放課後路地裏冒険記

織田美幸

放課後路地裏冒険記

 放課後、俺たちはいつも裏門で集合する。

 教室でもなく、昇降口でもない。正門ですらなく、裏門だった。特別理由があるわけではなく、気づいたときにはそうなっていた。どちらかが「次から教室まで呼びにいくよ」と言えばそうなっていたのだろうけど、わざわざそう伝えるような理由がなかった。


 裏門前に宇田川泰文の姿はまだ見えない。ひっそりとした門扉は解放され、小さな銘板には「春霞ヶ森高校」の文字が彫られている。いつ見てもそのうちすべてが夢だったかのように立ち消えてしまいそうな名前だ。

 錆が目立つ門に寄りかかって宇田川を待った。道路を挟んだ向かい側には民家があり、そこの敷地なのかそうじゃないのか、微妙な位置に謎の道祖神が祀られている。ささやかな赤い花を供えられた道祖神を眺めながらとりとめもなく宇田川を待っていた。



 帰宅部の俺、浅田壮平と、同じく帰宅部の宇田川は、とある日の放課後に出会った。

 入学式から少し経った、新緑が眩しい季節だった。

 この暖かく眩しい、夕方に差し掛かろうとしている放課後の時間が好きだった。制服を着て、学校でも自宅でもない場所を歩くとなんとなく特別な感じがして心地良い。そんなことをぼんやりと考えている時に、彼と出会ったのだ。


 住宅街の路地裏で、宇田川は地面の写真をスマホで撮っていた。そっと通り過ぎることもできたが、なんとなく興味が湧いて、彼がカメラロールを満足げに確認しているのを眺めていた。

 制服から、同じ学校だということは自明だったが学年はわからない。少なくとも、同じクラスの人間ではなかった。大人びた横顔をしているから歳上かもしれない。スラッとした細身の長身に白い肌。グレーの学ランがよく似合っていた。


 やがて彼は俺の視線に気づき、僅かに動揺した。この日の俺はなんとなく調子が良かったので「それ、何撮ってたんですか?」と声をかける。


「ここのタイル、RPGだったらダメージ受けそうじゃないですか?」


 あの時、宇田川は初対面の俺相手にそう言った。本気でピンと来ない感性の相手の可能性もあるのに、「じゃないですか?」とはかなり強気だと思う。考えがあるのかないのかわからないが、宇田川には確かにそういう豪胆さがあった。

 幸いなことに、俺はその時宇田川の言わんとしていることが、宇田川の説明で過不足なく全て理解できた。

「ああ。絶対針山出てきますね」

 俺の言葉は宇田川にとって当然のもので、彼は「ですよね」と淡々と抑揚なく答えた。俺はこの時点で彼に対して面白さと底知れない末恐ろしさを同時に感じていたと思う。


 そこのタイル舗装は小さな正方形のタイルを敷き詰めたもので、白っぽいタイルと茶けたグレーのタイルがそれぞれ3×3の一つの大きな正方形の塊として道全体に市松模様を描いていた。その中に、四隅と中央のタイルだけ黒っぽくなっている意匠が施されているところがある。宇田川はその部分を指して「ゲーム中の下から針山が出てきてダメージを負う床」を連想し、カメラに収めたらしい。

 小学生か?

 あと少しでそう口に出してしまうところだった。高校生にもなって幼稚なことを考えているな、と思うと同時に、その感性を持つ人間は愛せるかもしれないとも思った。

「こういうの、よく撮ってるんですか?」

「気になるものがあればだいたい。たまに見返したときに嬉しくなるので」

 この時にはもう、この宇田川泰文という男に強く興味を抱いていた。

 お互いに名前と、同学年であることを確認して、俺たちは友達になった。



 彼との出会いを振り返っていると、「やあ。待たせたね」と、天然なのかキャラ付けなのかわからない、芝居がかった調子で宇田川がやってくる。

「図書室か?」

「そう。返却期限三週間切れてて怒られちゃった」

「宇田川、意外とそういうところあるよな」

 俺は学校内での宇田川のことをあまり知らない。家庭内のことも知らないけど。とにかく、俺たちの友情は放課後この裏門を出て、それぞれの帰路への分かれ道が来るまでの間に収束していた。

 もう季節は真夏に差し掛かり一学期も終わろうとしていたが、この時点で宇多川と学校内で会話をしたことはない。というか、校内で宇田川を見かけたことも数えるほどしかなかった。隣のクラスであることは知っているのでたまに通りがけに探してみるが、基本授業中でなければ教室の中にはいなかった。気ままに校内散歩でもしているんだろうな、と今ならわかるが、出会った当初は本当に存在しているのかすら怪しくて不気味だった。


「さあ行こう。放課後おさんぽ部の活動開始だ」

 俺たちの放課後には、いつしかそんな呑気でどんくさい名前が——宇田川によって一方的に——つけられていた。

 ジリジリと焼け付くような日差しが肌にまとわりつく。暑い。少しでも日陰を求めて適当に路地に入った。

 この活動のコツは、視野を広く保つことだ。地面に物が落ちていることもあるし、個人商店の看板に興味をもつこともある。何もないような日も多い気がするが、振り返ってみると意外とそういう日の方が少なかった。


 一匹の猫が目の前を横切る。

 宇田川と一緒に立ち止まり、猫の行方を目で追った。猫は堂々としなやかに民営の児童館の敷地へ入って行く。

 ぼんやりとその軌跡を目で辿っていると、宇田川が口を開いた。

「浅田、僕は今本当の自由を知った気がするよ」

 宇田川は胸を打たれた、とでも言わんばかりの声色でそう話しはじめた。

「見た? 今、あの猫、自転車の車輪と車輪の間、ペダルの下を当然のように潜り抜けてあの児童館に入っていったよね」

 確かに、あの猫は児童館の前に駐輪してある自転車を障害物だとは一切思っていない様子だった。

「僕が猫だったら自転車は一つのオブジェクトとして避けて通ると思うんだ」

「ああ。なんとなくわかるけど。でも猫って車の下とかも躊躇なく入るし、そういうもんなんじゃないか?」

「いやいや、車の下はまた別でしょ。暗くて狭くて、冬は暖かい。外敵から身を守るためのスペースとして確実に存在している。だけど、停めてある自転車に関しては、猫にとっては存在していないようなものなんだよ」

「そんなわけないだろ」

 あまり児童館の前で突っ立っていてもよろしくない気がして、歩みを再開する。

「シビれたよ。ああ、あそこって猫なら通れるんだって今初めて認識できた。そして、あそこを通る選択肢が猫にあることに感動した。いいもの見れたなあ」

 猫からしても鬱陶しいほどの過大評価だろう。それでも宇田川は、今の光景にそれだけ感銘を受けたのだ。面白い。

「つまり本来宇田川は無意識的に、自転車の隙間には見えない透明な壁のようなものを感じていたということだろ? その感覚はなんとなくわかるよ。ゲーム脳すぎる気もするけど」

「現実の隙間って当たり判定ないんだなぁ」

 当たり前だ。

「じゃあさ。そこにある侵入禁止のバリケードの間だって猫は通れるわけだけど、それはそういうことじゃないんだよな?」

 ちょうど目の前にあった、赤いカラーコーン二つを黄色いバーで繋いで作られたバリケードを指差す。宇田川からすれば愚問である確信はあった。そういう感性のやつだ。

「当たり前じゃん。あれは猫にとっては凱旋門みたいなものだ。いや、猫の自由さならきっとあのバーで逆上がりくらいしてみせるかもしれない。ナメるなよ」

「猫だってそこまで自由じゃないよ」

 バリケードで逆上がりをする猫を想像してみる。前脚をバーにかけて、飴細工のように胴を伸ばし、芋虫のように身を丸めて一回転。それどころか、大車輪のように連続回転までして見せた。猫の伸縮自在な体がグルグルと大サーカスを演じる。なるほど、猫は自由だ。宇田川、俺は今本当の自由を知った気がするよ。


 宇田川はそもそもかなりの猫好きらしく、「猫っていいよなあ」としきりに猫の良さを語り始めた。

「人間に媚びたかと思えばそっけなく振る舞うし、かと思えばまた甘えてくるんだ。結構な生存戦略だよね」

「まあそんなイメージはあるけど。飼ってるのか?」

「いいや。僕、猫アレルギーなんだ」

 気の毒なやつ。そうなると、動画や写真でしか猫とは触れ合えないのか。

「動物番組にありがちな、動物にアテレコするやつあるだろ。宇田川はあれについてはどう思ってる?」

「あれね。僕、やったことあるんだよ」

「え?」

 子役声優でもしていたのか?

 というか、なんとなく、ああいう人間の身勝手さを動物に押し付けることは苦手な——むしろ嫌悪しているタイプだと思っていた。

「それ、深掘りしてもいいやつ?」

「まあ別に……? ちょっと恥ずかしいけど」

 そりゃ、恥ずかしいだろう。猫撫で声の赤ちゃん言葉で喋らされていたんだろうか。

「まず、僕が猫になるだろ」

「は?」

「そんでそれを妹に撮影してもらって——」

「違う違う違う、待て待て待て」

「え?」

 え? じゃないわ。なんでそんな風にキョトンとできるんだ。

「お前が猫なの?」

「うん。僕猫だよ」

「違うよ」

「まあ今のは冗談だけど。でも僕の動きを妹に撮ってもらって、それがなんの動きなのか忘れた頃に自分でアテレコしたことは、ある」

「そこも冗談であってほしかったな」

 データあるよ、と宇田川が言うので少し迷ってから見せてもらうことにした。


 スマホで撮られた縦画面の動画だ。場所はおそらく自宅のリビングで、白く清潔そうなラグの上でスウェット姿の宇田川が四つん這いの姿勢をとっている。流行りの音楽と、そこにナレーションがご丁寧に字幕付きで加わった。妙な裏声で、一瞬合成音声かと思ったが、よくよく聞くとその声は宇田川自身のものだと分かった。

「ボクはマンチカンのやっくん!」

 暑くて仕方がなかったはずなのに、瞬間寒くなる。

 泰文だからやっくんか。理解したところでどうでも良かった。

 なんでよりにもよって猫の中でも短足の品種を、人間の中でもスタイルがいいやつが名乗るんだよ。

「ぴょんぴょんぴょ〜ん!」

 マンチカンのやっくんはラグの上からソファに飛び乗った。録画させられている妹もギョッとしたのか画面がブレて乱れる。顔も名前も知らない妹に心の底から同情した。

 やっくんはソファの上をぐるぐると動き回る。恐らくソファの匂いを嗅ぐ仕草をしているようだ。とにかく不気味なほど、動きが不器用でぎこちない。ブリキの人形が動いたらこんな感じかなと思うほど、腕を動かすだけで不自然だった。もはや才能とも言える。今、目の前にいる宇田川の挙動は普通なのに。それが余計に不気味だった。

 ひとしきり匂いを嗅ぎ回ったやっくんはピタッと不自然に静止し、処理落ちしたのかと疑うほどぎこちなくその場で丸くなった。

「ねむたくなっちゃったビャ〜ン」

 ビャ〜ン。

 ニャ〜ンとかミャ〜とかだろ。なんだその猫。「猫の鳴き声=ニャ〜ン」の固定観念に風穴をあけるリアルな鳴き声というわけでもないし。いや、宇田川が知っている猫はそうなのかもしれない。アレルギーなら実物に触れる機会も極めて少ないだろうし。浅慮なのは俺の方で、世の中探せば「ビャ〜ン」の猫もいるのかもしれない。

 やっくんは右手を前脚に見立てて、自身の目の周りを擦っている。なめらかさとは全くの真逆をいく挙動だ。

「え〜……あ、親指が痒いビャ〜ン。ボクは猫だから親指が痒い時は顔で掻くに限るビャン」

 え、一発録り? 音声の編集とかしてないんだ。最初に言葉に詰まったせいで音声と映像が少しズレている。字幕つけるくらいならカット編集くらいしろよ。宇田川的にいいんだ、それは。

 猫に親指ないだろ、とか、顔が痒いから掻いてるんだろ、とか、見え透いたボケには突っ込まない。もうそんな段階ではなかった。


 例えるならば、映像のカロリーが高すぎる。胸焼けしてまともなことを考える気力が奪われていく。夏の暑さもあってぶっ倒れそうなほど気分が悪くなってきた。

 眩暈に耐えようと目を瞑っているうちに、動画は終わっていた。

「どうだった?」

「ここ数年で一番すごいもん見た気がする」

「バズるかな」

 やめとけよ。その言葉はもう、声になっていなかったように思う。



 自販機でスポーツ飲料を買って飲む。心地よい冷たさが染み渡って生き返るようだった。

「浅田、あそこ猫いるよ」

 猫はもういいよ、と思いながら宇田川の指さす方を見ると、団地の窓から一匹の猫がこちらを見ていた。あの動画を見た後だと、実際の猫の方が俺たちよりも随分と賢そうに見える。

 あたりは少しずつ暗くなっていた。赤みがかった濃い影が後ろに長くのびていく。

「夏の影って、昼は青いよね。冬も青いけど、夏の方が断然色が強い気がする」

 まさか宇田川も影の色に言及するとは思わなかったので驚いた。ただ、宇田川と居るとなんとなくこのようなことはまま起こる。感性が交わる部分がどこかにあった。相手の視線の先を辿れば考えていることがお互いにわかるような、そんな感覚だ。

「今も青いといえば青いけど、でも夕焼けの赤が混ざってもっと黒っぽいね」

「宇田川」

 半歩先を進んでいた宇田川が立ち止まる。細い黒髪が優しく靡いた。

「なんで裏門なんだ?」

 宇田川は一瞬目を見開いて、そして「今更?」と破顔した。

「別に理由なんてないよ。ていうか気にしてないと思ってたし」

「まあ大して気にしてはなかったけど」

 宇田川はなぜか上機嫌に笑っていた。

「たとえばさ、大人になった時、浅田との思い出を振り返るだろ。俺にとって友人との思い出といえばそのほぼ全てが、今のところ君との思い出なわけだし」

 俺にとってもそれはそうなるだろう。光栄なんだか、悲しいんだかわからないが。

 クラスメイトにも友人はいる。しかし、思い出を振り返るとなったらやっぱりこの奇人を思い出す気がする。

「別にどちらかの教室でたわいない話をするだけでも浅田となら楽しいと思うよ。でもさ思い出に浸る時、そのシーンのすべてが閑散とした教室のすみっこだったら、なんだかがっかりすると思うんだよね。教室の隅に溜まった埃っぽい思い出しかないんだなって大人の俺だったら思うだろうから。だったら、いろんな天気でいろんな路地で、いろんな猫の記憶があったほうが彩られていていいじゃないか」

 俺は別に、教室の隅に溜まった埃っぽい思い出でもいいよ。そもそもそういう性質の方が近い気がするし。しかし、宇田川のこういった捻くれた性質にもなんとなく共感ができた。

「そんな打算的な考えがあったのか」

「まあ、単純に路地裏散歩してとりとめのないこと考えることも好きだしね。それをその場で君に共有できるということがかけがえないことも、嘘ではないし。僕にとっての青春はこれがいい」

 宇田川は俺に向かって微笑む。

 恥ずかしいことを臆面なく言える、その姿勢は羨ましかった。あのアテレコ動画を撮れる時点でこいつに羞恥心なんてものはカケラもないのだろうが。

「裏門っていうのもさ、なんかいいじゃん。ぼんやり待ってても他の生徒の邪魔になんないし、よくわかんない道祖神もいるし。僕あいつにたまに花供えてるんだよ」

 もしかしたら今日供えられていたあの赤い花も、宇田川が供えたものかもしれない。それを本人に聞いてもきっとはぐらかされてしまうだろう。

 「大人になってどう振り返るんだろうな。この日々を」


 三十歳になった今。あの日々をこうして思い出している。あえて言葉にして振り返るとすれば「へんなガキと一緒にいたな」という認識だ。だけど、あの頃の俺にとって、宇田川が居心地の良い友人だったことも事実である。


「浅田。待たせたね」

 安居酒屋の喧騒の中、背後から芝居がかった調子で声をかけられる。宇田川だ。

「残業か?」

「いや、レンタル充電器返してきた。酔う前に行っとかないと、また忘れるから」

「お前、本当そういうとこあるよな」

 宇田川との交友はあれからも途切れることなく続いていた。

 

 俺は今、WEBデザイナーをしている。就職活動を放棄してフリーターになり、センスのないWEBライターになり、流れついた先がここだった。デザインに関しては大学時代に一瞬だけ付き合った彼女がデザイン科の生徒で、彼女が課題の締め切りに追い込まれているのを後ろで見ていた程度だが、それでもなんとかなっている。

 宇田川はしれっと大手商社に内定していた。俺と同じく、ろくに就職活動をする兆しすら見せなかったくせに、いざ面接に行ってみればどの業種でも無双状態だったらしい。そういうやつだよな、と勝手に苦い思いを抱きながらも、変わらない友情を続けていた。それができるのは相手が宇田川であるからに他ならない。


 宇田川の例の動画は、結局二年ほど経ってから出来心でインターネットに放流した。そして、瞬間的にバズった。いつの間にか電子ドラッグのような音楽と宇田川の奇妙な裏声がMIXされた音源に変わって海外で大バズりし、ミーム化されていた。今でもたまに、レインボーな背景で親指を顔で掻くマンチカンのやっくんのGIFが流れてくる。オリジナルの動画も思い出したかのようにしばしば無断転載されていた。


「高校時代を思い出すには、まあまあノイズなんだよな。あの動画」

「なんでよ。あれの正体が僕って知ってるの、秋穂と浅田だけだよ。特別じゃん」

 秋穂というのはあの動画の撮影者である宇田川の妹のことだ。高校時代に紹介された時はまだ中学二年生だったが、その時からしっかりとした利発な子だった。兄が適当だと下はしっかりするもんなんだなと感心したのを覚えている。

「遠い青春の美しさに浸りたいときもあるだろ。その時絶対に海外ナイズドされた方のあの動画が鮮明に邪魔してくるんだよ。記憶として全然遠くないし。お前、この間「ビャ〜ンニキ」って呼ばれてたぞ」

「え、僕今ネットでそんな立ち位置にいるの?」

「マジかよ〜」とショックなのか喜んでいるのか曖昧なことを言いながら宇田川はハイボールを煽る。

 余談だが、この間仕事帰りの路地裏で「ビャ〜ン」と鳴くしゃがれ声の野良猫に出会った。あの鳴き声はまさしく「ビャ〜ン」だった。



「今日、浅田んち泊まっていい?」

 あの頃。裏門前からそれぞれの帰路への分かれ道が来るまでの間に収束していた俺たちの友情は、いつの間にかズブズブに侵食していた。

「いいけど、お前同棲中じゃなかった?」

 お互いそれぞれに友人や恋人はいたが、そこまで深い関係になることはなかった。俺ですらいまだに宇田川のことを底知れない闇のように感じることがある。出会って日が浅い相手ならなおさら踏み込めないだろう。

「そうだけど、なんかもう別れそう。この間すごい怒らせちゃったし」

 それでも真に心を開ける相手といえば俺には宇田川しかいないし、自惚れかも知れないが宇田川にとってもその相手は俺だろうと思う。

 アルコールのせいで、頭の中の惨めで未練たらしい感情が顔を出し始めた。こうなると、俺はもう駄目だった。

「お前さ、相手がなんで怒ったのかあんま興味ないだろ」

 人に執着してまで自分らしさを手放したくない。そういう幼稚さを捨てきれなかった。

 宇田川に自分を重ね合わせて、わかったような口を聞く。宇田川にも、俺と同じように生きていてほしかった。

「うん。でもやっぱそういうのがバレてるんだろうなとは思うよ」

 宇田川はこちらの、卑しくしがみつくような意図には気づかない。俺のことを真に理解者だと錯覚している。まだ高校時代なら気づいていたのかもしれない。

「早く結婚しろよ。俺、スピーチしてやるよ」

 これも本心だ。ああ、でもこいつの式ってなったら上流階級の偉いやつらも出席するのか。するのかな。わかんないよ、俺そんな社会的立場にいないし。

「そんなこと、浅田にだけは言われたくないよ。それに、僕だって、僕と秋穂だって、そうなったら出席してやるよ。子供産まれたら名付けてやるし」

「絶対やだよ」

 年齢を重ねる度に人と人との繋がりに尊さを感じるようになった。同時に、その希薄さというものに虚しくなることも多い。

 随分アルコールが回ってきた。湿った思考の中に、宇田川の声が微かに侵食してくる。その内容なんてもうどうでもよくて、その音だけをただ聞いて適当に相槌を打っていた。ただ続けばいいと願っていた。

 

居酒屋を出て、タクシーを拾おうとする手を宇田川が止めた。

「歩こうよ。気分がいいからさ、遠回りして帰ろう。路地裏の間を縫って」

「——放課後おさんぽ部の活動開始か」

 

 しゃがれた鳴き声が聞こえた気がした。


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