貴族と宗教とナーロッパ その在り方と力関係の働き

ファンタジーでよく登場する「貴族」。

現実のヨーロッパだけでも様々な形態、爵位があるも、その殆どが人の上に立ち、権力を有する者たち。



さて、中世ヨーロッパの貴族を貴族たらしめるものは一体なんだろうか?


権力?それは貴族が優位に立って得られた結果に過ぎない。

血統?それは貴族位を独占し続ける為の言い訳に過ぎない。

名誉と伝統?それは優位に立って資源を独占した余裕によってその価値を誇示する為のものに過ぎない。


暴論ではあるが、権力血統などの言い訳と一神教的な論理が合わさり出来上がったのは、農奴が産まれた集落から一生離れられない、土地も農奴自身も領主に隷属し、宗教が領主の権威の後ろ盾になり、領主と共に民から血を啜る教会と、中世中期までが普遍的である荘園制度と農奴制だ。


まぁ、領主が教会の司教だったりするが。


それに、その領主が農奴たちを守る思考もまた、羊飼いが羊を守る程度のものだった。

自分が所有するもの、自分に隷属するもの、それらが脅かされたから、脅かすものを払うことに過ぎない。

ちょっと卑怯な言い方だが、自分が領有する村が異教徒を隠していれば、村ごと異教徒を焼き払ってもさほど問題にならないくらいの意識だから、ぶっちゃけ家畜みたいな扱いだ。


村を焼けば自分が食うもんに困るなら焼かないかもしれないがな。


みんなが大好きな「ノブレス・オブリージュ」という言葉もまた、十九世紀で登場したものである。

中世ヨーロッパで、封建制と言える所の封建領主の義務と言えば、ざっくり言うと臣下を守る義務と、主君に忠誠を誓い軍役をこなすことの二つとなる。

だが中世ヨーロッパにおけるその義務と忠誠を誓うことはアジアのそれとは大きく異なる。


封建領主の領地は国のようなもので、領主はその領地の王みたいなものだ。

それもその筈、王制ではなく封建制だから、自分の主君以外に忠誠を誓う必要は一切ない。「臣下の臣下は臣下でない」はまさにそのことだ。


そしてヨーロッパの封建制はギブアンドテイクな関係で、主君に忠誠を誓う前提は、臣下が主君に守られていることにある。そういう契約関係だ。


故に、向こうが契約に反すれば当然こっちも契約を守る必要はない、主君に守られていなければ、反旗を翻して当然であり、典型的なヨーロッパ封建制の神聖ローマ帝国はまさにそれだ。

同格の貴族が争えば戦いになり、主君が臣下を害すれば戦いになり、臣下が主君に反意を見せれば戦いになる。

だから、封建領主は軍役をこなし、身を守る為の力を求められる。要は、軍事力だ。


そして、中世ヨーロッパにおける爵位というのは、基本領地あってのものだ。

つまり、爵位を持つ貴族は基本封建領主である。

故に、領主たる貴族たちが人の上に立ち続ける為に必要とされているものは、軍事力だ。


農奴の反乱、近隣貴族との紛争、敵の侵攻、これらの面倒事を解決する手段はもちろん色々存在するのだが、最も直接的で分かりやすい解決法は軍事力であり、自分の領地を敵と異教徒の手から守る為に必要不可欠なのもまた、軍事力だ。


主君は軍役をこなせる故に臣下を臣下として収め、臣下は軍役をこなし身を守るために武力を保ち続ける。

故に、貴族を貴族たらしめるものは、力であり、軍事力である。なのだが...。



史実通りの封建社会を描きたくば、尚武で、軍事力を至上とし、事あるごとに戦争に発展する貴族を描いてもいいだろう。


だが、日本の創作におけるヨーロッパ風の世界観において、貴族の在り方は往々にしてそれと大きく異なるものだ。


王権が強かったり、王は爵位を簡単に剝奪出来たり、領主同士は簡単に戦端を開かなかったり、まともな貴族は平民に優しく振る舞って当然のように思えたり。


少なくとも、日本のファンタジーにおける貴族や騎士に対して、史実の封建社会もの以上の貴族像、騎士像を求めるだろう。




力だけを振るい、現代から見て忠誠と呼べるかも怪しい封建義務だけの関係を脱し、貴族をファンタジーに相応しい形にするにはどうすればいいのか?

世界観にもよるが、貴族の在り方に現代日本ファンタジーに適した要素を加えるというのが一般的であり、妥当な方法だろう。

領民に対する義務を加えたり、誇りをより重要な要素にしたり、やりようはいくらでもあろう。

言わばよくナーロッパと揶揄される世界観が正にそれを実践した産物だ。


筆者は別にナーロッパ自体が問題だと思っていない、むしろ世界の形と在り方を変えてこそのファンタジーだと思っているぐらいに、作品中の社会構造を変える事を支持している。

ならば一体何が問題だったのか?


何らかの要素を世界観に入れれば、当然何かが変わる。

剣と魔法を入れれば世界の法則が変わり、力関係が変わる。

剣と魔法のように、何かの要素を貴族の在り方に入れれば社会構造が変わり、貴族の行動基準が変わる。


だが、何かの要素を削減、追加したりしたければ、その要素が存在する理由も考えなければならない。

そして。貴族と社会構造を変える過程で生じ得る矛盾も考えておく必要がある。


貴族に伝統を重視させるなら歴史を無視できなくなるだろう、なぜなら守るべき伝統とその由来を重視する貴族が安易に捨てるとは思えないから。

貴族に才学を重視させるなら、独占しようが広めようが、その貴族たちは知識の伝承と教育に力を入れ、それを阻む障害を排除しに動くだろう、何せ特権階級が才学を重視すべきだと思うっているから。


作品独自の世界観との矛盾は一つずつ見ていかないと分からないが、筆者は現存するナーロッパような日本のファンタジー作品が描きそうな中世ヨーロッパ風の世界観に寄せた事で生じる矛盾を避ける有効的な手段を一つ提唱したい、「教会を消そう」。


正確には「中世ヨーロッパに存在したカトリックのような在り方をする一神教の教会組織を消そう」。


もう大体消しているじゃないかって言われそうだが、それはあくまでも宗教問題を避けるなり、作品独自の世界観と神話を展開するためなり、計らずとも達成されただけに過ぎない。

一度は消したのに、似たような在り方をした宗教、教会組織を作ったら問題も自ずと再発してしまう。


どんな事が問題になるかを一個一個列挙すればキリがないし、筆者もキリスト教研究の専門家ではないので、漏れは必ず存在するし、細かい設定を小説の本編に出すかも作者の作風と客層によって変わる。

故に、筆者はここでナーロッパような世界観を目標に設定を練るときに、社会構造上発生しうる大きな問題点をざっくり整理するだけにとどまる。




まず、多くのナーロッパと呼べる作品では、中世ヨーロッパに比べて、王権の強い王制と思われる政治形態が多いが、このような王制の特徴の一つに、「王の権威は貴族の領地に及ぶ」がある。

封建制ならば、王はあくまでも貴族の主君であり、その権威は貴族の配下と領地に及ぶことは基本ない。

領地の王は貴族であり、王は権威を振りかざしたければ王領に帰ってからってことだ。


対して王制は王権の強さによって変わったりするが、基本国中は国王を王とし、国全土に王の権威が及ぶ。

この状態で中世ヨーロッパ教会の何が問題になるのかというと、一番に挙げられるのは神聖ローマ帝国を中心とした中世ヨーロッパでは、司教は領主になれる事にある。


封建制であれば、主君の臣下は領主たちであり、領主たちが主君に封建の義務を果たしているかが肝心なところである、領地自体はさほど問題ではない。

故に、教会の司教が領主になってもあまり問題にならないし、宗教的権威の後押しが欲しい者にとってはむしろ、司教領主が存在すること自体は歓迎すべきことだろう。

実際、神聖ローマ帝国の選帝侯に大司教が三人もいたわけだ。


だが、王制だとどうなる?

王は臣下である封建領主のみならず、その領地にも権威が及ぶ。その状況下で教会に属する司教領主が存在するとどうなる?

世俗的権威の頂点の王が土地を支配するのに、宗教的権威の頂点に従う司教が領主になる。

教会に属する司教が領主ならば当然、その統治に宗教が色濃くなることは避けられない。だが同時に、王国の地は王国の法のもとに統治されなければならない。


国と教会の関係性が良ければ特区とかを作るなり妥協することもできるだろう。

だがもしその関係にひびが入ってしまえば、その司教領は世俗的権威と宗教的権威が競い合う場所と化すだろう。

そして司教領が王に靡かない場合、王の権威在り処に疑問を呈する余地も出てくるため、王権の強い王にとって不都合なことこの上ないだろう。


おまけに、実は司教領だけでなく、教会に属する騎士団も資産として領地をもらい、その税金を騎士団の資金としたり、ただの修道院が周辺を領地に収めたりする。

このように、中世ヨーロッパと同じあり方の教会組織が絶対王政を主流とするの世界観に存在すると、領地問題が混乱を極まり、王の権威は不安定になりやすいため、王制を背景とする社会構造とは相性が悪いだろう。




次に、貴族は人の上に立ち、政を為す者である。故に、多くの作品では、貴族が優越していることを表すために、よく貴族の教育が優れていることを強調している。

確かに、資源を多く有していれば教育に投入できる資源も多くなるだろうし、統治を行う以上、一般人では触れられない知識もあるだろう。

だが、その貴族の教育は果たして現代的な観点から見て、優れていると言えるのだろうか?

中世ヨーロッパ、特に中世中期以前の知識と教育とはなんだったのだろうか。

それは中世ヨーロッパの文字がどう使われるかを見れば垣間見えるだろう。


平たく言えば、中世ヨーロッパの文字、教育、知識は「神のためにある」ものだ。

聖書の翻訳は禁じられ、ラテン語で読むことのみが許された。

書物は貴重であり、そして聖書を中心とした書物は基本ラテン語であり、中世初期からラテン語が読める修道士が集う修道院が写本を製作する学問の中心となり、それは大学がその役を担う中世中期まで続いた。

大学では神学が基礎にして最重要な学問とされるし、他の学問は神学に付随する立場にあった。

殆どの平民は文字を読めない、もしくは喋っている言語にそもそも文字が存在しなかったため、学問に触れること自体が極めて難しい。


つまり、中世中期までのヨーロッパでは、知識は教会が握っているし、その知識も神学と神を中心とするものだった。

この場合、「学識に富む者」の評価基準も自ずと現代と異なるものになる。


現代が想像する博識な良い統治者は凡そ幅広い知識と教養を身につけ、その知識と教養を基にあらゆる事態を前に理にかなった方針を立て、適切な命令を下せる者を思い浮かべそうだ。

しかし中世ヨーロッパだとどうなるだろうか?

神学は基本にして至高の学問、故に、博識な者は聖書を熟読し、状況に応じて聖書から適切な言葉を引用出来る者になる。

そして博識な良い統治者はその聖書の言葉を引用し、取るべき行動を他者に伝え、事あるごとに聖書の言葉を使い、理由着けができる者になるだろう。



学識の概念が違えばこれも仕方ないだろう。

そんな環境で、もし神学そっちのけで論理的に学問を究める学者が居たものなら、異端扱いされて火刑に掛けられるのが落ちだろう。




そして、王だろうと、貴族だろうと、豪商だろうと、それらは総じて一般人に比べて富と権力を持つ者である。

常人に持ち得ぬものを持つのを彼らの富と権力の象徴として使い、強調する手法もよく用いられる。

その中で、側室を取ることも、その象徴の代表格の一つと言えるだろう。


だが、側室を取り、愛人を囲う横暴な貴族という想像と異なり、そもそも中世ヨーロッパでは、側室はほぼ存在しなかった。

隠れて愛人を囲うことがあっても、表立って側室を取ることは基本ない。


中世ヨーロッパは徹底的な一夫一妻制を取っている。その理由は簡単で、教会が一夫多妻制を禁止したからだ。

それも別に教義がそうだったからではない。

聖書に一夫多妻は普通に出てくるし、同じくアブラハム宗教のユダヤ教もイスラム教も一夫多妻を罪とはしなかった。

聖書とも教義とも関係しない教えでも、このような効果が発揮する、それほど中世ヨーロッパにおける教会の影響は絶大だった。


故に、側室を取ることがあったとしても、教会の影響力が弱いアイルランドみたいな辺境か、そもそも異教の地かぐらいだ。



ここまで読んでいただけるとわかると思いうが、歴史に詳しくない現代人が一般的に思い浮かべる王と貴族が存在する社会構造を作る上で、教会の存在はすこぶる邪魔だ。


王制にしたいのに、王の権威が宗教的権威に屈するかもしれない。

貴族に教養を持たせたいのに、現代的な教養とあまりにも離れているし、そもそも学問に触れられるかも怪しい。

側室を持たせ、富と権力の象徴を持たせたいのに、教会が許さない。



ならば消そうではないか。

王の権威を国中に及ばせるために、教会を消そう。

貴族に教養を持たせ、知恵と知略で事を運ばせるために、教会を消そう。

人の上に立つ者に側室を持たせ、富と権力を振りかざしてもらえるために、教会を消そう。



そも、ファンタジー作品が背景と似たような時代の歴史を模倣する必要はどこにあっただろうか?

ノンフィクションでもあるまい、中世ヨーロッパの価値観は我々が受け入れられぬものなら、それを変えればいい。

作品に都合が悪い制度が存在したのなら、その制度を消せばいい。


ファンタジー作品が歴史を参照する理由は、あくまでも合理性を保つ為の分かりやすい物差しに過ぎない。

何せ実際に起こった事だからだ。

だが、その合理性も設定によっては簡単に崩れ去り、結局合理性を保つために史実とかけ離れたものにする必要が出てくる。


ワイバーンとドラゴンから町を守る必要があったらパリスタを対空に転用しないわけがないし、軍の編成も攻城兵器の役割も変わる。

魔法で隠形できるものなら、それを暗殺に使う奴が現れないわけがないし、魔法の性質と魔法が普遍的であるかによっては、王侯貴族が取る対策も自ずと変わるだろう。

それは社会構造も同じことで、何かが変われば、それに関連するものの合理性を保つために調整しなければならない。


教会に関しては日本のファンタジー作品がよく描く世界観との相性があまりにも悪い故に、消した方が早いだけの話だ。




別にそういう宗教を描きたい、消したくないなら、消さなければいい。

影響力の強い教会というものを扱う際には、細心な注意が必要であるなだけで、存在してはいけないわけではない。

筆者が提唱するのは現代の価値観と中世ヨーロッパへの想像に合致させる上で、社会構造の矛盾を解消する便利なやり方なだけで、万能な手法ではない。


そもそも教会を消すこと自体が中世ヨーロッパ風というイメージを損なっているわけだ。

別に古代ギリシャのような多神教で、神殿が乱立するのも西洋風と言えるが、中世かと言われると首を傾げざるを得ないから、良し悪しだ。



ただ、中世風ファンタジーの設定上の矛盾は解消できるか、できるならどうやって解消するか、解消した方がメリットになるのかを考えた時に、教会の存在とあり方を検討することを思い浮かべて欲しい。

そして思い出してほしい:「突き詰めれば、中世ヨーロッパの社会構造を形作る鍵はカトリック教会である」と言えることを。

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元eスポーツ選手の軍オタ台湾人がファンタジーについて語る コリン @colin831120

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