水のうつわ
庭守透子
水のうつわ
喫茶店から出てすぐに「川見に行かない?」ってさむに言われたとき、海じゃないんだと思った。でもわたしは川辺にいる鴨がすきだからいいよと言うと、さむはすぐに列車の時刻表を見た。高校生だったらきっと自転車とばして向かうんだろうな。時は金なり、どちらを取るかなんて今のわたしたちは迷うことすらなくて、お金を使って時間を優先する。あの頃から変わらない背丈とすこしふっくらしたからだになったわたしは、あの頃と変わらず冬の風で踊れる。
「行きたい川があんだよね」
「豪華な散歩じゃん。まかり通ろっと」
「車出しとけばよかったな」
「夜、飲むんでしょ」
「そうだった」
それで飲むという単語で思い出したかのようにはっとわたしのほうを向く。
「そういえば、水分とったか?」
「とってない」
「とれ! おまえの水分係、カイさんから任されてんだから」
「カイさんママじゃん」
「ママから任せられてんのよ。はよ飲みな」
鞄に入れていたペットボトルの蓋をしぶしぶ取る。下唇に飲み口を置いて、水を流し込む。かわいていないのどを事務的にさっと潤す。
水が歯に、歯茎に触れてやがてさざなむように滲みわたって潤う感触、口に集まる神経、口の中で溺れているみたいで苦手だった。だから朝に口をゆすぐのがきらいだ。菌が口内で繁殖してるから、起きてすぐにゆすがないと虫歯になるよと幼い頃から言われ続けて、きっとそれはほんとうなのだろうけど、わたしはゆすげなかった。むしろ菌がわたしをまもってくれるに違いない。そんなふうに思って、むしろ汚れを大事にして生きていくことにした。わたしのからだの汚れは、わたしの隣人だった。それは恥ずべきことではないと思っているが、ひけらかすものでもないことを知っていたから、誰にも言うことはなかった。結局虫歯にはなったが、別につらくはなかった。
「飲んだ」
「よし」
人の手に収まるようにつくられた飲料水はこじんまりとしていた。未知で手中には留まらないこれらを支配している、と錯覚できる。じぶんが思うよりずっとずっと怖いものを。
そうか。わたしは水が怖い。体内に入れるのが、混ざるのが嫌なのかもしれない。
「ちょうど十三分後に汽車来そう」
「ちょうどいいし、お手洗い行ってくる」
「どっち?」
最寄駅にはトイレが二つある。外にある公衆トイレか、駅舎内にあるトイレか。
「なか」
切符を改札に通してさむに荷物を任せる。駅舎のほうはトイレの数がふたつしかない。けれどトイレそのものが新しい。
だから人が集まりやすいしたまりやすい。女子高生がふたり、入り口付近の洗面台を塞いでいる。鞄をどんと真ん中に置いて。
幸いトイレは両方とも空いていた。扉が開いたままの広いほうの個室に入って鍵をかけて音姫をながして用を足す。
個室トイレは外に出す場所であり、ひとりになれる場所でもある。あらゆるものから解放されるし、個に戻れる。だから同時にさびしくなる場所である。だから学生のときって連れションするのかな。
トイレの扉を開けても洗面台は空いていなかった。むしろ空間は支配されていて、踏み込む場所すらなかった。強いて、強いて言うなら鏡。鏡だけは冷ややかにかのじょらを写していた。鏡に手を貸してもらって、かのじょらを見る。
左、コンセントに充電器を繋いでスマホを洗面台に置いてチークを塗る女。右、肩で肩までの髪を巻く女。二人の間に言葉はない。ひたすら無言で鏡越しに己を見つめている。もしかしたら赤の他人なのかもしれない。そしてその圧のようなものを察して何も言えないわたし。首を伸ばしてアピールしても、ふたりは微動だにせずやるべきことをやり続ける。空気に飲まれてそのままぺっと吐き出さられるように外に出された気分だった。実際はわたしが手を洗わずに足を動かすことをよしとして、わたしの望むように外に出た。
「遅かったな」
ぱっとスマホから目を離したさむはわたしをしっかりと見る。よかったとすこし安心した。
だからかもしれない。言わなくていいことを言ってしまったのは。
「手、洗えなかった」
はっとしたときには言い終わってて、やらかした。さむは視線をスマホに戻した。
「多目的空いてるし、そこで洗ってきな」
視線がゆっくりと下がっていく。前髪がまぶたみたいだった。髪の長さなんて変わるはずがないのに視線がぼんやりして気づいたら「ごめん」と口が声を発していた。そう言ってわたしは多目的トイレに入る。
手は洗わなかった。手を洗わないまま、「おまたせ」と言って微笑んだ。
電車のなかはお互い無言で、スマホや外を見て過ごした。わたしはわたし自身を守るように拳をつよく握った。体内が濁っていく気がした。汚さが蓄積されているわたしのからだは、思ったよりもちゃんと中身が詰まっていて、それをわたしはよく知っていた。流れない。うまく循環していない。
代わりにといってはなんだがとでも言うように、窓の外の景色が流れるように動く。動いているのは景色でもわたしたちでもない、まぎれもなく汽車なのだけれど、その揺れがどうどうと気持ちを落ち着かせてくれた。
川は駅から十五分ほど歩いたところにあった。川の後ろには廃線になった線路。車の姿はそんなに多くない。なによりも音が少なく、風の鼻歌が聴こえる。おでこが冷える。そんな風に負けず、隣で眼いっぱいに川を眺めるさむがいる。
「風あり、光あり、来たぞ櫛の川ーっ」
人っ子一人いない場所で叫ぶさむを見ることなく、わたしは口元を緩ませる。もうすこし歩いたら汽水域。海も近いし、山も後ろにある。水が集う場所。怖いものが集結してて、一周まわって穏やかな感じ。なにが起きてももうしょうがないって諦められる。
橋を渡って川辺に向かう。すぐ下に大きな川が通っているのを感じる橋の上は、怖い。わたしはなるべく前を、上を向いて歩いていく。さむは橋の隙間から川をのぞいている。アイドルみたいに扱われる川。
だからなのかさむは川面に触れない。川面をただ見ている。いつもは半開きのまぶたがしっかりと開いていた。川面越しにじぶんを見ているようには思えない。波紋とか川の線とか水の流れとかから、別の、ここにはいないなにかを見てる気がして、声をかけちゃだめだと思った。
着込んできた服を通り過ぎる風が肌を撫でる。肌がぎゅっと縮こまってわたしを守る。汚れが付着したままのわたしを、しっかり守ってくれる。
「やっぱ水より、ウォーターって感じするな、川。英語、すげー」
さむの声が空を伝って聞こえる。空から雨が降るのと同じようななごやかさで、つぶやく。
「ウォーターって、図書館なんだよな。あらゆる時代の記憶を持ってて、だから水そのものの記憶はなくてー、あっ違うウォーターだ。ウォーターがあらゆるもののセイの源ってかんじで、……って……」
微笑むさむがわたしを見た途端、表情を変えた。ここにわたしがいることを思い出して、さっと視線を逸らされて途中から隠すように声を縮こませた。
「なんでもない。ごめん」
震えた声で謝られて、隠しごとへたくそなんだってはじめて知った。へらへらした顔で「何言ってんだろ」とか言って笑ってたほうが、きっと曖昧にできたのに。その選択肢すら出てこないくらいさむにとって核心的な言葉だったのだ。
さむはわたしをこわがっていた。だからすぐにわかった。わたしに言うつもりはなかったこと、わたしが思っている以上にさむのなかで川は親しいものであること。川というか水、ウォーターはアイドルじゃないこと。さっきの謝罪の言葉はたぶん川に対して「なんでもない、って言ってごめん」の「ごめん」であってわたしにかけられた言葉ではないこと。最後のはわたしの考えだけど。
わたしとさむの間に沈黙が居座って、なかなか離れない。それは川も一緒だった。川は、ずっとさむの傍で話すように流れていた。
わたしはさむの隣の位置が心地よいと思っている。だからなにか意思表示をしないと、水にとられると思った。ほんのすこしの苛立ちが、なんて言ったらいいのかわからなくて止まる思考を揺さぶって喝を入れる。
「わたしはっ、わたしは相槌がうてるっ」
何言ってんだと思った。撤回というか、仕切り直したい。川というか水と張り合うな。でも、わたしは忘れっぽいし、トイレで手を洗わなかったし、さむのことをよくわかっていない。
「だからさむが話すことをもっと聞かせてほしい!」
でもさむは顔を上げてくれない。
「でもぜってー意味わかんないよ」
顔を膝と腕の隙間に埋めて、さむはか細い声で問いかけてきた。やたらまぶたが開く感じがして、さむをとらえる目に力を入れて「まずは水とウォーターの違いから教えてほしい、よ」と言った。こちらを見てないことを知りながら、わたしはさむのほうをしっかりと見る。くぐもるさむの声に耳を傾ける。
さむの思考の速さにまだ追いつけていないけれど、わたしがゆっくりと実っていくような、栄えていくような感触がした。
いつのまにかさむはこちらをこっそり見ていて、大きな図体なのにコンパクトな三角座りで、それがおかしくて。いつもなにかを大切に握りしめるようにしていた手のうちをからにして、さむに近寄って背中をばしんと叩いて互いに笑い合った。
帰りの汽車でもやはりわたしたちは無言で、けれど行きみたいな重たさはなかった。帰ってきて、さむの行きつけの居酒屋を窓からなかを覗く。
「ん、いけそう」
こっちこいと手招きされる。指先は上に向いていて、なんかやっぱさむって呼ぶだけあるなあと思って笑った。
「らっしゃーせ。おーオサムー」
「ちわ。ふたり、いけますか?」
「どこでもどうぞー」
すみっこの二人席に行こうとしたら隣の四人掛けの席でもいいよと言われてそちらにする。上着を脱いで後ろに掛ける。するとお姉さんがおしぼりを袋から出して待っていた。
「あ、ありがとうございます」
あたたかいおしぼりはわたしの手を潤した。
「あ、おしぼりはもらうんだ」
目の前に座るさむもおしぼりを受け取る。お姉さんが向こうに行ったのと同時に、さむは言う。
「手洗わなかったくせに」
微笑んでいるかのような、でも決してばかにしていなくて、むしろわたしを許しているような、慈しみを注がれているような表情だった。
わたしは返す言葉を見つけることができなくて、沈黙した。バレてたとかどうしようとか、そんなことを考えることはなく、でもなんて返せばいいのかわからなくて、口ごもることもなく、唇を閉じたままひたすらからだのなかを隅々までひたすら探した。
さむも待ってくれた。川を眺めていたときのような表情を向けて、わたしを待ってる。さむの瞳はビー玉みたいに大きくて、黄色の電灯の光を吸い込んでいる。満月みたいだ。月の引力にひかれて持ち上がる海水みたいにいろんな感情が昂る。
かさかさの唇を開けて訴えた。
「のどが、かわいた、から」
そのときのさむの表情といったら。
水のうつわ 庭守透子 @qolop
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