なぜジャガイモで揉める?

ジャガイモ、ある国では根菜、ある国では主食、野菜でありながらデンプンを多く含む重要な作物。

煮てよし、焼いてよし、揚げてよし、潰してよし、保存が効き、洋食を始めとした料理に広く使用され、馴染み深い食材である。


だが、このジャガイモは古くから使われ続けてきた作物なのかというと、そうでもない。

南アメリカ大陸が原産で、大航海時代にヨーロッパに伝わり、全世界に伝播していくのもここ四五百年の話。


故に中世ヨーロッパにジャガイモは存在しない。

それは紛うことなき事実である。


植物の南北への伝播は難しい。

緯度が変われば気候が変わる。

よって、緯度が離れるほど、植物の伝播が難しくなる......人による移動が関わっていなければ。


我々の歴史では、ジャガイモがヨーロッパ大陸に伝えられたのは16世紀ごろの話だ。

では、歴史が違えばどうなる?


船を通して、ヨーロッパ大陸に伝えられたジャガイモが、他の伝播経路を考えられないのだろうか?



赤毛のエイリークを初めとしたノース人は、十世紀にグリーンランドに到達し、その子孫が北アメリカに拠点を築いたとされている。

もし、ノース人は何らかの理由でアメリカ東海岸を沿って南下したら?

もし、十世紀ごろに南米に存在していた王国が中米、北米に手を伸ばしていたら?



オーストロネシア人の航海技術は発達していた。彼らは航路を歌にし、後世に伝い、拡散途中の島々にも連絡を取り合っていたとされている。

一部の学者は、彼らの歌に、南アメリカと思しき陸地が伝えられていると考えている。

もし、オーストロネシア人の拡散がもっと早かったら?

もし、オーストロネシア人が種芋を持ってマダガスカルに渡ったら?



コロンブスは百トン級の船3隻で1492年にアメリカ大陸(の島)に上陸した。

その六十年前に、鄭和は最大の船が数千トンの大船、百隻以上の船団でインド洋を越えて、メッカ辺りまで到達したとされている。

もし、明王朝が航海に興味を持ち続けていたら?

もし、明王朝がアメリカ植民に乗り出したら?


これで別の何らかの形でジャガイモが伝播する可能性を何個かか出来上がり、どれも歴史改変ものが書けそうなお題だろう。


だが、これらはあくまでも「我々の歴史」の話だ。


史実の中世ヨーロッパを舞台とした歴史小説なら、ジャガイモの存在が及ぼす影響を論じる必要はあるだろう。

いつ、どこ、なぜジャガイモが中世ヨーロッパに存在するかは、歴史と強く結び付けられるているからだ。


だが、歴史が大きく異なる世界、現実にない要素が交わる世界、そもそも起源すら違っていた世界。

これらの世界を語る上で、イモ一つの有り無しで揉める必要は果たしてあるのだろうか?



ローマがカルタゴを吸収し、「内なる海」を手に入れたあと、大西洋という「外なる海」を征く世界。


幻想の生き物が空を駆け、千キロ離れていても一日足らずで届く世界。


地球にない植生、動物さえ生息する世界。



これらの世界にジャガイモが存在することは一体、何の妨げになるのだろうか?


もし、中世を匂わせた世界観であれば、中世にないものがあってはならないというのなら、ジャガイモはおろか、トイレすらあってはならないことになる。

路上が糞尿まみれでネズミが横行し、ペストが猛威を振るう世界での冒険はさぞや心が躍るものであろうな。


......いや、需要がありそうなのは別に否定しないが。




そも、ドラゴンが空飛ぶ世界で、「ジャガイモが存在すべきではない」と主張して何になる?

史実にないものが登場してはいけないのであれば、中世風世界観で書けるものは精々ファンタジー要素抜きの騎士道物語ぐらいだろう。

もしや、妖精と魔法抜きのアーサー王物語をご所望で?


......それはそれで興味深いものだが、そういう話ではない。




ならば、モチーフとなった時代背景にないものとどう向き合うべきか?


こういった要素一つにも真摯に向き合うのであれば、筆者が思うに、ものの存在ではなく、その影響にこそ目を向けるべきではないだろうか?


ジャガイモが存在していれば、小麦の重要性が違っていたかもしれない。

小麦の重要性が違っていたのであれば、適当に麦束を抜き取って税とする徴税方式は出来なくなるかもしれない。

ジャガイモが小麦の重要性に影響を与えたのなら、食料源が分散され、飢饉の発生と影響が違うかもしれない。

飢饉の発生と影響が違っていれば、反乱の事由と規模に影響を出しかねない。


ジャガイモが存在する世界で、ジャガイモ自体に注目するよりも、その影響に注目した方が、世界観がより立体的に見えるのではないだろうか?


筆者が思うに、他の設定も同様。設定自体よりも、「こうだったらどうなる?」を注目すべきのではないだろうか?



一神教の教会ではなく、多神教の神殿が乱立していたらどうなるのだろうか?


多神教の神殿が乱立し、史実のようなカトリック教会が存在しなかったら、民族、文化の垣根を越えて、特定の教義や思想を広める組織が出来にくいかもしれない。

宗教組織の規模が小さい分、領主などの統治者に影響力を発揮しにくいかもしれない。

特定の教義や思想を広めにくく、宗教組織が統治者に影響力を発揮しにくいなら、一夫一妻制が広めることもないかもしれない。


配偶者の多さは力に直結していた。

そして、前にも言ったように、ヨーロッパでそれを一夫一妻に押しとどめたのが、他ならぬカトリック教会だった。

故に、中世ヨーロッパをモチーフにした世界観で宗教組織を変え、神殿が乱立する多神教にすると、婚姻制度にも影響を与える可能性があった。




ただ、モチーフとなった時代背景にないものが及ぼし得る影響は実に多岐にわたり、その全てに気を配ることは難しいし、万人が納得する答えも出しにくい。

それに、矛盾の解消は必ずしも面白さを増すわけでは決してない。


故に、筆者が思うに、その手の問題は重大な矛盾が無い限り、ある程度無視してもいいと思っている。


例えば、ドラゴンが実在し、戦争でドラゴンが猛威を振るう世界を仮定しよう。

そんな世界で、ドラゴンは飼いならせる設定でもいいし、飼いならせないでもいい。

国力がドラゴンの質と数に左右されてもいいし、ドラゴンが予算を圧迫してもいい。

ドラゴンが力の象徴になってもいいし、恐怖の代名詞になっても構わない。


だが、ドラゴンに対抗する努力の痕跡が見られないと、重大な矛盾が生じることになる。

「戦争で猛威を振るう巨大な脅威なのに、対抗策を考えない。」ことになるからだ。


その対抗策の成否は別に構わないし、対策の形も問わなくてもいいだろう。

対空の大型儀式魔法でもいいし、バリスタが対空に転用されてもいい、軍隊は密集陣形を組まなくなるのもいい、何なら空からの脅威に対する避難方法やおまじないでも別に構わない。

だが、十分な理由なしにその対抗策、その努力がないと、世界が、概念が破綻しかねない。


人は試すもの。

その成否は偶然であったり、運であったり、きっかけあっての物だったりする。

しかし、物がそこにあれば、人は考え、試し、使おうとする。

筆者は、それこそが矛盾を消し、人を生き生きとする鍵であると考えている。

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