最終話 勝利
互いの、詰めた吐息の音だけが校庭に響いた。時間が止まったように、二人とも動かない。
杖の先に宿った鉄片、その小さく鋭い刃を押し当てれば、アイリーネ様の白い肌は裂けてしまうだろう。指先ほどの隙間もないその距離を埋めるのは、どんな魔術よりも速い。
こくりと自分の喉が鳴った音を、どこか遠く自覚する。
魔術師としての私は、これで勝ちだと確信する。魔術を警戒しながら、立会人の宣言を待てばいい。
侍女としての私は、アイリーネ様を傷つけてはならないと緊張する。透き通るような白い肌は芸術品よりも美しい。
どちらでもない、個人としての私は――いっそ刃を当ててしまいたい衝動を覚えていた。
「……は、ぁ」
胸が高鳴る。呼吸が荒い。
私の中の知らない私が、甘い声で嘯く。
”決闘に勝ったところで、アイリーネ様は私のモノにはならない。ならば消えない傷を刻みつけてしまえ”
抗いようのないほどの渇きに、喉が動く。
もちろん、そんなことは決してしない。大切な人を傷付けたくないし、勝負が決した後にさらに傷を与えるのは恥ずべき行為だ。しない。したくない。しないとも。
「……ぁ」
そこまで考えて、気付く。
私は今、アイリーネ様を傷付けることを選べる。
できないからしないのではない。
できることを、私自身の選択として、しないのだ。
(――……これが、勝利)
アイリーネ様の黒灰色の瞳を見つめる。彼女もまた、私を見つめてくれている。視線が、感情が、想いが絡む。
友人であり、主人と従者であり、束の間の敗者と勝者。私たちの視線と意志はたった一秒ほど交錯し――
「私の負けね」
張り詰めていた空気が、結界を解いたかのように、ふ、と和らいだ。
「そこまで。アイリーネ・イオカヴの戦意喪失により、立会人ドロテ・クブルプスの名において、フォニカ・スリーグの勝利を宣言する」
精も根も魔力も尽き果てて、杖の先から刃が消え去る。そのままぺたんと校庭に尻をついた。
勝った。
アイリーネ様に、勝ったのだ。
「アイリーネ……さま」
「やっぱり貴女は強いわ、フォニカ」
アイリーネ様が片手を差し伸べてくれる。重い手を何とか差し出して、手を重ねた。ダンスにでも誘うような調子で引かれるまま何とか立ち上がる。
間近で見る表情は少し上気していて、瞳が潤んでいた。悔しさと歓びを湛えた、複雑そうだけれど幸せそうな表情。
「きれい」
「……え?」
「なっ何でもありませんっ」
「そう? ふふ、悔しいわ。全力を出したのに負けてしまった。ねえ、フォニカ……」
「……はい」
「楽しかった?」
「とても」
「そう」
「はい」
「……私も。とても楽しかったわ」
「光栄で……いえ。……嬉しいです」
「ふふ。……さ、帰りましょうか。煤を落として、汗を流して……フォニカ、髪を梳かしてくれる?」
はにかむような笑みと共に、問いかけ。
私はぎゅっと手を握って、頷く。
今、この瞬間だけは。想いを杖に賭し、そして証明した者として、はっきりと答えることができた。
「喜んで。……他の誰にも、させません」
花咲く火々 ~地味令嬢フォニカ・スリーグの血統と決闘~ 橙山 カカオ @chocola1828
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