So Close
@dt0128
So Close
季節は夏。うだるような熱波を感じ、僕は反射的に身を捩る。
ヒュッ。
数ミリのところを過ぎ去る巨大な肉塊。風圧に押されて、僕は壁付近まで吹き飛ばされる。
「……すまない。本当に。でも……わかって欲しいんだ。僕はそうしなければならないんだって」
再び僕は飛ぶ。前へ。上へ。空へ。比喩ではなく、現実的に両の腕を羽ばたかせて。糸みたいな細い足を必死にばたつかせて。
突然危機は去る。そう、君と僕の物語はいつだって突然だ。室内に流れる音楽に耳を澄ます暇もなく、僕は君の顔を見る。細く伸びた目の奥から光る瞳を、垂れた目尻に薄らと浮かぶ泣きぼくろを、短く整えられた薄茶の髪を、テニスで鍛えられたしなやかな体のラインを、そして……僕ではない誰かに抱かれて恍惚の表情を浮かべる君を。
ハエ目糸角亜目カ目に属する昆虫。ヒトなどから血液を吸う吸血動物であり、種によっては各種の病気を媒介する衛生害虫。
これが今の僕の全てだ。集合知はいつだって真実の一側面のみを鋭利に切り裂く。どうしてこうなったのか、何がどうしてこんな事態に陥ったのか、僕には思い出すことが出来ない。正確に言えば、直近の僕の姿では、だ。虫ケラに宿り、本能の赴くままに血を吸い、ただ生き抜くだけの僕では。脳に降りてくる直感めいた衝動に突き動かされ、ただ君の元へと向かうだけの僕なんかでは。
思えば、最初に僕が目を覚ました時、君はまだ僕の知る君のままだったね。僕はゴロゴロと言いながら気持ちよくアスファルトの上に横たわり、部屋の中にいる君の顔を見ながら鳴き声を上げた。君は嬉しそうに微笑みながらも、家には入れられないのよと少し悲しそうに笑った。僕も別に異論はない。君のマンションの管理人が厄介な性格であることも知っている。それに僕は、君とこうしていられるだけで満足だから。そう言って僕は腹を見せながら喉を鳴らしていた。
しかし彼女は突然、ふと思い詰めたような表情に変わってカーテンを閉めると、暫しの沈黙の後に堰を切ったかのように泣き崩れた。
「あの人は……どうして……私を置いて……」
僕は何も言わなかった。言えなかった。そんな事をする資格はなかったし、何より僕には彼女に伝えられる言葉がなかった。
だから、側にいた。いようとした。ずっと。かつての僕が出来なかったぶん、ずっと声を出し続けた。分厚いガラスに阻まれ、触れることすら出来なかったけれど、それでも。ある日に発作的にネズミを追いかけた僕が、県道の端で原付バイクに轢かれたあの日までずっと。
次に目を覚ました時、僕は空を飛んでいた。その背に暗い雲の存在を感じながら、一直線に彼女のマンションを目指していた。
数日が経過し、豪雨に打たれながらベランダにたどり着くや否や、僕は引き裂かれんばかりに痛む翼をコンパクトに畳んで、扉の先にいる君を思った。そこには何の気配も、呼吸すらも感じられなかった。けれど、僕は待った。君がこの場所に戻ってくるその日まで。何一つ失うべきでなかったあの日に向かって。
結果として僕は君に出会うことは出来ず、カーテンの向こうから聞こえる生活音だけで、君を推測することしか出来なかった。時折啜り泣くような声が聞こえ、僕はただ瞳を部屋の中へ、暗く閉ざされた室内へ向けていた。
そして季節は流れ、集中し過ぎた僕が狩猟型の小型哺乳類に捕食される頃には、君の声には幾分の明るさが帯びるようになっていた。
「……ごめん。本当にごめん。でも……もう五年も経ったの。私には……私は……先に進まないと……」
いつものように物干し竿を伝ってベランダに侵入し、鳥たちの襲撃から身を守るために配管の隙間に尻尾から入り込んでいたその時、聞こえてきた言葉に僕は鱗に覆われた体を痙攣させた。震えは治らず、小さな心臓の鼓動が止まらなかった。だが僕の体が芯からは熱くならなかったのは、決して種族としての特性だけではなかった。
分かっていた、と言えば嘘になる。強がりだ。ただの遠吠えだ。どうしようもない虚言癖だ。だけど一つだけ、たった一つだけ予感していたことがある。予期していたことがある。“こんなこと”は決して長くは続かない。続いてはいけないと。
それから幾度となく生を重ねた。その度に彼女は変わっていった。出社時間が三十分早くなった。朝のニュース番組のチャンネルが変わった。帰宅はいつも深夜近くになった。あのポンコツの洗濯機をようやく処分した。実際にその姿を目にすることは出来なかったけれど、時折聞こえる微かな笑い声は、僕の愛した彼女の美しい笑みは、いつになっても変わりはしなかった。
だが僕にはそれを理解出来ない。正確に言えば、出来なくなっていった。繰り返す生の中で僕は、どういう訳か少しずつ知性というべきか、何かを考える術を失っていった。その代わりに本能という古代からの指令のみが肥大化し、脳髄の隙間をパテのように埋めていった。
それでも、僕は忘れない。あの日の君を忘れない。初めて出会ったあの日のことを。何となく夏祭りで声をかけて、どうということもない平凡な時間を重ね、熱情に心臓をくまなく焼かれながら、やっとのことで重ねた唇の温度を。月夜に晒された肩の白さを。そして……愛おしさの本当の意味を。
「ねえ。聞いてる?」
「うん。もちろん。何でも聞いてるよ」
「……怖くはない?」
「なにが? 幸せすぎて?」
「ふふ。バカ。そういうことじゃなくて、いやそうだからかもしれないけど……あなたを失うのが怖いの」
「え? そりゃ怖いね。死にたくないよ俺。本場の豚骨ラーメン食べるまで絶対死なないって決めてるから」
「この間まで味噌が最高って言ってなかった? まあいいけど……って、そういう話じゃなくて。お願いだから真面目に聞いて」
「うん。ごめんごめん。ちゃんと聞くよ」
「……予感がするの。私はいつか必ず1人になるって。あなたが何処かへ行ってしまうんじゃないかって。そう考えると怖くて怖くて仕方ないの」
「……」
「ずっとそう。昔からそうなの。……あ、それはつまり、そういう意味じゃないけど、ええと……」
「分かるよ。だから続けて。ゆっくりでいいから」
「うん。ありがとう。私はあなたほど好きになった人はいない。だから失いたくないの。どうかいなくならないで。お願い……」
あの夜から程なくして、君は全てを失った。いや、それは傲慢な言い方だな。ただ、あの夜に君の胸を裂いたものは、優しさと狂おしさで暖かく包み込んだものは、紛れもなく何もかもが損なわれた。
そして今の僕の記憶に残るのは、胸元に感じる涙の温度のみ。それもすぐに失われ、冷たい雫となり気化していくもの。
何がどうしてこうなってしまったのだろうか?
強い思いがあったのだろうか? でもそんなのって誰にでもあったはずだ。少なくとも無念なく死ねる人間なんてありはしない。では何故? 何がどうなって……。
そう考えているうちに「今回」が終わる。鳥や小動物を避けんとするあまり、水場から遠ざかり過ぎたのが敗因か。それとも話を聞くのに夢中になり過ぎたのか。あとほんの少しで柵を越えられたのに。後ろ足にほんの少しだけ力を込めれば飛び越えられたのに。僕は何一つ叶わず乾いていくのみだ。
そして今日。
僅かな隙間を必死に潜り抜け、甲高い羽音を撒き散らしながら、ようやくたどり着いたあの部屋の中。懐かしい風景、何度も思い浮かべた光景。流せるものなら涙でいっぱいになりそうな憧憬。
だが、君はもう僕の知る君ではなかった。そこにあった僕と君を繋ぐ意味性は綺麗さっぱり消え失せ、切り刻まれた傷跡が妙に生々しく覆われた、1人の女性が佇んでいるだけだった。
「……!!」
何かが聞こえる。でもその声と、室内を流れる音の意味はもう僕には分からない。何も理解出来ない。風圧が襲いかかる。巨大なものが何度も何度も僕の側をすり抜ける。戦いたくない。死にたくない。失いたくない。空腹になりたくない。乾きたくない。ただじっと、何も考えずに満たされたい。
プーン。
やがて僕は到達する。僅かな温度の上昇を頼りに、辿り着くべき場所へやっとのことで降り立つ。もう羽も手足も限界だ。やらねば一分で死ぬ。ここからは簡単だ。本能の赴くままに、ギザギザの口腔を軟い肉にするりと差し込み、生きる為に必要な定型行為を行えばいい。そうだ、僕はやり遂げたんた。失うことを避けられたんだ。あとはただ得るだけ。損なったものを取り戻すだけ。そう、僕は……。
「!?」
止まった。一瞬だけ。君の振り上げた腕が、僕を捉えるほんの数瞬の間だけ。
僕は吸わなかった。何もしなかった。ただ君を見ていた。君の美しい目を見ていた。その瞳に映る僕を見ていた。何もかもが損なわれ、それでも築き上げられたものを、君の根底に流れる仄かな灯りを見ていた。音が聞こえた。とても不思議で、何処か懐かしい音だった。何故だろう。とても落ち着く。もしかして僕は……ここに来て、こうする為だけに、今まで何度も繰り返してきたのだろうか。
ダンッ!!
やがて致命的な圧力が訪れた。それは僕の体を容易に粉砕し、血反吐と体液と体組織をブレンドしたカクテルへと変化させ、僕の存在自体を虚無の中へ消し去るのだろう。いつも通りだ。何も変わってなどいない。目の前が暗いがこれも誤差だろう。いつもならか細い光が……それを掴めばまた……だけど……今は君がとても近くに……。
そして僕は、今も耳に届く懐かしい曲に、ほんの少しだけ口元を緩めたんだ。
「じゃあさ、会いに行くよ」
「え?」
「死のうが何しようが、気合いで君に会いに行く。中学んとき長距離やってたから根性だけはあるんだよ」
「ふふ。ほんと? けっこう遠いかもよ。それに陸上やってたなんて初耳なんだけど」
「言ってなかったっけ? まあいいや。だから何も心配ないって。やる時はやるタイプだし」
「……知ってる。やり過ぎるくらいだけどね。でもそういうところ……好き」
「……ありがとう」
「ねえ、私のどういうところが好き?」
「え? ……うん。その……可愛いところ」
「何それ! そこだけ? ちょっと悲しいんだけど」
「……いっぱいあるよ。優しいし、焼きそばとかハンバーグとかも作ってくれるし、一緒にラーメン食べに行ってくれるし、あと……」
「もういい! でも……ありがとう。私はあなたに出会えて本当に幸せだった」
「過去形で言わないでよ。終わっちゃうみたいじゃんか」
「ふふ。どうかな。全部あなた次第だよ。……私はずっとここで待ってるから」
「うん。約束するよ。絶対絶対会いに行くから」
「ふふ。ありがとう。……ねえ、あの曲かけて」
僕は鼻の奥に伝うむず痒い感覚に顔を顰め、手癖のようにヘッドボードに置かれたオーディオの電源入れた。そこから流れ出る曲は、君の好きな映画のあの曲は、まるで幸福な僕たちを祝福してくれるようだった。僕と彼女は目を合わせてにっと笑い、額をこつんと合わせてから、もう一度二人で微笑んだ。
春の日差しがカーテンの隙間から差し込め、僕は若干の倦怠感を感じながらも、優しい音と色に影を染めていった。
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