注意が相手に伝わらない
浅賀ソルト
注意が相手に伝わらない
私は出社すると朝のコーヒーを飲んでいる上司に話し掛けた。この時間ならまだあまり人が出社していない。
「契約の山本さんですけど、昼休みが長すぎませんか?」
上司はそんなことには気づいてなかったようだ。「山本さん? そうかな?」などとピンときてない反応だ。
「そうですよ。ちょっと今日は気をつけてみてください」私は陰口や噂話に聞こえないように、大事な業務上の情報共有であるかのように言った。
めんどくさいのが嫌いな上司は予想通りの反応をした。「しかしうちの仕事は成果さえちゃんと出していれば別に昼休みが長すぎても問題はないけどね」
想定内だ。私は用意した反論をする。「社員はそうですが、契約社員は時給で給料を払ってますから」
「いやいや、正社員も時給での給料だよ」上司はあくまで軽い。コーヒーをうまそうに飲んでいる。オフィスのコーヒーは飲み放題になっている。
「あの調子なら契約は1時間短くてもいいんじゃないですか?」上司がそう反論するのを想定していたので私は用意していた論理を展開させた。承認されればその分経費が浮き私の成果となる。本当に契約時間を短縮させようと思っていたわけではなかった。短縮はは無理という話からの次の展開が目的だ。
「きっちり数字として出せるならそれでもいいけど」上司の反応は鈍い。
積極的に処分に反対しているわけではなくて、単に面倒臭がっているだけなのは分かった。「もう少し山本さんに任せる仕事を増やそうと思うんですけど、いいでしょうか?」
「ん、ああ、それは別に構わないよ」上司は常識的に許可を出した。この流れで駄目とは言わないだろう。
「ありがとうございます」私は言った。
契約社員にお願いする仕事の内容は決まっている。焼きそばパンを買ってこいとか職場のコーヒーを常に用意しておけとか命令することはできない。契約時に説明した内容だけだ。とはいえ、契約時の説明といってもそこまで詳細ではない。最後に、簡単な雑用のような手伝いも契約内容に加えることを忘れていなかった。
山本という契約社員は私が面談して採用した人物ではない。上司でもない。経営陣がイベントやグッズ販売に経験のある人材が不足しているとかで勝手に募集して勝手に採用した人物である。人材が不足していたのは事実だ。だが、誰でもいいというわけではないから現場でどういう人材が欲しがっているかをもっと調べてから採用すべきだったのではないかと思う。上司は最終的には面談をしたが、『この人を採用しようと思うんだけど、どうかな?』という段階での面談だったそうだ。経営陣の決定に強く反対するほどの大きな欠点は見つからなかったので上司はそのまま採用したのだという。
強く反対するほどの根拠はない。これがこの採用に関しての事情を端的に表している。強い推薦があったのだ。
契約社員というけど経営陣の遠い親戚の誰かではないかとすら私は思っている。なんの証拠もないけど。
こちらの顔色を窺う感じがないのがその根拠だ。微妙に昼休みが長いのもそう。妙に堂々としている。契約を更新されないかもしれないという危機感を持っていない。
親戚でないなら別の何かだ。
私はこれまで記録してきた山本さんの昼休み記録を見返してみた。うちでは昼休みは50分と決められている。チャイムが鳴って全員一斉というわけではないし、前後にタイムカードのようなものはないので厳密な管理はされていない。それでも席を立ったときと戻ったときの間隔が50分と決められている。戻って席につかずそのまま昼のコーヒーを飲む人間もいたりするがそれは正社員にのみ許された話だ。契約社員は社内のフリードリンクも許されていない。席を立った50分後には業務を再開しなければ給料泥棒だろう。
記録には席を立った時間と戻った時間が秒単位で記録されている。私の部署に配属されてから二週間、これまで50分以内で済んだ昼休みはない。60分を越えている回数も半分以上だ。これまでの配属先ではどうだったか知らないが、ここではそれは許されない。私は山本さんが立ち上がるときにエクセルに時刻を書き込み、席についたタイミングで次の時刻を書き込んでいた。ちゃんと見てから書き込むまでの時間も考慮した時刻を書いているし、間違っても長くなりすぎないように気をつけていた。いちゃもんのようになってはいけない。実際の休憩時間より私の記録が長いということはあってはならない。それでも常に50分より長い。
今日の昼休みも記録して、それが確定したら注意のために午後イチで呼び出すことにしよう。私は決めた。
そして正午を過ぎた。うちの会社は時間が決まっていないのでラッシュを避けて13時に休む人間も多い。14時から休む社員もいる。
山本さんはほぼ13時派である。この二週間の記録だと12時50分前後、13時直前から昼休みに入る。
それまでは動きがないだろうと思っていた。しかし私がトイレに行ったりしている間に休憩に入られてはこれまでの苦労が水の泡だ。私は自分の席についたまま、山本さんが立ち上がるのをずっと待った。
山本さんの同僚が彼女に声をかけたのはやはり12時50分。席を立ちながら、どこで食べるとか何を食べるとか話し始めた。私はきっちりとパソコンの時計で現在時刻を確認した。12:51。エクセルにそれを書き込む。1月29日の行の昼休み開始の列に12:51。これで復席が14:41よりあとであれば休み過ぎということになる。平日の通常営業日11日間連続ということになる。
同僚とビルの外に食事に出掛ける山本さんの姿を私はずっと見ていた。彼女の席から、机の間を歩いて扉を開けて廊下に出るところまでの一部始終だ。私は彼女がオフィスから出ていったことを確認してから素早く立ち上がった。給湯室には冷蔵庫があり社員は自分の弁当をそこに保管しておける。契約社員には許されない特権の一つだ。私は自分の弁当を出すと、いつものルーティンで自分のカップにインスタントの日本茶を入れ、弁当を給湯室の電子レンジであたためてから自席に戻った。
スマホを見ながら弁当を食べてお茶を飲んだ。ついつい時計を見てしまった。世間のニュースだと50年前のテロリストが死んだとか、漫画家が自殺したとか、ダウンタウンの松本がどうしたとかが並んでいた。弁当の味もニュースの内容も頭に入ってこなかった。
弁当を急いで食べてしまったのでまだ時計は13:30よりも前だった。私はお茶を飲み干し、給湯室で弁当箱とカップを洗い、それからまた自席で山本さんの休憩終了をじっと待った。13:41より帰りが遅くなるという確信を持ってはいたが、それでもいつもより早く戻ってきたらどうしようという気持ちもないわけではなかった。隣の席にいる上司も昼食に出ていってしまった。13時過ぎに出たので山本さんより早く帰って来ることはない。
私はふと上司の昼休みは50分以内なんだろうかと疑問に思ったが、大体確実に1時間以上の時間をかけていると思い至り、そこで考えるのをやめた。どっちにしろ部長以上の役職では時給ではない。意味がない測定だ。
時計は13:41を過ぎた。まだ山本さんは姿さえ見せていない。
私はとりあえず13だけを記録に打ち込んだ。14時を過ぎたりするだろうか? つまり70分以上の休憩を取るだろうか? この二週間にはそういう記録も2回ある。今日もそうなら3回目だ。
昼休みから帰ってくる社員は絶え間ない。この時間は休憩の終了ラッシュだ。やたら声の大きい齋藤部長や、常に同じ4人組で行動する弊社の——いまどき時代遅れだがそう呼ばれているのだからしょうがない——お局四人衆なども昼食から帰ってきていた。特徴のない女性の話し声が聞こえて、遂に山本さんが戻ってきたかと思い時計を見た。13:55。しかしオフィスに入ってきたのは山本さんではなかった。
時計は14:05。そこでやっと山本さんは帰ってきた。話し声は聞こえなかったので不意にオフィスに入ってくる形になった。
記録シートの時間の箇所は14時を過ぎたときに14に修正していた。パソコンの時計を視界の中心にして、視界の隅に山本さんを入れて動きを追った。彼女が椅子に座り、離席中のパソコンのロックを外したのは14時7分、今日の昼休みはなんと76分。新記録だ。
プリントアウトをする必要はないだろう。私のパソコンの画面をプロジェクターで映せばそれで事足りる。
私は立ち上がるとノートパソコンを持って山本さんの席へと近づいていった。オフィス机の配置で言うと彼女の席は隣の島にあるのでぐるっと回り込む必要があった。
「山本さん」私は近づくとその背中に声をかけた。
「はい?」彼女は振り返って私の顔を見た。
「戻ってきて早速のところ悪いんだけど、ちょっと話があるので会議室に来てくれる?」
「あ、はい。分かりました」彼女はキーボードから手を離すと自分のノートパソコンを持って立ち上がった。
私は彼女を後ろに従えて会議室に入った。14時から30分の予約をしていた。押してはいるが20分もあれば話は充分だろう。
私が奥に座り、彼女は向かいに座った。
儀礼的に私はノートパソコンを開いてなんとなくその画面を見た。資料を見ている風の態度を取ってしまうのはなぜだろう。画面には何もないのだけど。
私は急にすいませんとか昼休み直後の方が仕事の邪魔にならないと思ってとかそういう話でウォーミングアップをした。この部署に来て二週間だけどそろそろ慣れた、と聞いてみたけど実際には私はそんなことに興味はなかった。
「えーと、弊社の昼休みは50分というのは聞いてますよね?」
「はい。聞いてます」平静な受け答えだった。
「山本さんは今日で二週間ですが、これまで毎日、50分以上の休みを取っています」
「え? あ、そうですか? すいません」彼女はイージーな反応をした。それが問題だとは思ってないような、この話も本命の話の前のウォーミングアップだと思っているかのような態度だった。
私は少し深刻で真面目な雰囲気を出してみた。言い方も軽かったかもしれない。「これが繰り返されるようだと非常に困ります」
「え、はい。次からは気をつけます」
納得いってないというのが自明だった。明日からも昼休みを50分以上取ると私は確信した。「明日以降もこれが続くようでしたら契約の更新に支障が出るかもしれません」
「え、あ。はい」まだ深刻には受け止めてないようだった。
私はさらに念を押そうかと思った。これで契約が切られることもあるんだと言おうかと思った。昼休みがちょっとダラっとしているというだけの問題ではあるが、仕事を軽んじている、ひいてはうちの会社の仕事などちょっとくらい適当でいいとナメているという部分につながる問題でもある。これが許されるならあれもこれもとどんどん他の仕事も手を抜くようになるだろう。全力を出すべき仕事を、この会社の仕事は8割7割の感じでいいやという気持ちになる。さらにそれは周りの雰囲気にも繋がり、全員が6割くらいの取り組みで済ますようになる。50分の休みが76分になったのだ。80分や90分まであと少しである。
しかし私はこれ以上の念押しは無駄だと思った。ここまで言っても「あ、はい」という反応のままの契約社員を「申し訳ございませんでした」まで持っていくにはあと10分はかかるだろう。そこまでの訓告や説諭をするようなことではない。というか、ここまで言って伝わらないなら、一生伝わらないだろう。
「では、伝えましたから。以後、よろしくお願いしますね」話はこれで終わりというのとこれが最後通牒ですよというのとあなたには失望しましたというのと、色々な気持ちをミックスしながら私は言った。伝わるといいのだけど。
予想どおり、伝わってないのが丸見えの軽さで彼女は、「あ、はい」と言った。
「話はそれだけです」
「分かりました。どうもすいませんでした」彼女は形式だけ頭を下げた。会議室の椅子に座ったままの礼だった。
私は立ち上がり業務に戻ろうかと思ったが、彼女は何か言いたそうだった。「何か?」
「え、いや、うーん」言いにくそうにちょっと間を取り、躊躇する時間があった。
「なんでも言っていただいて構いませんよ」
彼女はそれでも黙っていた。
「言いにくいことかもしれませんが」私は椅子を直した。姿勢をちょっと直し、待ちの姿勢を取った。
体感は長かったが実際には数秒だっただろう。彼女は遠慮気味に、「私はみんなと一緒に昼休みを取って、みんなと一緒に戻ってきているだけです。なぜ私だけと思ったのですが」と言った。
私は呆れた。そんな理由も分からないとは。「他のみんなは正社員です。あなたは契約社員じゃないですか」
「え、あ、はい」彼女の反応は相変わらずぼんやりしたものだった。
私が何を言っているのか理解していない。まるで自分も会社の一員で家族であると勘違いしていて、私にはっきり言われてもまだそう思っているような態度だった。びっくりすらしていなかった。理解できたらせめて体を硬直させるくらいの反応はするだろう。しかし彼女はまだぼんやりしたままだった。
「みんなが帰りにコンビニに寄っていても、あなたは一人で先に戻るくらいのことをするべきですよ」
注意が相手に伝わらない 浅賀ソルト @asaga-salt
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