第8話

小高は恵理ちゃんのことが、高校に入ってからずっと好きだったらしい。

 だから一昨日の夕方、河川敷を上杉と恵理ちゃんが二人で歩いていたのがショックだった。

周平が彼女か? と聞いた時の反応で、気付いてしまったみたいだった。恵理ちゃんは上杉の

ことが好きだと。

 そのショックは、恵理ちゃんが好きな相手が上杉だったことで更に拍車がかかった。高校に

入ってからの上杉は、なんだか前より自分に対して冷たいような感じがしていて、言外にお前

とは住む世界が違うんだって言われているような気がしていたからだ。

 家に帰ると親父さんが酒に酔ってて、悪絡みしてきた。小高はむしゃくしゃしていて、親父

さんを思わず突き飛ばした。床に仰向けに倒れた親父さんはこう怒鳴ったそうだ。

「お前はなんでそんなに自分勝手なんだ!」

 それを聞いて、小高はもう何が何だか分からなくなった。

 お袋さんがいなくなった後、家事を一手に引き受けていたのは小高だった。

 これ以上何をすればいいのか分からなかった。

 これ以上何を差し出せばいいのか分かりたくなかった。

 その夜、見慣れないアドレスでメールが届いた。それが工藤さんからのメールだった。

 唐突過ぎるメールで、下手をすると迷惑メールのような突拍子もない話がそこには書かれて

いた。ずっと好きだったとか、抱いて欲しいだの。

 メールの文末には、「明日午後一時に丘高の正門で待ってます」と書かれていた。

 小高はそれに「オッケー」と返した。自棄になっていた。それに、上杉と付き合ってる女を

寝取ることで少しは気が紛れるかもしれないと思ったからだった。

 それを聞いたとき、僕はたった今飲み干したお茶を盛大にぶちまけながら、思わず口を挟ん

でいた。

「ガハッ、ブフォッ、ゴ……ちょ、ちょ、ちょっと待って。……ん? 付き合ってる? 工藤

さんが? 上杉と?」

「うん。みんな知ってたんだと思ってた。すごい有名だったし」

 周平を見る。無言で頷く。井上を見る。

「あれ? お前が今日の昼言ってた工藤さんって、五組の工藤さんじゃないの? あのクソビ

ッチの方なの?」と驚く。僕はその倍驚く。

「いつからぁぁ!!」

 叫んでいた。

 叫ばずにはいられなかった。

 湯呑をガラス戸に叩き付けようとして、すんでのところで止める。

 しばらくそれを所在なさげにシェイクする。

「え? 去年の秋ぐらいからかな? あの上杉がクソビッチと付き合い始めたってたぶん、東

高と丘高の同学年の間じゃ認知度高い話だったと思うけど」

「そうか」肩で息をする。「じゃない。クソビッチってなんだ?」

 嘘だろおい。言葉にならない。

「え? セイヤ知らなかったの? 工藤って中学の時からこの辺じゃ有名なクソビッ『クソビ

ッチはやめろ!』チだったんだよ。頼めば誰でもヤラせてくれるって」

 僕は頼んだけど付き合ってもらえなかったぞ! と叫びだすのを必死で堪える。泣きたくな

った。でももうそれはそれでどうでもいいような気がした。終わったことだと、納得すること

にした。

「取り乱しました。申し訳ない。続きをどうぞ」

 僕はそうやって早く次の話題に移るようにした。

 事情を知っている井上だけがケラケラと笑っていた。座禅を組んで足の裏の上に置いた湯呑

をギュッと握りしめる。

 ……温かかった。

 小高はとりあえず次の日、学校に行った。自分が通う東高に。

 学校に着いて自分の教室に入るときに恵理ちゃんに声をかけられた。その時は、相当胸が痛

んだそうだが、それを赤裸々に語る小高に僕は、よっぽど僕の胸の方が張り裂けそうだったけ

どね! と嫌味のひとつでも言ってやろうかと口まで出かかったが、湯呑で防ぐ。が、中身が

入ってなかった。

 ……湯飲みに残った温かさだけが、唇に伝わるのを感じた。

「もしよかったら、生徒会に余ってる備品で処理に困ってるものがあるんだけど、引き取って

くれないかな?」

 その恵理ちゃんの申し出に、即答で頷いたそうな。

「それが、……赤い羽根だったんだ」と小高は言った。

 僕たちは目が点になる。

「どういうこと?」

 周平が訊く。

 赤い羽根のせいで一番被害を被ったのは周平だった。痣だらけの周平の顔面を改めて見てい

ると思わず笑ってしまいそうになるので、目を逸らす。

「いや、よくわかんないけど、とにかく恵理ちゃんにそう言って渡されたんだ。それでそのま

ま普通に授業を受けて昼休みになってから学校を出たよ。丘高についたのは少し早かったかも

しれないけど。到着すると確かに工藤は正門の前にいて久しぶりーとか言いながら早速腕をつ

かんできたんだ」

 湯呑を握力で粉々に出来まいかと挑戦してみる。セイヤ湯呑を粉砕。

「それで工藤は会って早々に『エッチしようよ』と言ってきた」

 うぅーとうめき声をあげだした僕に一瞬怯む小高に「気にしないで。続けて」と井上が先を

促す。

「『ホテルは入れないしさぁ。どこか良い場所知らない?』って言われて真っ先に廃病院が浮か

んだ。迷ったけどいいかと思った。自棄になってた。俺、どうかしてたんだ。本当ごめん!」

 そう言って小高は畳の上に額をこすりつける。

 僕は何か言おうとする前に周平が思い切り小高の頭をはたく。

「謝るのは最後にしやがれ。俺のところで謝らないつもりじゃないだろうな?」

 一瞬しんみりしかけたけど、周平が喋るとどうにも、調子に乗ってたピエロがボコボコにさ

れた後にぶつくさ言ってるイメージが湧いてきて笑いが止まらなくなった。

 僕は必死にそれを耐える。小高が頭をあげる。

「わかった。それで廃病院に行ったんだけど、いつものブロックの下に鍵がなくてさ、せっか

くヤレると思ったのにまたこれかよ! って頭に血が上って気付くとドアを蹴ってた。それで

工藤がイエナシさんの存在に気付いて、俺も自分がやってることに気付いて、その場を急いで

離れたんだ。そのあとはいくつか場所を探して転々としたけど、どこも明るかったり人通りが

多かったりしてダメだった」

 僕の中にその「ダメだった」が反響する。

 こだますうちに、変換されていく。

「あともう少しでヤレた」

「ヤリ損ねた」

「余裕でヤレるはずだった」

「たまたま運が悪かっただけ」

 その「ダメだった」をどう変換してみても、「告白の返事をもらえなかった」にはならなかっ

た。

 湯呑は空だった。

 お茶の代わりに苦汁を飲む。

「だからその日は工藤と別れた。それからもムシャクシャしてたからセイヤや周平をたこ焼き

に誘った。なんかそれすらも情けなくてさ。虚しくなっちゃって。自棄食いしてるところにセ

イヤが美少女連れてくるからさぁ。それで八つ当たりしちまった。すまん」

「いいよ。いいよ」そんなことどうでもいいよ。と気が抜けきっていた。

 あぁ。そうかぁ。工藤さん。そうかぁ。

「美少女って穂谷さんのこと?」と井上。

「そう。それで廃病院のことがバレてるとかで余計苛々して。で、裏口手前まで来てセイヤが

今日は引き返そうなんて言うからさ。また頭に血が上ってさ」

「お前頭に血が上り過ぎてないか? 早死にするぞ」と井上が冷静に忠告し、小高は素直に「そ

う。気を付けようと思ってる」と言った。

「それで中に入ってゲームやり始めたのはいいけど、イエナシさんとセイヤたちの話が聞こえ

てきてさ。レッドウィングズとか、募金詐欺とか。それでなんとなくヤバいなって思ったから

咄嗟に周平の鞄に赤い羽根全部移そうと思って」

「そこ! なんでそうなるの!」周平のツッコミに、小高は平に平に謝る。

「それでその夜みんなと別れたあと、また工藤からメールが来て、「明日の朝九時にまた待って

ます。ちゃんとヤレる場所見つけたよ」って書いてあった。その日は完全に不完全燃焼だった

から即オーケイして、次の日は朝から丘高に直接向かった。時間通りに合流して、そのままシ

ョッピングモールに向かった。そのときセイヤのあの録音のことを思い出した。思い出しただ

けで特に気には留めなかったけど」

 そこで一呼吸おいて、小高はお茶をすすった。

 四人一様にお茶をすすった。

「案の定、工藤はゲーセン横の多目的トイレに向かった。段々このままなんとなくついていっ

て大丈夫かって不安になったけど、結局そのまま二人で多目的トイレに入った。心臓がバクバ

クいってたけど、何が原因でそうなってたのかわかんなかった。どうにでもなれって思ったと

き、ドアを滅茶苦茶殴られて、気が動転した。工藤も俺と同じで顔が真っ青になってた。その

ままそこにいる以外、他にどうしようもなくて、しばらくすると音はやんだけど、すぐにまた

ドアがノックされて、『大丈夫ですか!』っておっさんの声がした。店の人間か警備員かわかん

なかったけど、俺はドアを勢いよく開けて工藤を残してそのまま飛び出した。

 ショッピングモールを出たあとも、動悸が収まらなかった。居てもたってもいられなくなっ

て、それで誰かに連絡しようとした。でも、誰も連絡できる人がいなかった。罪悪感はあった

けど、周平には連絡した。赤い羽根を持ってたからって何か悪いことに巻き込まれるなんて思

わなかったから。それで待ち合わせをたこ焼き屋にしたけど……」

 僕たちは続きを待った。

 小高は必死で何かを考えていて、何か声をかけられる雰囲気じゃなかった。

 小高が口を開く。

「それで……うまく言えないんだけど、どうしても、廃病院に行きたくなった。

 本当に、理由は分からない。

 でも、行かなきゃいけない気がしたんだ。

 ずっと心臓が爆発しそうなままで、廃病院に行けばこれが落ち着くような気がした。廃病院

で周平といつもみたいにゲームとかやってれば。

 ……そこからは、たぶん周平から聞いてると思うけど、刑事が来て、俺はまた一人で逃げて、

ずっと隠れてた。若い刑事はしばらくすると元来た道を戻って行ったけど、しばらくそこでう

ずくまってた。そうしたら周平が柄の悪い連中に連れていかれてるのを見た。でも、足が動か

なかった。助けようとは思っても、全然身体が動かなかった。震えるだけで、何も出来なかっ

た。しばらくそこで、ずっと一人で震えてた。震えが収まって、周平が連れていかれた方に向

かってなんとか歩いて行った。ずっと坂を上って、気付くとひらけた公園に出てて、連中がグ

ラウンドのフェンスの陰に大勢隠れてた。何が起こるか分からなかったけど、周平を見つける

ためにずっと見てた。そうしたら、セイヤと君が来て、連中に囲まれた。

 ……そのときも、俺は何も出来なかった。何回も何回も助けなきゃ助けなきゃって、飛び込

め飛び込めって思ったんだけど、震えるだけで何も出来なかった。膠着状態になって、頭がや

っと働くようになって通報しようと思った。そのときも、さっきの刑事たちの顔を思い出して、

携帯のボタンを押す指が止まった。でもやっとそのボタンだけはなんとか押せた。電話に出た

人に状況を説明している間に連中がセイヤ達を襲い掛かろうとして、俺は目を背けることしか

出来なかった。

 そのときどこかからバイクの音がして、ヒロトが来た。あの時のヒロトはかっこよくてさ、

逆に俺がどんだけ情けないか痛感した。ものすごく惨めだった。セイヤも、周平も、ヒロトも、

君も、みんながかっこよかった。俺だけが、死にたくなるくらい屑だった。だからせめて、謝

ろうと思った。謝って死ぬまで殴られようと思った。それ以外のことは、怖くて何も出来なか

った……」

 僕たちの間に沈黙が漂った。何か言葉をかけようと思った。でも、何を言ったらいいのか分

からなかった。

 小高のお袋さんのこと、今の家のこと、学校でのこと。僕と似ているとこもあるけど、まっ

たく違うところもある。全部ひっくるめて混ぜ合わせて、小高の問題だった。だから僕から言

えることは何もなかった。

 でも、何か言えるんだとしたら。

「お前のせいじゃないよ」と僕は言った。

 小高が顔をあげる。くしゃくしゃになっていた。

「俺たちみんなが抱えてる問題それぞれが、全部違ってて、だから俺たちがかっこよかったこ

とと、お前が惨めだったことは比べることじゃない。俺たちはかっこいい選択肢を選んだかも

しれない。お前は間違った選択肢を選んだかもしれない。でもそれはたまたまの話で、俺だっ

て今まで相当間違ってきたし、今回たまたま正解にありつけたってだけだ。これからも相当間

違ってくだろうし。だからさ、……結局俺が言いたいことは、いつも一緒に正解か間違ってる

か、答え合わせするのが友達だろってこと」

 言い終えると小高が胸に飛び込んできたので、反射で思い切り殴る。

「ボーイズラブなんて言わせねぇぞ!」僕は雄たけびをあげる。小高はなんで殴るの? と悲

しみのこもった目で僕を見た。

「かっこつけるな! クソビッチに振られて泣いたくせに!」

 井上は僕の秘めたる恋愛事情を暴露する。

「あっ! お前ふざけんなよ! つか、泣いてねぇし!」

「お前本当かよ」と周平が目を丸くし、小高が「本当にごめん! でもヤッてないから!」と

手を合わせる。

「てかさ、あのクソビッチ、変態剣道プレイが好きって本当なん? 生徒会室でヤッてたの見

たってヤツがいるんだけど」と井上。

「それは本当。中学からのやーつ」とうれしそうな周平。

「ごめん! 俺そういうのも期待してた!」と小高。お前もうふざけてんだろ。

「やめろ! 余計辛いわ! あと、周平、もう俺無理、お前の顔見ると笑い堪えらんねぇ」

 驚いたり嬉しそうだったり変化する周平の顔を前にして、笑わないやつがいるわけがなかっ

た。僕の一言で改めて周平の顔を見た井上と小高は爆発的に笑い出した。

「お前ら、ちょ、えぇ! 小高笑うぅ! そこ笑うぅ! こうなったのお前のせいなんだけど! 

そもそもお前がフラれた女のものをへこへこ貰ったりするからこうなったんだろうが! この、

ちょ、マジでやめろ。マジで笑うのやめろ。特に小高はやめろ。据え膳小高ぁ! やめろぉ!」

 周平が騒げば騒ぐほど、僕たちの笑いは止まらなくなっていった。

「あー、ひぃ、……あぁ、おい、井上、お前だけ暴露なしはずるいぞ!」

 僕は井上に照準を合わせた。小高と周平も、それに乗っかる。

「おぉ! 鬼が出るか蛇が出るか! さぞすごかろう!」

「よっ! 待ってました! 大本命!」

 何故か据え膳小高に相当ツボっていた井上は、笑いを止めるのが大変らしく、それを必死で

抑えながら言った。

「あぁ、ひゃっひゃっひゃ、はぁー、はぁー、あっあっひゃ。あー。分かったよ。俺のとって

おきの秘密、教えてやるよ」

 それを聞いた僕たちはまた十分間くらい笑い転げることになった。笑っていると、奥の台所

でなんと僕たちの夕食をこしらえていた須江さんがごはんを載せた盆を持ってやって来た。

 泣きながら笑い転げる僕たちを見て、須江さんは心底不思議そうに、

「アンタたち、何がそんなにおかしいの?」

 それでまた僕たちは笑い出した。分からなかった。なんで笑ってるのか、全然分からなかっ

た。

 分からないことは、おもしろいんだと結論をさっさと出して、また笑った。



* * *



 飯を食い終わると、僕は須江さんに電話を借りた。暗い廊下からガラス戸越しに月を見る。

 満月だった。いい決闘日和だと思った。

 居間ではまだ井上が据え膳を気に入っているらしくずっと箸が進まない状態で、小高もさっ

きの井上の話が相当お気に召したようで何か口に入れてもそれを勢いよく吐き出してしまい、

それを見て周平が一向に食べ進められないといった混沌が繰り広げられていた。

 僕は笑みをたたえたまま、そいつの携帯に電話をかけようとして、いいことを思いつく。

 僕はヘラヘラ笑いながら電話を掛ける。

 ……そいつが出る。

「今、どこ?」

「……誰だ?」そいつの息遣いを聞く。

「お前を懲らしめる奴だよ」

「……セイヤくんか。なぁんだ。びっくりしたよ」

「その気持ち悪い喋り方、流行ってんの?」

 話題を逸らしてあげる。お前はなんでも思い通りにしようとするから、こんな悪い奴になっ

たんだってことを思い知らせてやる。

 だいたい、僕のことを君付けで呼ぶ奴は、大抵内心で僕のことを内心で見下してる奴だって

相場が決まってんだ。

「どうかな? 流行は知らないけど。一応、僕のオリジナルだよ。それで何? 何の用?」

「お前、屋上とか上がったことないだろ?」

「……」

 よし。かかった!

「今日は満月だし、屋上にでもあがって、一緒に月見でもしねぇかなぁって。ほら、俺もお前

にいっぱい喋りたいこととかあるし」

「……いいねぇ。どこの屋上?」

 すっとぼけやがって。僕は皮肉を込めながら爽やかに言い放った。

「廃病院って知ってる? 今からそうだな、……一時間後くらいにそこに来てくれよ」

「わかった。じゃあまたあとでねー」

 電話が切れる。受話器を置く。



* * *

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