黎明のウロボロス

秋乃晃

傲岸不遜

第1話

 扉の向こうに、はあった。


 視界がぼやけている。人々が足を取られぬように舗装されているはずの地面は、ところどころで隆起していて、私は幾度となく躓いた。そもそも、今日この日まで私ひとりで外を出歩くことなどない人生を送ってきている。必ず、侍女の一人や二人、私の補佐をしてくれるものだ。というのに、誰一人として近寄ってこない。不自然だ。どこへ行ってしまったのだろう。

 この私がひとりで出歩いている姿が住民の誰かに見つかれば、彼女たちは叱られてしまう。彼女たちは私の世話をしてくれるので、私は感謝している。鞭打ちの刑は可哀想だから、避けたい。

 ならば、私は外を出歩かずに、師父からの言いつけを守り、地下室に閉じこもっていればよろしいのだが、そうもいかない事情がある。地下室には私のための三日分の食糧と水分があり、これらが完全に尽きる前に、師父が扉を開けてくれる予定だった。しかし、待てども待てども扉は開かない。私はきっかり三日分を消費して、四日目を迎えてしまっていた。もとより来ないとわかっていれば、三日分をやりくりして七日分にはできたというのに、失ってからではもう遅い。きっかり三日分を摂取してしまった私は、空腹でいてもたってもいられなかった。

 このまま閉じこもっていれば、死んでしまう。生命の危機に、扉を破壊して地上へと出た。地下室で干からびて死ぬのを待ちたくはない。約束を一方的に破ってくれた師父へ、一発お見舞いしてやらねば気が済まなかった。


 都市がなくなっている。


 私の住んでいる都市は、人々から『コルキス』と呼ばれていた。外から来た人間も、ここで暮らす人間も、口を揃えて「コルキスは素晴らしい街だ」と絶賛する。何をもって『素晴らしい』とし、何がなければ『素晴らしい』と言えないのかは、わからない。私が思い浮かぶ比較対象は、師父や侍女たちの語る他の都市の醜聞ばかりだ。それらに比べたら、確かにコルキスは『素晴らしい』のである。

 師父曰く、生まれたばかりの私は聖なる日の翌朝に師父の家の前にいたらしい。捨てられてしまった幼き命がこうしてすくすくと育ったのだから、やはりコルキスこそがこの世界で最も素晴らしい。

 人々は私を『メーデイア』と呼んでいた。人々がそう呼ぶのなら、私の名はメーデイアということだ。私を産んだ人間は、この私をなんと名付けようとしていたのかを知る術はない。知ったところで、私がメーデイアである事実は変わらない。産んでくれたことに感謝はしているが、行き場のない礼は育ての親の師父に伝えている。

 私はメーデイアとして、生まれつきの才能をひたすらに伸ばし続けた。結果として、コルキスで一番――いや、この世界で最も優れた魔法の使い手であると自負している。優れた魔法の使い手であるからこそ、人々から崇められ、宝玉のように丁重に扱われた。

 地下室に隠されるのは、一度や二度ではない。師父は、街と街を練り歩く行商人から戦禍の報せを聞きつけると、私を地下室へと連れて行った。私も慣れている。必ず三日分の食糧と水分がともにあり、戦いが長引けば忘れずに補給されていた。忘れ去られたのは、今回が初めてである。許すまじ。


「誰か、いないのか!」


 屋根は削れて屋台骨が露わになっている商店で飲み水を確保し、のどを潤した。商人の姿はないが、あとで師父に支払わせればよろしい。水分を得て、わたしは声を出せるようになった。ありったけの力を振り絞って、叫ぶ。


「私はここにいる! 返事をしてはくれないか!」


 呼びかけて、耳を澄ませる。どんなに小さな声でも聞き逃さないように、注意深く。依然として、視力が戻らない。目が頼りにならないのなら、耳を使う。何も聞こえてこない。

 視力回復の治癒魔法の効きが悪いのは、空腹のせいでもあるだろう。先ほどの商店では、水しか手に入らなかった。食べ物は、砂埃をかぶってしまっていたり瓦礫に潰されていたりして、どれだけ空腹であっても口に運ぼうとは思えない状態だったので、諦めている。


「負けたのか?」


 負けるはずがない。しかし、この街の惨状を把握すればするほど、敗北を認めざるを得ない。だんだんと怖くなってきた。もしや、この私を知っている人間は、もうどこにもいないのではないか?


 人々がいなくなった都市は都市ではなく、廃墟だ。


 コルキスの男児は戦士として育てられる。食器より先に槍を掴み、文字よりも戦術をその肉体にたたき込まれていた。街を守るために戦い、敵を退ける。友好都市のネルザに派兵され、友軍としてその武力を行使することもあった。

 コルキスの女児は家を守る者として育てられる。戦いの場に送り出される男たちの帰る場所を維持していかなくてはならない。ただし、魔法の才能を見いだされた者は、魔法の使い手となる。私の世話を受け持つ侍女たちは、魔法の使い手だった。私ほどではないにせよ、優秀な使い手である。


「誰でもいい! 私の声が聞こえているのなら、応じてくれ!」


 仮に負けたとしよう。負けたのだとしても、この街にひとりも残っていないはずがない、人々はこの街を愛していた。誰かは残ってくれている。そう信じて、大声を出した。私が地下室に入ってから四日目なのだとして、一日目にして敗戦したとも思えない。コルキスの軍は優秀だ。どのような敵が相手だったとしても、たったの一日で、こんなことにはならない。


「――はい」

「!」


 男の声がして、振り返る。神に祈る集会場の残骸の上に座って、男が左手を挙げていた。この辺では見かけたことのない顔をしている。……これは私の視力が戻りきっていないだけか。


「これは、これは」


 よく通る、澄んだ声をしている。男は。高い位置から私の近くへとふわりと舞い降りると、翼をしまう。翼のある人間など、聞いたことがない。


「ここにいたのか、オレキサキとなる者。生命反応があったから『もしや』と思って来てみたのだが、大当たりだった」

「……はい?」


 后。私の知識が正しければ、それは王たる者の妻を指す言葉ではないか。私の表情から察して、男は自らの顔から何かを取り外す。その取り外したものをつまんで、私の顔に近づけてくる。


「んんっ!?」


 顔を背けようとすると「大丈夫大丈夫」となだめるようなセリフを吐いて、反対の手でアゴを掴まれた。こいつも魔法の使い手のようで、身体が動かせなくなる。


 ああ、おしまいだ。


 私は観念して、まぶたを閉じた。全力で抵抗できる状態であれば、この程度の拘束を解くのは容易い。私は優秀な魔法の使い手なのだから。ただし、今は違う。力が出ない。魔法は使えない。声を出して周りに助けを求めようとしても、助けに来てくれる人がいない。こんなことになるのなら、地下室に入る前にワガママを言って、師父にコケムストリのミルク煮込みを作ってもらえばよかった。師父はお世辞にも料理が上手いとはいえないけれども、ミルク煮込みだけは美味しい。師父の母親の得意料理であり、そのレシピを聞き出して覚えていたものだ。他の料理は侍女に作らせたほうがいい。


 みんな死んでしまったのだとすれば、これから私も――


「余の顔は、見えるようになったか?」

「……え、っと?」


 アゴから手が離れて、拘束が解かれる。瞬きをすると、不明瞭だった視界が回復していた。私と向かい合って立っている赤髪の男の顔を見つめると、微笑みを返される。おっしゃる通り、しみもそばかすもない健康的な肌が見て取れた。

 耳に違和感がある。指で触れて、細い棒状のものをつまんで、まじまじと見た。細い棒状のものにレンズが二つくっついている。


「これは?」

「視力矯正の道具で、メガネという。壊れぬよう、また、かけた者の視界を明るくするよう、願いを込めて職人が作ったものだ。大事にするがいい」


 メガネ。メガネは知っている。ただし、行商人がかけていたものとは、異なる形状をしていた。あれは、片方にしかレンズが入っていないものだった。


「大事に?」

「そう。余から、余の后への初めての贈り物として、受け取ってはくれまいか」

「……后とは?」


 身体の不調により魔法が使えない今、魔法はなくとも視力が回復してくれるのは大変喜ばしい。が、先ほどからの扱いは気に食わない。この男の見目麗しさは認めよう。私のこの人生の中で出会ったどの人間よりも美しい。侍女の一人が語ってくれた、おとぎ話に出てくるような男だ。否定はしない。

 けれども、容姿でころりと落とされるような、そんな単純明快な構造をしている私ではない。そのような者に贈り物をされたとて、私の心は揺るがない。


「余は、この、小さな世界を支配する者である。ミカドとなる余の妻ならば、后に相違ないであろう?」

「……」


 何を言い出すのかと思えば、世界を支配するなどと。開いた口が塞がらないとはこのことだ。


「何か?」

「私にはメーデイアという名が御座います。婚姻の儀もしていないのに、后呼ばわりは癪でして」

「メーデイアか。覚えた。今すぐその『婚姻の儀』をしよう」

「婚姻の儀は、先ほど貴方が座っていらっしゃった集会場で執り行うものでして」

「そうか。それはもったいないことをしてしまった。

「はい?」


 聞き捨てならない。


「貴方が、コルキスを攻撃したのですか?」

「ああ。そうだ。から」


 あっさりと肯定された。


 メガネのおかげでよくわかる。顔はいいが、上半身には何も着用していない。下半身は泥と砂で汚れた布を巻いている。コルキスで農作業に従事していた住民のほうがまだ、気品にあふれていた。顔だけのくせに『美しくなかった』などと申すか。


「先ほど貴方は、私を后にとおっしゃいましたわね」

「ここで『婚姻の儀』ができぬのなら、よその都市に行こう!」

「もし、私が戦火に巻き込まれて命を落としていたらどうしていたのです?」

「それはない。余が守る」


 当然と言わんばかりに、断言された。私は地下室にいたから戦火に巻き込まれずに助かっている。そして、地下室から自力で出てこなかったとしたら、こいつと会わずに枯れ果てていたかもしれない。というのに『守る』とは。聞いて呆れる。


「どうやら、余の后は余を誤解しているようだ」

「当たり前でしょう?」

「后と呼ばれることは、それほど嫌か」


 先ほど名乗ったのに未だ后扱いされているのも嫌なのだが、そうではない。


 この者の愚行により、コルキスの人々は犠牲になった。私は優秀な魔法の使い手であるはずなのに、何も出来なかったことが悔しい。仇敵を目の前にして、何も出来ないのが歯がゆい。


 あの優しかった人々には、もう会えない。会えないのか。


「余の愛は本物であるぞ。ここにいた人々のものとは違う」

「……」

「話を聞いてくれ」


 殺意とともに、空腹感も増してくる。私が全力で攻撃を打ち込めば、こんな男などあっさりと木っ端みじんにしてやれるのに、ままならない。飛びつき、噛みついてやりたいが、かわされそうだ。


「メガネはお返しします」


 外して、突き返した。驚いた顔をされているが、仇の施しは受けない。


「どこへゆく?」

「教えません」


 友好都市のネルザであれば、顔なじみがいる。何度かあちらからやってきて、一日を過ごし、日暮れまでに帰っていた。コルキスがこうなってしまったことも、知っているに違いない。ともに戦ってはくれなかったのだろうか。


「余はネルザへゆくが」

「……ついてこないでもらえます?」


 後ろをついてくる。メガネをかける前よりも、視界がぼやけていた。よろめきながら歩く。


「そんなにふらふらと歩いていて、ネルザまでたどり着けるのか?」

「いずれは着く」

「逆方向であるぞ」

「ああ」


 説得は不可能と結論づけたか、私を両脇の下から抱きかかえると、浮かび上がった。


「ちょっと! やめて! 離して!」

「離したら落ちるが、よろしいか。余は」

「う、うるさい! わかっているわよ!」

「さみしさと空腹で気が立っているとみた。その証拠に、とても軽い。可哀想な余の后よ」

「可哀想!?」


 こいつがコルキスを攻撃しなければ、さみしさも空腹もなかった。今でも人々は、このコルキスで、普段通りの生活を送っていただろう。それなのに。


「余の話に耳を傾ける気はないか? ネルザに着いたら、城の者に食事を用意させよう」


 食事。


「……名も名乗らぬ御仁とは、会話するなと教えられていますゆえ」

「ふむ。これだけ楽しく会話したというのに、まだ名を告げていなかったか。余は紅のクシャスラという。フシャスラ。シャフリヤール。どれでも好きなように呼んでくれ」

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