよ』
声のした方に眼を向けると、そこには緑色のみずみずしい髪と、雪のように白く、毛穴の一つも見当たらない肌を持つ存在が、歯ブラシを口内へと誘ったばかりの私に、その
「おはよう、ラディ」
ラディとは、ラディッシュのラディだ。
つまり大根だ。
「大根が話す訳がない」なんて、そんなこと私に言われても困ってしまうのだけれど。
現に、話せているのだからしょうがない。
「少し、待っててね」
『うん……』
私は歯ブラシをシャカシャカとしながら、二又に分かれた彼女の脚の、アンタッチャブルゾーンとも言えるそこに視線が吸い寄せられていくのを感じた。
『ねえっ……どこ見てるの』
「あっ……ごめん。つい……」
『……恥ずかしいよ』
そう言うと、彼女はそれきり、話さなくなってしまう。
僕は胸に去来するたまらない感覚をひとしきり味わいながら歯磨きを終えると、うがいをする。
顔を洗って髭を剃ると、三日は洗っていないハンドタオルで顔を拭き、ラディに目を向けた。
「おまたせ」
『……うん』
「……」
『……あっ』
彼女の白の肢体を撫でてやると、ラディはそんな声を上げてゴロンゴロンと身を捩らせた。
暫くそうしていると、そろそろ頃合いだということが手を伝って伝わってくる。
ここからが、本番だ。
彼女専用のブラシを手に持って、その体に当てがった。
大根の皮は丈夫な方ではあるものの、あまり力を入れてしまうと表面に傷がついて傷んでしまいかねない。
その為、力加減には細心の注意を払わなくてはいけないのだが、その力加減にしたって、ラディの声を聴くことが出来るようになってからは、絶妙なそれになってきていると自負している。
私は二又に分かれたソコに、そっと毛先を差し向けた。
先程までアンタッチャブルゾーンだったそこは、今は既にタッチャブルゾーンだ。
『あっ……そこ……』
「……ここ?」
『……うん』
彼女の、おでんでぐつぐつと煮込まれた大根くらいに蕩けた声に、私は嬉しくなって口角が上がるのを感じた。この声を聴くと、つい尽くしてしまいたくなる。
モテたことが無いので分からないが、恋愛とはこういうものなのではないだろうか。
「ラディ、ここは?」
『そこも、好きぃ……』
「……」
ラディの艶やかな声に私は興奮気味になって、右に左に、細かく毛先を動かす。
シャカシャカシャカ……――
そんな音と共に、彼女の声と私の息遣いが交じり合う。
まるでそれは、愛し合う二人が行うソレそのものではないだろうか。
私のダンコン(大根ではない)も、ぐんぐんと成長を始めている。
促成栽培と同じ仕組みだろうか。
暫くして、ラディが綺麗になったところで、私たちの行為は終わりを告げる。
「ふぅ……」
『はっ、はぁァっ……やり、すぎっ……』
「あ、ごめん。……ラディがかわいすぎたから」
『もう……朝から、こんなことになるなんて、思ってなかった』
冷水のシャワーを浴びてスッキリした様子のラディは、そのつやつやとした肌を惜しげもなく私に晒してくれている。
そんな彼女の姿を見て私は年甲斐もなくドキドキとしてしまうのだが、いつまでもそうさせている訳にもいかない。
私は彼女にラップを着せてやり(よく考えたらこれも大分エロスを感じるが)、野菜室に入れて少しの間の別れの挨拶をする。
「じゃあ、仕事に行ってくるから」
『うん。頑張ってね』
こうして、モテない私の一日は始まるのだ。
♦♦♦♦
ラディを家に留守番させ、会社に出社した私は、丁度一緒のエレベーターに乗り合わせた後輩の女性に声を掛けられた。
「先輩、最近なんだが明るくなってきましたね」
「え? ……あ、そ、そうか?」
唐突にそんなことを言われて、どう反応するのが正しかったのか分からなかった私は、何だか変な返事をしてしまったような気もする。
ただ、そんなことは気にも留めていないのか、彼女は明るい笑顔を浮かべて頷いた。
「はい! 失礼ですけど……私、前までは先輩のこと、ちょっと恐い人なのかなぁって思ってたんです」
「そ、そうだったんだ……」
「でもですね。ここ最近、先輩が纏っている空気と言いますか、それがすごく暖かく感じて……正直、いいなぁって、思っちゃったり……」
そう言って、少し俯く彼女。
手でうちわを作り、「な、なんか暑いですね……」と顔の横でパタパタと始めた彼女の横顔は、少し赤く染まっているようにも見えた。
心臓が、ドクンと跳ねる。
そんな私の様子に気づいているのかいないのか、上目遣いの彼女はその艶やかなピンク色の小さな唇を花開かせた。
ふわっと、いい香りが漂う。
「先輩……今夜、相談したいことがあるんですけど……いいですか?」
「え、あ、うん……」
「ほ、本当ですか! 嬉しいです! ……では、また後程会いましょうね!」
「……」
とんでもないことになってしまったようだ。
♦♦♦♦
「先輩! 遅くなってすみません!」
「あ、ああ。全然いいよ」
なんだ、今のやり取りは。
まるで、恋人同士のようではなかったか。
「ありがとうございます! ……先輩、優しいですね」
「え、はは……そんなこと、ないけど」
「ありますって! ……じゃあ、私居酒屋予約してるので、そこ行きましょ!」
「そうだったんだ。ありがとう、行こうか」
居酒屋にて。
「それでですね。先輩は優しくてぇ……」
「ちょっと……飲み過ぎじゃない?」
「わたし、まだまだいけますよ! ……店員さん、生ください!」
「……大丈夫かな」
そうして、夜が更けていく。
いつの間にか、時計の針は12時で重なっていた。
「せ、先輩……。すみませんでした。つい、テンションが上がってしまって……」
「私は構わないけど……。終電とか大丈夫? もしないなら、タクシー代出すよ」
「……」
「……どうしたの?」
何故か黙ってしまった彼女に声をかけると、彼女は真っ赤な顔を私に向け、ジッと目を見つめて来た。
開かれた口から、柔らかいアルコールの香りが鼻に届く。
「……先輩の家って、確かここら辺でしたよね?」
「え?」
「行っちゃ、ダメですか……?」
♦♦♦♦
「ぅっ、うぅ……ん」
トントントンという音と共に届けられた香りで目を覚ます。
昨晩はあれから幾度かのやり取りを経て、結局彼女を家に上げることになってしまった。
存外、自分が押しに弱い性質であることに衝撃を受けながらも、それでも人生初の大イベントだということもあり、気合い十分……だったはずなのだが。
ぼんやりする頭を振って意識を覚醒させると、どうやら私は床の上で寝ているようだった。
客人用布団……引っ越してきたばかりの時に買ったはいいものの使う機会がなく放置していたそれを引っ張り出し、帰宅と同時に寝てしまった彼女をそこに寝かせた辺りで記憶が無くなっている。
どうやら、緊張が解けて気絶するように寝てしまっていたらしい。
なんだが、安心したような、寂しいような……。
そんな風に思っていると、台所の方から声が聞こえて来た。
「あ、先輩! 起きたんですね。おはようございます」
「あ、ああ。おはよう」
「えへへ。私、男の人の家に泊まったの初めてで……昨日は寝ちゃって、すみませんでした……」
「ああ、ううん。全然……」
「お詫びにですね! 朝食をと思いまして……!」
「え?」
その言葉を聞いた途端、ブワッと嫌な汗が噴き出した。
そう言えば、さっき、そんな感じの音が聞こえて来たような……。
鼻に届くこの香しい香りは、味噌汁、だろうか。
「え、はは……え? あ、ありがとう」
「いえ! なんか、少し傷みかけてたんですけど、立派な『大根』があったので! それで味噌汁作っちゃいました!!」
そこから先の記憶は、あまりない。
ただ――久しぶりに食べた大根は、少ししょっぱい味がした。
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