内藤新宿懸想内外(ないとうしんじゅくけそうのうちそと)

宇崎弥生

前編 新宿・名刺

 旧幕時代にはねえ、御用聞きってのがいましたんでさ。関八州では目明かし、上方じゃあ手先なんていいますがね。岡っ引ってえ方が通りがいいやもしれやせん。あんまり聞こえのいい呼び方じゃあござんせんが。公には小者ってことになっておりやした。お嬢様方がお持ちの雑貨品じゃあござんせんよ、お武家様に雇われの身分でね、そういうのがありやしたんで。忌々しい中間どもより身分は下で威張れたもんじゃあござんせんが、日蔭者ってわけでもねえんです。どうも、御一新の後は巡査方が偉くなっちまってねえ……町衆に石を投げられただ、ご公儀が岡っ引を禁止しただとか何とか……ええ、そういうのはあたしらみたい者じゃあござんせん。ありゃ犬って奴でね。小悪党を見逃す代わりに仲間を売らせたんですが、元が悪人だ、つけあがって色々悪さをしたもんです。こちらは十手を預かる身でね、素っ堅気たァいいやせんが、お天道様に背を向けるようなこたァしねえんでさ。ああいうのと一緒くたにされたんじゃあ浮かばれませんや。何ですね、偉ぇ先生でも見聞きしてねぇもんってな分からねぇもんですかね。

 ああ、あっしの愚痴を聞きに来たんじゃない、それァ道理だ。へへ、どうも湿っぽくっていけやせんね。劫を経るってぇと気が陰に籠もるもんなんでしょうなァ。それで、何がお聞きになりてぇんで。不思議の話。へええ、珍しいご趣向もあったもんですなァ。さりとて不思議の話と仰ってもねえ、世の中に道理の通らぬことは幾らもございますが、不思議という程のことは今生でお目にかかった試しがねェや……。

 ああ、一つ、こいつはつまらねェ話なんだが、あの頃は世に怪事ありと騒がれたもんです。暇だったんでしょうなァ……貧乏暇なしといいやすが、それでも退屈はしやすやね。

 そいじゃ一つ暑気払いにお付き合い願いましょうかね。外題に曰く、内藤新宿懸想内外ってなどうです。おっと、上手くねェのは勘弁して下さいよ、こちとら素人なんだから……。


 享保九甲辰年七月一七日。

 かつて四宿と謳われた内藤新宿の町は閑散としていた。宿場町は街道沿いに店が並び、帯のように発展していく。四谷大木戸から高井戸宿まで四里あまりの甲州街道、延して延せない距離ではないが、荷駄や足弱にはやや遠い。これを二里と二里とで分かつのが、元禄十年内藤駿河守が下屋敷を返上して築かれた内藤新宿、飯盛りを置いて大いに栄えた。ところが八代将軍吉宗公は風俗の紊れを憂いて岡場所をお取り潰しになり、一頃は私娼五百を数えた内藤新宿も廃駅となった。再開の嘆願は何度も出たがお取り上げにならず、この頃の寂れ具合には言い様もなかった。二階を取り払われた旅籠の跡も痛々しく、行き交う旅人もどこか足早に見えた。

 さて、宿場の開設に与って力のあった元〆拾人衆の飯田忠右衛門の累代、大店は浅草にあって栄えていたが、その頃も内藤新宿に出店を置いて唐物等を商っていた。商売になるものでもないが、宿場の公許が降りたとき出店もなかれば顔もなかろうという算段である。

 その年は閏月が入ったので七月といっても秋の声が幾分かは近づいていたが、それでも残暑は厳しく、街道筋は真っ白な太陽に照らされてぎらぎらと照っていた。飯田屋の出店は修行を兼ねて二十歳そこらの若旦那が取り仕切っていたが、このところかかっている東国周りの芝居一座に熱をあげて、今日は早くから芝居見物に出かけている。さして客の出入りもない、番頭格も育っていない出店では、小僧や丁稚の雰囲気はどうしたって弛緩する。ただ暑いには暑いので、小僧が打ち水をやっていたところ、「申し……」と小さくか細い声で呼びかける者がある。振り返ってみると、目にも鮮やかな杜若の小袖、絽の被衣で頭を覆っている。これはたしかに武家のお姫様と思しいが、不審なことに供の者が見当たらない。白昼の街道とはいえ、武家の女が一人で出歩くなど考えもつかない時代であった。

「へえ、何用でございましょうか」

 答えた小僧の声は、どことはなしに上ずっていた。被衣の間からは抜けるような白く滑らかな肌が覗き、焚きしめた香の薫りが鼻をくすぐる。在所から奉公に出て来たばかりの小僧には些か刺激が強すぎるようであった。

「こちらの若旦那にお目通りを……」

 武家の女は最後まで喋らねえんだな、と小僧は飲み込んだ。

「お気の毒様でございますが、当家の者は朝より出ておりまして、へえ、お戻りは暮れ六ツかそこらと聞いております」

 女はふと考える仕草を見せた。まだ天龍寺は九ツの鐘も鳴らしていない。ふと懐紙を取り出すと、矢立でさらさらと何事かを書き付けてくるりとひねり、小僧に差し出した。

「こちらを若旦那に……」

「へ、へえ、承りました。あのう、失礼は承知で御座いますが、いずれの御家中でございましょう……」

 それには答えずに、女は大木戸の方に歩き出した。後ろ姿に見蕩れていた小僧も、結び文への好奇心には耐えられない。そうっと開いてたおやかな女文字を見ると意味の分からぬことが書いてある。謎にかけられたかと目を上げると──

 そこに女はいなかった。

 内藤追分からこちら、街道筋には脇道もなく、しばらく行かねば路地もない。女の足ならついとすぐ目鼻の先にいないといけない道理の女が丸々一人、瞬きの一つ二つの間に消えてしまった。


 暮六つを回った頃、その辺の小料理屋で出来あがったらしく紅い顔をして若旦那は帰って来た。こういうと遊び人のようだが、出店にしては算盤は堅実な方である。

「若旦那、お疲れのところ申し訳ありませんが、ちょいとこちらに来て下さい」

 声をかけたのは番頭格の幸助である。年の頃は三十を少し過ぎたところ、別に書体を持った通いの番頭で、分別盛りの飽くまで堅いところが大旦那に気に入られて、出店に送り込まれている。いうまでもなく若旦那の指南お目付が大役で、大旦那が隠居のときには、若旦那を呼び帰すかわりに幸助が出店一軒を任される約束になっているという。

 ついと使用人部屋にいくと、薄暗い板間で小僧が一人縮こまっている。昼前に武家の女から結び文を預ったあの小僧である。

「こりゃ、若旦那がお戻りだ、文とやらをお渡ししなさい」

 幸助がいうと、小僧の利松はたもとから湿気た結び文を出して渡した。ずっと握りしめていたようだ。

「なんでも直に若旦那に渡すって聞かないんですよ。私も随分叱ったんですがね、若旦那からもお願いします」

「そういわれても──」若旦那は小鬢をかいた。「今戻って来ての話だからね。話が飲み込めやしない。利松、何があったんだい」

 利松は、昼前に見た不思議の女の話をした。幸助がひっぱたこうとするのを、何度か若旦那が止めた。

「追いかけてでもお名前をお聞きするところ、こいつの不心得で御得意を駄目にしたんじゃ大旦那に会わせる顔がありませんや。若いのは瘤の一つや二つ作って礼儀を覚えるもんです」

「そうはいっても、初見の客だというじゃあないか。お出入りさせて頂いているお屋敷のお姫様なら、供もつけずに突っ立ってるのがおかしいや」

「それだけじゃあねえんですよ。あたしが文にこう……ほんの瞬き一つか二つの間目を落とした隙に、霞のように消えてなくなっちまったんです」

「それァお前の見間違いだろう。目をそらした時に角を曲がりゃあそういう風にも見えるよ」

「ここいらに路地がねえのは若旦那だってご存知でしょう。それに、そこの角柱のつい横ン所に立ってたんですぜ。次の角は松平様だ、男の足で走ったって見逃しやしませんよ」

「やけに怪談じみて来たじゃあないか。まあ、その文ってのを見てみようよ」

 と若旦那が文を開くと、水茎のあと鮮やかに「半之丞」とのみ書きつけてあった。


 飯田屋に、白昼、武家の姫君が一人で訪れたこと、霞のように消え失せたこと、文ならぬ男名前の名刺を差し入れてその後の音信もなかったこと、これは話題に飢えた内藤新宿の町をしばらく湧かせたものです。物見高い瓦版屋が想像たくましく色々に姫君を描きたてたものですが、飯田屋の大旦那としては面白くない。ただでさえ、内藤新宿の再開のためご幕閣と協議を重ねているわけです。家内不取締といわれちゃたまらないので手を尽くしてその姫君だかを探したが見つからない。それはそうです。小僧は顔をほとんど見ておらず、触れば折れなんたおやかな美女の残した水茎の跡鮮やかな「半之丞」。こいつは普通に男名前ですからね。どうも何もかもが食い違っていました。そうこうするうちに若旦那がフイッと見えなくなって、ええ、小僧や丁稚は女幽霊に憑り殺されたなんぞと騒いでおりましたが、大旦那はさすがに落ち着いたもんでね。そこで出入りのあたしが呼ばれたわけです。こういうときのために、ええ、季節の挨拶は欠かさねえお方でした。


 ねえ、ちょいと不思議じゃねえですかい。いや、あっしはサゲまで知ってやすからね、不思議な話といわれてもピンとは来なかったんですが、ここで切ればどうにか怪談や何かに翻案できそうじゃあないですか。ね、これで書くネタが見つかったんだ。よかったじゃねえですか。じゃあ、その、もうちっとその般若湯を……。ええ、ああ、うまいね。おいしいね。色んなことをいう奴がありやすが、酒ってのは近年の方がよく出来てやすよ。旧幕時代の酒も懐かしいが、こいつに比べちゃどぶろくみてえなもんですよ。まあ、その頃のあっしの稼ぎじゃあどぶろくくれえしか飲めなかったんで、こいつは旦那の功徳かねえ。


 ……ええ?続きを聞きたい?

 怪談ならここで切っちまった方がいいでしょう。あっしは後を聞いて嫌ンなっちゃったんだから。ちょいと尻切れトンボだが、その辺は戯作者の先生の腕ってもんで何やら付け足しておいて頂いて、この恨み七代までも祟り申してくりゃろうか……なんて。はあ。単に知りたい。好奇心は猫を殺すってやつですな、最近覚えたんですよ。まあ、死ぬのは「話」だから気遣いはいらねえか。

 飛んだ話なんですが……っといけねえ、明け烏が鳴いてやすぜ。旦那はお勤めなんでしょう。いやいやいやいやいや、どうせあっしはすることもねえんでね、今夜もお待ちしておりますよ。消えやしませんって、雪の溶け残りじゃねえんだから。

 そいじゃあ、お気をつけて。ね、身軽だったら御酒を忘れねえで下せえよ、こちとらこれくらいしか楽しみがないんだから。いやどうも、人の世はいつも世知辛いねえ……。

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内藤新宿懸想内外(ないとうしんじゅくけそうのうちそと) 宇崎弥生 @moismoismois

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