現在.4
「……あれ?」
音と視界がクリアになり、僕は辺りを見渡した。
なんでこんなところに、一人で座り込んでいるんだ?
鼻水が出ていたのか、息を吸い込むとズズ、と音がした。顎や頬も濡れている。眉を寄せながら手の平で顔を拭った。
泣いていたのか? 何で?
すぐそばは切り立った崖で、時おり湿り気のある潮風が吹いてくる。
夕暮れどきのせいか、徐々に薄暗くなる気配がした。
立ち上がると、目の前に厳かな雰囲気を放つ祠が建っている。
ここに……一人で来たのか?
祠を見つめながら、首を捻った。
傾斜のキツい山道を登り、崖に面した階段を上がってここまで辿り着いた。わざわざ怖い思いをしてまで、この場所に来たのだという記憶は確かに残っている。
が、しかし。どう考えてもおかしい。
僕にはこんな場所に一人で来る理由がないのだ。
どうして来たんだっけ……?
「……うーん?」
なんとなく、誰かと一緒だったような気もする。
誰かと二人でこの場所に居たような、そんな気がしてならないのに、それが誰であったのかは全く思い出せない。
「ハァ、帰るか……」
そう独りごちたとき、何かが靴に当たった。拾い上げてその中身を確認する。
「……本?」
黒い表紙の、地味で古びた本だ。
地面に落ちていた割には、表紙が綺麗でどこも汚れていない。
僕は肩から提げた通学鞄を開け、何気なしに拾った本を入れた。
*
「ただいま」
玄関扉を開けた僕を見て、ちょうどリビングから出て来た母さんが驚いたように目を見張る。
「っえ、ちょっと」
僕の格好を見て嫌そうに顔をしかめている。
もうとっくに日が暮れているのだ。遅い時間に帰宅したことと、山道を歩いたときの砂埃やひっつき虫で制服がところどころ汚れているのを見て、嫌がっているのだと思った。
「母さん、遅くなってごめん、これは」
「あなた、誰?」
「……え?」
一瞬何を言われたのか分からずに、我が耳を疑った。
「いったい何のイタズラか知らないけど、さっさと出て行って。ほら、家に帰りなさい。親が心配してるわよ?」
っえ、……え!?
怪訝に眉を寄せながら、僕の母さんである女性は僕の背を押し、無理やり家から追い出した。
「っんとに、大人だったら警察を呼ぶところだわ」
ぶつくさとこぼしながら、母さんは後ろ手で玄関の扉を閉めた。ガチャ、と鍵が鳴る。
「……は?」
どういうことだ?
帰りなさい、もなにも、僕の家はここなんだけど……。
一度門扉を出て、家族の名前が連名で記された表札を確認する。
岩井と書かれた苗字の下に、両親の名である、晴夫と靖子が記され、その下に……。
あれ?
「……僕の名前、"
こんなの、おかしい。いつもここにちゃんと名前が。
「っあ、おい! 悠真!」
多分塾帰りだろう。近所に住む佐藤 悠真が通りかかり、僕は慌ててその背を呼び止めた。
「参ったよ、何の罰か母さんに家追い出されちゃってさ」
「何だよお前、誰だよ??」
「……え」
悠真は警戒心むき出しの顔で僕を拒絶し、早足で家へと駆けていった。
「誰、って」
その瞬間。
"僕"をつくり上げてきた土台そのものが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
《了》
五年前の願掛け【短編】 真辻春妃 @haruhi516
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