第9話



 僕は居間を通らずに、一人でこっそり裏口から須江さんの駄菓子屋兼住宅を抜け出して、廃

病院に向かった。

 一人でかっこつけようとか、そういうつもりじゃなかった。

 ただ、あいつが今みたいになってしまったからには、手を下す役は僕に決まってると思った

からだった。

 雲が、ときどき満月を隠しては通り過ぎていく。

 裏口を開けようとしてドアに触れると、開いていた。既に来ているのかもしれない。

 暗い廊下を通る。昨日もここに来たはずなのに、なんだか新鮮だった。あいつが、ここの雰

囲気を変えたのか、と一瞬思ったけど、違った。

 僕が変わっただけだ。

 明かりのない廊下をそのまま歩く。階段を四階分上っているうちに、もう、ここに来ること

はないのかもしれないという気がしてきた。

 うまく言葉には出来ないけれど、そんな予感がしていた。

 屋上へと続く階段を上り、重たいドアを押し開ける。



 風が吹き付けてくる。

 地上よりもっと速い速度で雲が泳いでいた。

 尖塔のように屋上の端の一段高いところに大きな看板がそびえたっていた。

 その傍らに既に先客がひとり、座っていた。

 僕が近寄る。先客が顔を上げる。

「……イエナシさん」

「あぁ。待ちくたびれたよ」

 イエナシさんは看板に手をつきながらよろよろと立ち上がる。

「結構真面目に言ったつもりだったんだけどね。まぁでも、来るとは思っていたよ」

「イエナシさん」僕は名前を呼ぶことしか出来ない。

「僕もそろそろ年貢の納め時ってやつかな。ひとりであれこれやるのは、限界があるって学習

したよ」

 風に乗って、鉄の匂いが鼻に届く。

 違う。これは、血の匂いだ。

 看板の陰から出てきたイエナシさんは左の脇腹を右手で押えていた。白いシャツがその辺だ

け真っ赤に染まっていた。

 そのとき、屋上の出入り口が開く音が聞こえた。振り返ると、そいつが立っていた。

「おやおや。セイヤ。待ち合わせの時間まであと三十分くらいあるぞ」

 上杉はおどけた顔でそう言った。いつの間にお前はそんな悪人面が出来るようになったんだ。

「せっかく一時間後なんて言うもんだからちょうどそいつが死んだ後にサプライズでご対面さ

せてあげようかと思ってたのに」

 どうしてだ? なんて無粋なことは言わない。

 ただ、ぶん殴るだけだ。

「いいからさっさと始めようぜ」

「まぁそう焦らないでよ。あんまり焦ってると、女の子にモテないよ? 余裕のない男にクソ

ビッチはなびいてくれなかっただろ?」

 こちらの神経を逆撫でしてるつもりだろうが、僕には効かない。今の上杉の言葉には、中学

の頃のキレがない。僕みたいな日常的にふらふらしてる奴には、ストレートな言葉以外まった

く刺さらない。

「上杉。お前はもう終わってるよ」そう伝えてあげた。

「終わってる? 僕が?」

 またいけ好かないおどけた顔を浮かべたかと思ったら、上杉は派手に笑いだした。

「アッハッハッハッハ。はぁ。念のためその根拠を聞かせてもらってもいいかな? はぁ。こ

んな珍回答は久しぶりだ」

 やるからには徹底的に腰を据えてやりたかったが、悠長に構えている時間はなさそうだった。

イエナシさんの出血の量を見ると、具体的に人間がどのくらい血を流すと出血多量で死ぬのか

知らない僕でもあれはヤバい、と思わずにはいられない量の血が出ていた。シャツの裾から滴

になって屋上に染みを作っていく。

「俺がここに来た時点でお前はもう終わってんだよ」

「プッ、ハハ。はぁ、今のはさほど面白くなかった。残念だ。もうこれ以上、珍回答は期待で

きそうにないから、答え合わせをしようか、セイヤ。

 ひとつ目、僕は捕まらない。掴まる証拠がない。赤い羽根募金も集団強姦事件も売春斡旋も、

ぜーんぶレッドウィングズとかいうどっかの馬鹿どもがやらかした悪事で僕には何の関係もな

いからだ。

 ふたつ目、ここでそこのホームレスもお前も死ぬ。俺が殺す。それでも僕は捕まらない。だ

ってここで起こったのは、落ちこぼれて行き場がなくなった男子高校生が何が目的か判明しな

いけど、廃墟になった病院に忍び込んで、そこに住み着いていたホームレスが逆上して襲い掛

かってきたところを思わず持っていたナイフで刺殺しちゃって、それを悔やんで飛び降り自殺

するからだよ。

 三つ目、これはおまけだけどね。お前が関わった人間全員が不幸になる。小高も周平も穂谷

とかいう不愛想なあの女もお前の高校の親友も、実際に罪を着せられるかは保障出来ないけど

ね、少なくとも嫌疑はかけられるようにするからちゃんと仲良く容疑者になれるよ。そうした

ら毎日楽しいだろうね」

 ……いったい何がどうしたら、ここまでこじらせることが出来るのだろう?

 僕は思わず笑いそうになった。あっ。ダメだ。さっきの笑いが、……ぶり返してきて、あっ、

ヤバい、死ぬ。あっ、死ぬ死ぬ死ぬ。もう―無理。あーダメだ。あー、

「あっひゃひゃひゃっひゃっひゃ!!」

 僕はお腹を抱えて笑い出した。これには余裕ぶってた上杉も度肝を抜かれた様子だった。

「あはっ、あー、あっはっはっは。あー、ひゅっ、あ、あー、ごめん。続けてくれ」

 そうは言ったものの、僕はなかなか笑いを収めることが出来ず、それが奏功したのかようや

く上杉の逆鱗に触れられたらしかった。

「チッ。そうやって最期までヘラヘラして死ね! 落ちこぼれが!」

 そう言うが早いか、上杉はナイフを構えてこちらに突進してきた。ちらとイエナシさんの位

置を確認すると、端の方に移動して横たわっていた。これならいけそうだった。


 ……ったく。

 結局こいつは、いろいろと卒なくこなせる分、てめぇのプライド過保護にし過ぎて、そんで

ぶくぶく肥やしてしまって。

 成績が良かったり運動が出来たところで、私生活ではてんでダメなままだったのがこうなっ

た原因だろう。

 ハッキリものを言い過ぎて友達もいねぇし、合理的で真面目過ぎるから女も出来ねぇし。

 それで受験にも失敗して、きっと色々周りから言われた挙句、変なスイッチ入っちゃって。

見返してやるとか、復讐してやる、とか。

 なまじ要領が言い分、うまく行きすぎて調子に乗っちゃったんだろうなぁ。

 なぁ上杉。

 こんなにお前のこと考えてる奴って、俺の他に誰かいんの?

 上杉の第一閃が届く。

 僕はそれを後ろに下がって避ける。

 続けて第二閃。

 下から切り上げてくる。それを左に避ける。

 第三閃。こいつは昔からそうだ。左右に避けさせたあとに戻ってくるとこに向かって打って

くる。――

 

 ――ほらきた!

 伸びてくる腕を取って上杉が突っ込んでくる勢いを活かしてそのまま真後ろに背負い飛ばす。

看板の横に転がる。上杉はすぐに立ち上がって向かってくる。

 その目を見た時――思った。

 あぁもう、こりゃダメだな。

 目が終わってるわ。

 その目は必死で自分を守ろうとする目だった。

 ダメなんだって。

 そうやって執着するからみんなちょっとした病気なのに拗らせるんだよ。

 まぁ、俺も人のこと言えねえけど。

 上杉が必死になって渾身の一撃を繰り出してくる。

 目が死んでる分、迷いがない。

 思わず笑ってしまう。

こいつが必死になったときや焦ったときは大抵自分の一番得意な一振りを咄嗟に出してくる。

つまり、右上からの切り下げだ。

 その通りに軌跡が通る。

 左に避けてそのまま突っ込む。

 こいつは余裕があるときは調子に乗るけど、実力が拮抗したときや、大事な場面では必ずこ

ういうパターンで失敗する。受験もそうだった。とかく本番に弱いんだよな。

 そのときになって初めて、上杉は落とされる可能性に思い至ったらしい。

「うわ……」とビビって僕に縋ってくる。

 僕はそのまま上杉に体重をかけ、下に落ちる。

 落ちる、と思った瞬間、息が詰まった。

 すると時間がゆっくり流れるように感じた。――



 ――一粒一粒の時間が、刻まれていくような気がした。

 走馬灯のようにこれまでのことが僕の中を通り抜けていく中で。

 虚空を見つめる上杉の目を覗きこむ。

 上杉は、何も見ていなかった。その目にはただ、怯えしかなかった。

 

 ったく。

 今更何を怯えてんのかね、コイツは。

 俺が来た時点でお前の負けはもう確定してたんだよ。

 俺はお前のことならなんでも知ってるんだ。お前の考えも癖も、何もかも。

 いったいどれだけの数のお前の試合を見てきたと思ってんだ。

 ルールも知らない、興味もない剣道の試合を、俺は何度も見てきた。

 お前の側にいれば、俺も工藤さんの目に映るかな、とか遠回りしたせいで。



 上杉の後頭部を腕でガッチリと抱え込む。

 もう、すぐそこまで地面が迫って来ていた。

 あー。あと、なんかすることあったっけ?

 あっ。一応これだけは言っとこうかな。

「上杉あのさ」僕は早口でその部分を言う。

 続けて耳元で、かつてないほどに大きな声で叫んだ。

「俺と一緒に入院しようぜ!」



 バゴン!!!!



 ……。

 ……。

 ……。

 …………。

 ………………。

 ……………………。

 はぁー。

 ……。

 ……着地……成功。

 うまくゴミ捨て場の上に落下できたようだった。

 予定では上杉の下に僕が来るはずだったのだが、幸い上杉も失神しただけで怪我といっても

捻挫くらいだろう。

 あー痛てててて。

 仰向けに寝転がると、砂利が頭皮に食い込んだ。きっと今の僕は気持ち悪い程ニヤついてい

るのだろう。

 どうやら両腕が折れているらしかった。衝突の瞬間、上杉の頭だけがゴミ捨て場から出てて、

やむを得ずアスファルトに両腕とも叩き付ける結果になってしまった。

 これで見事入院生活確定だった。

 僕はきっと明日から腫れて堂々と、学校をサボれる。

 そう思うと、どっと疲れが出た。腕の痛みは悶えるほどじゃない。それよりも眠たくてしょ

うがない。

 最後に、上杉になんか言っとくことがあったかな、と考える。失神してるけど。

 うーん。

「まっ、あれだよ。きっかけはあれだったけど、俺たち友達だったんだよ。そんな単純なこと

を基礎中の基礎を忘れてたから、お前は負けたんだよ」

 それ以外になんかあったかなぁ、なんて考えているうちに、深い深い眠りに落ちて行った。



* * *



 ……。

 薄目を開けると、二十代後半くらいの若くて美人の看護師さんがしかめ面で僕を見ていた。

「おはよう」

「……おはようございます」寝ぼけ眼でマスクの上のくっきりとアイシャドウがひかれたぱっ

ちり二重を見つめる。起き抜けになんてご褒美だ。

 ここは天国か。

 ……病院だった。

 僕は両腕を固定された状態で寝ていた。自力では食べ物を食べることも出来ないので毎日朝

食は看護師さんに食べさせてもらうのだけれど。

 今日はこの看護師さんだったかー。くそー。

 昨日の不摂生を呪っても、後の祭りだった。

 入院して一週間が経った。すっかり不規則な生活が板についた僕は見事に昼夜逆転しきった

毎日をただダラダラと過ごしていた。

「そろそろ起きなさい。もう昼過ぎですよ」

 この看護師さんは美人なのはいいが、厳しいのでいつも僕は怒られてばかりいる。いや、決

して怒られたくて寝坊しているわけではないことを確認しておく。

「朝ごはん食べるの?」睨みつけられる。

「すいません。大丈夫です」身体を起こしながらそう答える。

「じゃあ下げますからね」

 そう言うとさっさと看護師さんは盆を持って去って行った。

 カーテンが開かれている。窓の外の陽気に包まれた外界を見ながらぼんやりとここ数日のこ

とを思い出す。



 当たり前のことだけど、上杉は逮捕された。

 どれだけの罪が科せられることになるのか分からないままだけど、まぁ、ジジィぐらいにな

れば仮釈放くらいにはなるのかもしれない。許される罪ではないのだろうけれど、一応友達の

よしみで刑務所から出てきたらぶん殴ってやろうかと思う。

 結局上杉は手始めに募金詐欺からお金を集め始めて、そのお金を使った体のいい駒を作り、

強姦教唆と売春斡旋を繰り返してねずみ講みたいに倍々ゲームでその勢力を拡大していたらし

い。

 もともとあいつを一途と言っていいのかわからないけれど、こうと決めたら頑固な性格なの

で、チーマー連中や、風紀を乱すチャラチャラした奴らをターゲットにしていたら、自然ああ

いう結末に至ったというような話だった。

 さながら犯罪文武両道といった趣がある。真面目すぎると、損をする。世の中よく出来るの

か、不公平なのか。どっちでもいいけど。

 

 あんなに深手を負っていたイエナシさんはすぐに退院して、僕にとって一番最初の見舞客に

なった。

「文明の利器というのも、いざという時には役立つね」

 開口一番イエナシさんはそう言って笑った。屋上でのやり取りを、前日に家電量販店で購入

していたボイスレコーダーで録音していたそうだ。

 まったく、この人は。

 この際だから聞いてみようと思った。

「イエナシさんはなんでホームレスやってるんですか?」

 イエナシさんは微笑んで、どう答えようか迷っているようだった。

「僕も、上杉くんと大差ない理由だよ。受験に失敗して、予備校に通ってたんだけど、二浪目

に入っちゃってね。ある日、プツンってそれまで自分を保っていた糸が切れちゃったんだ。そ

してそのまま流浪の旅ってわけ。ずっとボイラー室での生活を続けていたら、僕も上杉くんみ

たいになっていたのかもしれない」

「そうですかね?」

 僕にはイエナシさんが上杉みたいになった姿を想像できなかった。

「ところで、晴れの門出を祝して、ひとつ、僕の本名をセイヤに当ててもらおうかなんて企画

を用意してきたんだけど」

「え? なんすか? 実は有名人の息子とかって落ちっすか?」

「いや、ただの言葉遊びなんだけどね」

「言葉遊び?」

「そう。出し惜しみするのもあれだから、言っちゃうけどね、僕の本名は、家出悟って言うん

だ」

 一瞬ポカンとする。そんな苗字があるのか。冗談だろ、と思った。

「冗談じゃなくて本当だよ。まっ、そのまま名乗ってもよかったんだけどね、なんかこう、あ

の頃の僕はまだ、素直じゃなかったんだよ」

 そこまで聞いて僕は笑った。つられるようにして、イエナシさん、改め家出さんも笑った。

 家出さんはあの事件をきっかけに都市部にある実家に戻って専門学校に通い直すことにした、

とのことだった。


 ヒロトも見舞いに来た。ことの顛末を僕は煌びやかで荘厳な言葉で飾り立てて血沸き肉躍る

冒険譚として語ってみせた。ヒロトは本当に楽しそうにその話を聴いた。

 ヒロトから不良になってからの話も聞いた。それなりに暗い部分もあったけど、今のヒロト

を見ても分かるように、チーマーのリーダーとしてまぁそれなりに楽しくやっているという結

末だった。そもそも、ファミレスでの喧嘩は、ヒロトがチームの方針を変えようとして起きた

ことらしい。以来、暴走行為もしていないらしく、たまにうるさいのは、その時決別した奴ら

の仕業とのこと。

 僕は心から拍手を送った。ヒロトはちょっとだけ照れて僕の折れた腕を叩いた。

 僕が廃病院で消化していたものと似たようなものを、彼らは似たような奴らでつるむことで

同じように消化しているようだった。僕はイエナシさんの話を思い出して、ヒロトと上杉の違

いはなんだろう、と思った。

 率直に聞いてみた。

「仲間は当たり前だけど、自分が関わる他人に対して真摯に向き合うかどうかじゃね?」との

ことだった。さすが不良は言うことが違う、と茶化すと今度は力いっぱい腕を殴ろうとしたの

で、びりびりって感じで背筋に冷や汗をかいた。

 ヒロトは、ただやんちゃしてた中学の頃とは変わっているようだった。





 小高と周平と井上は三人揃って見舞いに来た。三人でこれ見よがしに僕の前でゲームをした

り腕相撲をしただけで帰って行った。何をしに来たのか正式に抗議したい衝動に駆られたが、

見舞いに来てくれる友人がいるのはありがたいことなので、控えた。

 あのあと、すぐに三人が僕がいないことに気付いて廃病院に駆けつけてきたので、イエナシ

さんは助かったらしかった。まぁ僕も上杉も、同じように救急車で運ばれたのできちんと礼を

しなくてはならないだろう。

 退院したら、四人で「サハラ」に行こうと思った。それを想像するだけで心が躍った。



 こうして入院していると、あれだけ帰りたくなかった家にも帰りたくなるから不思議なもの

だ。

 五月病から快復した起き抜けの頭に、ひとつの考えが去来する。

 僕たちは、ある時期に差し掛かると病気になってしまうのかもしれない。

 劣等感とか、嫉妬とか、執着とか、いろいろ小難しい熟語のウイルスに、僕たちは罹ってし

まう。

 僕たちはそれまで通りに生きていけなくなる。

 これを治すのに通院で済む人もいれば、自然治癒力を使って自力で治す人もいるだろう。あ

るいは、そもそも罹らない人だっているかもしれない。それと同じくらい入院が必要なくらい

重症化する奴だっているだろう。僕や上杉みたいに。

 みんなそれぞれ、なんとか振り返ってみたり、考えあぐねてみたりして、解決していくのだ

ろう。

 ただ一つだけ言えることは、ウイルスにかかってそれまでの楽しかった日々を同じように過

ごせなくなったとしても、きっと誰かが側にいれば、辛くはないし、思ったより早く退院でき

るのかもしれない。

 病気になったとき、側にいてくれる人が、自分にとって、一番大切にしなきゃいけない人な

んだ。



 どうやら僕の入院生活も、あの事件をきっかけにして、終わりを迎えたようだった。

 あんなことがあったので、廃病院も取り壊しが始まったようだった。

 土地の管理者が新しい建物を建てようと重い腰をあげたようだった。取り壊された跡地には

新しく老人ホームが出来るらしかった。たまたまタイミングが重なっただけかもしれないけど、

詳しいことはわからない。

 あの夜感じた予感は当たっていたのだ。もう二度と僕は、あの廃病院の中に足を踏み入れる

ことはないだろう。


 とめどなく色んなことを考えるうちに、また眠たくなってきた。夜中の映画鑑賞が原因なの

は百も承知だが、他にやることもないのでしょうがない。

 二度寝に入る前にまた上杉のことを考えた。

 自分の腕を見る。

 腕を怪我して痛むから、切り落とす奴はいないだろう。

 みんな腕は治療して治す。どうして友達はそうじゃないのだろう?

 みんな普通に切り捨てる。みんな普通取り換える。

 もしかしたら、それが普通なのかもしれない。実際僕もそうだった時期があった。

 だけど、本音を言えば、僕は、そういうのは嫌いなんだ……。



 鼻に届く良い匂いで目が覚める。

 薄目を開ける。

 ベッドの側に誰かが座って窓の外を見ている。

 ふいに彼女がこちらに向き直る。

 しかめ面をしていた。

 どうして僕が目覚めると、女性は不機嫌になるのだろう? なんて見当違いのことを考えた

りする。頭が覚醒してない証拠だ。

「起きたの?」

 彼女はそう訊いた。

「起きたよ」

 僕はそう答えた。

 するとこちらが無抵抗なのをいいことに思い切り頬をつねられる。無言で。

「痛い! 痛い! 痛い!」

 三回抗議してやっと解放してもらう。

「なんだよいきなり!」頬をさするための手が使えないんだぞ、こっちは。

 彼女はむすくれる。

「何?」

「……」

「何?」

「……心配した」

「信用してよ」

「嘘ついたじゃん」

「ごめん!」

 僕は素直に謝る。

 彼女は僕の目をのぞき込む。

「……許さないから」

 そう言って、穂谷はそっぽを向く。その横顔を、とても愛おしく感じた。

 穂谷はそっぽを向いたまま、床に置いていた菓子折りをベッドの上に置いた。

「何これ?」

「工藤さんから。渡してくれって言われた」

「……なんで?」

「私が知るわけないじゃん」

 僕はこの地方で有名なその銘菓を眺めながら、工藤さんについて考えてみる。

 工藤さんが、僕の告白への返事をはぐらかせてきた理由について。

 きっと、どこかで、僕も期待していたけど。

 やっぱり、工藤さんはそのままのひとなんだと思う。

 好奇心というか、誰にでも興味を持って、誰とでも仲良くなりたがるのかもしれない。

 それが高じる形で、たまたまというか、ボタンの掛け違いというか、何かの拍子で今のビッ

チという状態になったんだと思う。やっていることはアレでも、実際のところ、本人に顧みる

つもりも改めるつもりもないのだろう。

 この菓子折りを観るに、工藤さんにもどこかで自分を冷静に、客観的に、これでいいのかと

悩んだりする部分があるのかもしれない。今までの僕の認識からすれば、直接見舞いにくるか、

まったく来ないかだと思う。

 菓子折りを穂谷に託すことが、何を意味するのか。

 僕はそのことについて、考えてみたけど、結局何も分からなかった。

 きっと、工藤さん本人に聞いたところで、はっきりしたことは何もわからないような気がす

る。

「……セイヤ?」

 気遣わしげな顔に気付く。

「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」

「……そっ」

 まだ機嫌が直っていないのか。

 そう思い、やれやれ系主人公を気取ろうとしたところ、

「話、聴かせてよ」

「え?」

「両腕折るまでの話を聴かせてって、言ったの」

「……恥ずかしいからヤダ」

 拷問の魔の手が僕の顔を狙って向かってきたので、ヘッドスリップで避ける。執拗な動きに

堪らず弁明を口にする。

「わかった! わかった! 話す話します話させてください!」

「……よかろう。苦しゅうない」

 それから僕が、事の顛末を話した。

 ところどころ隠蔽したり、改竄したのはご愛敬ということで。

「私の話も聞く?」

 穂谷が、その力強い視線を僕に向ける。

 いつもその目をドライだな、感情が見えないな、と思っていた自分は、なんだったのだろう。

 そう思ってしまうくらい、輝いていた。

 すごく魅力を感じた。

「聴きたい」

 その目から、目を離せなかった。

 穂谷は優しげに目を伏せてから、口を開く。

「……私ね。ちっちゃいころから冒険が好きだったの。小学校も六年生になるくらいまではず

っと男の子たちとばっかり遊んでて。でもまぁ、ありがちな話なんだけど、誰それが私のこと

好きだとか、ママからはもっと女の子らしくしなさいとか、周りの女の子の態度とか。いろい

ろあって、方向転換を余儀なくされたってわけ。でも、言い訳だよね、これって。結局私は、

臆病だったんだと思う。ただ、冒険に憧れてただけなんだと思う。それからの私は、ずっと本

を読んできたの。その中でなら、冒険が、私にもできたから。でもね、どこかでずっと退屈し

てた。退屈なのは、やりたいことが分かってるのに、勇気が出ずにずっとモジモジしてるだけ

の子供だったからって、気付いたんだ。

 そんなとき、セイヤを見かけたの」

「俺?」

「そう。みんなが噂してたって言ってたでしょ。その頃の私は結構枯れちゃっててさ、モデル

とかやっちゃって、擦れてるっていうかひねてるっていうか。冒険のぼの字もないような生活

だったわけ。そんなときセイヤの話を聴いて、最初はちょっと嫉妬した。でも気になって、見

に行った。探した。そして見つけた。結局、好きなものはどんなに誤魔化してみても、好きな

んだって、今ならわかるよ。それで気になってずっとセイヤのこと見てた。ずっと見てると、

いっつも学校にいるときは不貞腐れてるのに、学校の外で見てるとすっごく活き活きしてるの。

それであぁ、この人は私と一緒だって思ったんだ。そう思ったら、やっぱり、私は冒険が好き

なんだって、ワクワクするのが一番好きなんだって、気付いたの。自分が入れられないから、

勇気が出ないから、嫌いになったふりして遠ざけてたものを、セイヤは近くまで持ってきてく

れたの」

「そんなことしてないよ」

「いいの。ただ私が言いたかっただけだから。ただ、もうひとつだけ言わせて」

「何?」

「さっきも言ったけど、私小学校から恋愛ってすっごく嫌いだった。

 だって、みんな嫌な奴になってくんだもん。それまで普通に仲良くしてたり、楽しい思い出

とか一緒に作ってきたのに、恋愛は全部私からそういうものを奪っていくんだもん。きっとど

こかで私は、いつか来る冒険のときの仲間としてみんなを見ていたのかもしれない。そんな大

切な人を変えてっちゃう恋愛が嫌いだった。

 でもね。本当は私も恋愛をしたかったんだって分かった。恋愛とか友情とか仲間とか、全部

一緒に考えてたの。

 本当に仲間なら、ちょっとやそっとのことで離れていったりしない。

 そういう人と恋人になるのって、すごく……すっごく、イイ感じ!」

 そう言って指わっかを頬に当てて、穂谷はおどけて魅せた。穂谷さん一世一代渾身の照れ隠

しいただきましたありがとうございます。

 でも、その力強い視線に見合うだけの言葉を、僕は持ち合わせていない。

 おまけに両手が使えないし、この気持ちをどう表現したもんか、困ったところだけど、そし

て滅茶苦茶恥ずかしいけど。


 思えば、僕が廃病院に夢中になっている間。

 それはつまり、僕が生き方に迷って、悩んで、現実逃避をしている間のことなんだけど。

 そのとき、

「あぁ、こいつはもうダメだ。付き合ってらんない」

 って、みんな離れてって。自分の周りには、誰もいない、僕はひとりなんだって思っていた

とき。

 そんなとき、穂谷だけがきっと、そんな僕に共感して、存在価値を、見出してくれてたんだ。

 まずは、そこから。

 その感謝の気持ちから、伝えようと思う。

「……ありがとう」

 情けない話だけど、そんな言葉しか、浮かばなかった。

 穂谷は続きを待ってくれている。

「俺のことは、頼りになる仲間だと思ってくれていいよ。なんせ、五階から落ちて生還した男

だからね」

「そうだね。頼りにする」

 そう言って、穂谷は儚げに笑う。

 ……まだだ。

 まだ踏み込みが甘い。

「それに廃病院同盟は永久不滅さ。僕たちは終生のチーム。死ぬまで仲間さ」

「うん」

 ……違う。僕が言いたいのは、そんなことじゃなくて。

「……だけど。

 もう廃病院はなくなっちゃったし、イエナシさんは専門学校に通うことになったし、もうそ

ろそろ俺も退院してまぁ、人並みというか、一般的なというか、当たり前のこととか一丁前に

やってみようかと思ってて。まぁ、みんなバラバラになっちゃったけどさ、ほら、サトシとピ

カチュウは新シリーズになってもずっと出ずっぱだったりするじゃん。そんな感じでさ、ちょ

うど同じ冒険好きの穂谷とかさ、ちょうど新しい門出にちょうどいいっていうか、なんていう

か、おあつらえ向きというか、ええっとだからさ。だから――」

「――俺、穂谷のことが、好きなんだ。

 だから、これからも、僕と一緒にいてください」

「はい」

 穂谷が嬉しそうに微笑んだ。

 天使だと思った。

「付き合うとか、正直よくわからないけど。

 まだまだ普通ってなんなのかもよくわかないし。

 冒険したいんだ。色んなワクワクを諦めたくないんだ。

 だから、これから、よろしく」

「……今度は、二人一緒に冒険するんだからね」

 そう言って笑う穂谷の笑顔を見て、僕は晴れて退院することができた。



                                (完)


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ホスピタライジング 西平井ボタン @gloglo2024

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ