13.眠り(最終話)

「ばかばかしい」


 ナオミはそう言って首から縄を外し、天井のパネルに映る自分の顔を再び凝視した。


 痩せこけて肉は削げ落ち、皮は重力にあらがえず垂れ下がり、我ながら涙を誘うようなみすぼらしさだと彼女は思った。

 自分の顔との久々の再会は思わぬ形で訪れ、それは想像していたよりずっとひどい結果ではあったものの、それでも旧交を温めるがごとく、ナオミはせめてもの笑顔を作ろうと試みた。すると乾ききった大地の裂け目のような目と口が曲線となり、表情にやわらかさを与えた。はたから見ればそれは決して笑顔といえるような代物ではなかったが、その顔を見ているうちに、ナオミは不思議と自分の体に力が湧いてくるのを感じた。


「そんなに悪くないじゃない」


 そうつぶやくと、ナオミの顔全体に自然な笑みが広がっていった。

 あらためて宮殿のようなこの空間を見渡すと、来たときは圧倒された装飾にあふれたこのホールが、今では安っぽい書割かきわりを使った舞台のようにしか感じられなかった。ナオミは自分の部屋に、機能的で清潔で快適なあの場所にたまらなく帰りたくなった。


 垂れ下がる縄を囲む四本の柱の外に出ると、天井からカーテンがおりてきて、冗談じみた装置を覆い隠した。ナオミはエントランスに向かい、そこで一度振り返り、とがめるような目つきの肖像画の同胞たちに別れを告げた。通路側の扉が閉まっているのではないかと心配になったが、階段の上から確認すると扉は開いたままだったので、彼女はほっと胸をなでおろした。


 苦心してのぼってきた階段を今度は慎重におりていき、最後の一段に足をかけると、そこから通路の奥にある、ドアが開きっぱなしの自分の部屋が見えた。ナオミを部屋から閉め出すこともできたはずだが、そうしなかったのは国家の寛容さによるものなのか、はたまた無関心さによるものなのか、いずれにせよナオミには知りようがなく、ただその事実を受け入れるのみである。


 行きは不穏で謎めいた雰囲気があり、やけに長く思えた通路だったが、帰りはそれほどの距離には感じられず、彼女にとってそこはもはやただの通り道にすぎなかった。


 部屋に戻りドアを閉めると、ナオミは大きくひとつ息を吐いた。安堵を超えた恍惚に近い感情が体の隅々に行き渡り、手足の先からこぼれ落ちて部屋と溶け合う。窓からはやわらかな月明かり(あるいはそれを模したもの)が差し込み、ベッドや洗面台など部屋に備えつけられたものが床に影を落としている。


 ナオミはドアの横の棚に、トレーにのせられた青い錠剤が二つ置いてあることに気づいた。

 一錠でいい気分、二錠ですっきり! 調査員の女が言ったあのうたい文句が彼女の頭に浮かんだ。

 ナオミは少しもためらうことなく二錠まとめて口に入れ、横に置いてあったコップの水でそれを一気に飲み込んだ。これですぐに眠りにつき、明日目を覚ましたら、なにか恐ろしい夢を見たような感覚は残るかもしれないが、今日起こった罪と死にまつわる出来事はすべて忘れ、いつもと同じ朝を迎えることができる。


 そのとき、ナオミはふと思った。


 ――もしかすると私は、今日と同じような一日を毎日送っているのかもしれない。


 だがナオミにとって、そんなことはもうどうでもよかった。がらくたのような過去の破片や、どこにもない未来の安らぎを探しまわる必要なんてない。彼女にとっては今この瞬間だけが意味あるものなのだ。


 ナオミはいつのまにか自分が笑っていることに気づいた。


 ――仮に同じ一日を繰り返すのだとしても、こうして笑顔で終われるのなら最高ね。


 ベッドに横になり毛布をかぶると、ナオミは大きなあくびをした。錠剤の効果はてきめんで、眠りと忘却はすぐ目の前までやってきて彼女を手招きしている。


 波にさらわれるように薄れていく意識のなか、ナオミがひとつだけ心配していたのは、いつか訪れるかもしれない“そのとき”に、今よりもっと年老いてあの階段をのぼりきることができないのではないかということだった。


〈完〉

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ナオミはそのときを待っている 〜進歩的国家と謎の部屋〜 多花居 @iakat

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