第8話 文学とは。



 こんにちは、珠邑です。

 だいぶ間があきましたが、生きてます。


 生きてる間に、文学文芸サークルを立ち上げたり、公募用原稿でひいひい言うたり、製本したり、校正したりしてました。



 さて、ふと思い立ったので、「珠邑の思う文学とは何か」、について、書き残しておきたいかなと思います。


 大人向けと、子ども向けに分けます。

 かたくるしいの、お好きじゃない方は、また次の機会にどうぞ。



***


 じゃあ、では大人向けからまいりますね。




 「文学」とはなにか。

 珠邑は、人間とは、また社会とはなにか、についての展望や、その本質追及を目ざすものであると考えます。


 その取り扱う題材が、人間ではなくとも、その事象を「文字」の形で受け止め、論として理解できるのは人間でありますから、これはもう人間とは、にふくめてしまいます。

 文学、といいますか、小説とは、読み手にとどいて、はじめて完結するものだと思いますので。



 「文学」である、というのは「難解である」ということではありません。



 もし、その文学を難解であると感じたならば、それは、その中に展開している社会に、読み手が精通していないというだけのことなのです。

 知らないから、わからない。

 しかし、世の中の大半のことは、知りうることもなく、過ぎ去るものです。


 故に、人は「文学」を通して、自らの生活だけでは体験し得ることのない人生や社会を、作者の目を通して、追体験する。

 わからないから、知らないから、知りに行く。

 それこそが、読書を行う意義であり、喜びであると考えます。



 執筆動機や、物語の「主題」の方向性を決定づける根拠も、そこから大きく外れるものではないでしょう。



 読書によって、読者に、他者キャラクタをリアリスティックに体験させうるためには、フィクションに説得性をもたせなくてはなりません。この説得性を、どこに軸足をおいたものとするかといえば、やはり「主題」ということになります。

 そして、「主題」には、必ず書き手の信念と正義が滲みます。

 その「主題」において核となるものこそが、人間追及の深度ではないでしょうか。


 この人間追及が、書き手自身の内的理解に向かうのであれば「私小説」的なものとなりますし、反対に、書き手とは異なる人物像の再現なのであれば、高度な客観視によって為された、人間や、社会や、文化の投影となりましょう。


 この世には、主義思想社会の異なる、あらゆる人間がありますが、人間を追求した目がない限り、いかに人間を書こうとも、それは表面をなぞっただけの虚像キャラクタにとどまります。

 理解していないものは、書けないのです。

 「いや、自分は写実主義であり、客観的事実追及の文体を極めるのだ」とされるとしましょう。しかし、書き手が人間である以上、決して主観から逃れることはできません。故に、人間追及は必須である、と思うのです。


 ただし、そこで行われる人間追及の結果が、ある一定の層に対し、いかにその芯を的確に捕えていようとも、攻撃的に見なし描くことは望ましくありません。


 それは思想の強弁です。


 両儀的視点に著しく欠けるものは、公序良俗に反すると、わたくしは判断します。


 これは、文系学問の目指すところにおいても、それに反するものでありましょう。


 これを行いたいのであれば、小説ではなく、自論という形式で記し、活動することを、わたくしとしては推奨したいと思います。


 なお、真の学問において正であると論じられた事象であれど、これを転写しただけのものもまた小説ではないと判断し、この場合も、学術論文として筆記されることを、お薦めしたいと思います。



 文学とは、小説とは、何か。



 それは、先端研究の知見や、蓄えた知識教養をひけらかすためのものではなく、当然、思想誘導をするためのものでもありません。

 

 人間を透徹した眼差しで見つめ、尊重した真心によって綴ったものであり、それを提供することで、読み手の中に豊かな内的世界を展開させる一助となりうる。


 そういうことを目指すものであってほしい。


 わたくし個人としては、そのように切望しております。




***



子どもさんむけにはこちら。


「ぶんがくって、なんでしょう?」



 かんじたこと、

 みつけたこと、

 おもったこと、

 すぐ身近みじかにある、であいを、


 それから、


 これからであいたい、

 ひと、

 もの、

 ちいき、

 くに、

 せかい、

 ほし、


 そういったものへの、いまのきもちを、もじで、かいてみてください。


 たいせつなのは、


 うれしかったり、

 たのしかったり、

 かなしかったり、

 おこったりした、きもちを、

 なかったことに、しないこと。


 でも、それは、

 いまや、みらいにいる、

 だれかへの、

 おてがみになるので、



 どうか、みかたさがしの、どうぐには、しないでください。



 あなたの、めで、みて、みみで、きいて、かんじた、おもいを、

 もじという、かたちにする。

 いちずに、する。

 それが、たいせつなのです。



 むずかしかったら、ちかくの、おとなのひとに、おしえてもらってください。


 むりに、こどもらしく、かこうとしなくて、だいじょうぶです。


 せのびして、かいてみていいんです。


 せのびした、がんばりが、いつか、あなたから、みえるせかいの、たかさの、プラスに、なります。


 おとなのことばでは、「視界の高さの底上げ」といいます。


 それは、もくひょうへの、せのびなので、


 めいっぱい、つまさきだちしてください。



 あなたのこころがつかまえたせかいを、どうぞ、もじに、してください。



 わたしは、たいせつに、うけとめたいと、おもいます。





***



 文学を、楽しみましょう。




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駄作論 珠邑ミト @mitotamamura

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