第7話

 ――ヒロトは僕と同じ中学の同級生だった。

 楽しかったあの日々を共有した仲間の一人で、同じ野球部だった。上杉と仲良くなる前は、

僕はヒロトと一番仲が良かった。一年生だった一年間は一日中ヒロトとつるんでいた。

 最初の夏休みくらいから、ヒロトは段々と変わり始めていった。

 僕も鬼ごっこ仲間たちも、それに気付いていたけれど、一緒にいる間はいつも通りだったの

で、特に何も言わなかった。

 冬休みが明けて、三学期になるとヒロトは学校に来なくなった。噂では柄の悪い先輩とつる

むようになった、とのことだった。二学期の半ば頃からヒロトは部活にも来なくなっていた。

僕が「どうしたんだ?」と聞いたとき、「あんまりおもしろくねぇし、辞めようかなと思ってる」

とヒロトは言った。それが本心だとは思わなかったけど、僕は「そっか」と言っただけだった。

その時の僕は、楽しいことに夢中になっていて、それ以外のことに関心が向かなかった。冷た

いというよりは、子供が時として残酷なように、無頓着なだけだったんだと思う。だから後々、

いろんなものを失う破目になったのだが。

 そのまま、僕とヒロトは疎遠になっていった。学校に来た時も、ヒロトは校舎のどこかでタ

バコを吸っているらしかった。段々と仲間が欠けていくことにしか意識がいかなかった僕は、

結局のところ、自分のことしか考えてなかったんだと思う。

 中学を卒業をしたあと、ヒロトの行方を知るものは誰もいなかった。――



――「まぁ飲めよ」

 そう言って差し出された缶コーヒーを素直に受け取る。二つ渡されたので一つを井上に渡す。

一応礼を言っておく。

「サンキュ」

 ヒロトはそれに応えず、タバコに火をつけた。

 僕たちは球場の三塁側ダグアウトの中のベンチに三人で座っていた。周平はすぐそこで横た

わっている。一応、逃げられないように包囲網はまだ解かれていない。

「ヒロト、俺たちもどういうことかよくわかってないんだ。説明してくれないか」

 僕がそう切り出すと、ヒロトはふーっと煙を吐きながら横目で僕を見る。

「学校は楽しいか?」ヒロトは僕の言葉には答えず、そう言った。その態度にカチンときた。

「そんなのは後でいいだろ! 周平をこんな風にして。何が起きてんのか説明しろ!」

 名前が聞こえて周平は少しうめいた。井上は黙って様子を見ている。

「話す前に、今のお前の人となりを知っておきたかったんだ。悪いな」

 落ち着いた様子でそう言うヒロトに、僕は勢いを削がれて「こっちこそごめん」と謝る。さ

っきの幹部を馬鹿にしていた自分を思い出して余計に恥ずかしい。

「どうやら俺たちははめられたらしい」

 しんみりとヒロトが言う。

「俺たちって俺たち?」と僕はヒロトと自分と井上を指さす。

「そっちのお前は巻き込まれただけだろ?」

 そう言ってヒロトは井上にガンをつける。これも人となりを窺うためだろうか。

「まぁ間違いなくそうだろうな」井上もヒロトを見返す。なかなか肝の座ったやつだと感心す

る。ヒロトはふんと鼻を鳴らしながら前に向き直ると続けた。

「この辺で最近、いろいろ起こってんのは知ってるよな?」

 その前置きに僕は頷く。

「レイプに詐欺に売春。その全部が俺たちの仕業ってことになってる」

 そう言うとヒロトは深く煙草を吸う。

「売春? 西谷そんなのあったのか?」井上が僕に聞く。

「いや、知らない」と返すと、

「レイプした女を脅して売春させてるらしい。話の筋書きだと、レイプした女を使って売春を

強要して金をかき集めたり、金の動きをごまかすために募金活動で得た金にそれを混ぜて暴力

団の資金源にしているとか。まぁその募金も完全に詐欺だけどな」

 なるほど、と納得するが、僕もはめられたってのはどういうことだろう? なんだか話がや

やこしくなってきた。

「とにかく警察の中では、お前たちレッドウィングズがそういうことをしてるってことになっ

てるってことか?」

 ヒロトがチッと舌打ちをする。

「悪ぃ。そんなつもりじゃないんだ」と謝る。

「いや、違う。お前はその『レッドウィングズ』っての、どこで聞いた?」

 僕は正直返答に困った。イエナシさんのことをどう説明していいか分からなかったからだ。

「知り合いのお兄さん、かな」

 そう言うとヒロトは僕の目をのぞき込む。僕はそれを見返す。

「まぁいいや。はっきり言うと、俺たちにチーム名なんてねぇし、レッドウィングズなんて一

度も名乗ったことはねぇ。俺たちをはめたやつが、そういう噂を撒き散らしてんだ」

 一瞬、イエナシさんのことが脳裏に浮かんだ。

 イエナシさんが噂を流す?

 でもなんのためにそんなことを?

 疑問が疑問を呼ぶ。僕もはめられたってことは、イエナシさんが僕を陥れようとしたってこ

と? 何のために?

 訳が分からなかった。頭の中が「?」祭りだった。続きを聞くことにした。

「それでなんで周平がボコボコにされるの?」

 そう言うと、ヒロトはがっくりとうなだれた。はぁーと盛大にため息をつく。バッと顔をあ

げ、ダグアウトの上に向かって叫ぶ。

「おい! まだか!」

「はい!」と上の方から声が聞こえて、男が一人大きなビニール袋を手にもってダグアウトに

入ってきた。

 と同時にヒロトはベンチの上に膝をつき僕に向かって土下座した。

 何が何やらと慌てていると、

「すまん! 俺たちの勘違いだ。許してくれ!」

 さっきまでの落ち着いた様子からの変わりように驚く。ビニール袋を持った男も目を丸くし

ている。

「えぇー。ちょっと、まだよくわかってないんだけど。俺は気にしてなくもないけど、周平に

直接言った方がいいんじゃない?」

 そう言うと、ヒロトは顔を上げながら言った。

「いいのか? ダチがやられたんだぞ」

 取り返しのつかないことをした。そう目が語っていた。

 本当に辛そうに歪んだその顔を見て、あぁ、ヒロトはこういうやつだったなと思い出した。

 どういう経緯があって、ヒロトが今のようになったかは知らない。

 でも、ヒロトはヒロトだ。そう思ったら、自然に笑顔になった。

「いいよ。友達同士なら、喧嘩することもあるでしょ」

 そう言うと、ヒロトは始めて笑った。あの頃の面影が、その中に見えた。

「そっちのあんたも、すまなかった」

 ヒロトが井上にも謝る。井上は、

「西谷がいいならいいんじゃない」とだけ言った。

「ちょっと手伝ってくれるか?」

 ヒロトは立ち上がり、ずっと突っ立っていた男からビニール袋を受け取り、周平の側に座っ

た。人の気配に気づいて、周平が薄目を開けた。

「周平。すまん。俺の仲間が勘違いしたみたいで。あとで俺のこと好きなように殴っていいか

ら」

 心配そうに顔を覗き込むヒロトに周平は、

「……モデ、ル。……ってくれ」

「ん? どうした?」

 周平は大きく息をついて言い直した。

「欲しい、プラモデルが、……あるんだ。それ買ってくれたら、チャラにしてやるよ」

 ヒロトが泣き笑いの顔で何回も頷く。

「あぁ。あぁ。わかった。いくらでも買うわ。ほんとにすまん」

「もういいって」

 周平は口をニヤッと横に広げた。僕はそれを見て、なんか泣きたくなった。

 ヒロトと二人でビニール袋に入っていた消毒液やら何やらで、周平の手当てをした。井上も、

なんだかんだ言って手伝ってくれた。



 手当をするうちに、周平の意識は段々はっきりしてきた。

「タバコくれよ」周平がねだった。

 ヒロトが箱ごと周平に渡す。お前は? と目で訊いてきたので、

「持ってるから」と学生服のポケットからイエナシさんの煙草を取り出す。

 ヒロトがニヤッと笑う。中から一本取り、井上にボックスを差し出す。

 井上はしょうがねぇな、といった感じでそれを受け取り、四人でタバコを吸う。最初のひと

吸いで、同じように周平と井上がゴホッゴホッとせき込むと、四人で笑った。

「それで、結局なんだったの?」

 井上が切り出した。ヒロトは渋い顔で目尻を掻く。

「俺が仲間から聞いた話では、周平が赤い羽根を撒きながら住宅街をスゲェ走ってたからって

ことだったんだけど」申し訳なさそうな顔でもう一度周平に謝ろうとする。

 それをタバコを指の間に挟んだ手で制すと周平が続ける。

「それなんだけど。俺、小高じゃないと思うんだよね」と呟く。

 脈絡のない発言に頭が混乱する。なんでここで小高の名前が出てくるんだ? 赤い羽根を撒

きながら? 何をやってたんだ?

「どういうこと?」

 みんなの戸惑いを代表してヒロトが訊く。周平はここまでの間に起こった出来事を話し出し

た。――



 ――周平の話によると、昼前に小高からメールが来て、今から昨日のゲームの続きをしよう

と誘われたらしい。

 周平は一も二もなく了解して、昼休みになるとたこ焼き屋に向かった。だけど、たこ焼き屋

に行っても小高はいなくて、おかしいな、と思っていたらメールが届いて、廃病院に来てくれ、

と書いてあった。

 前日のイエナシさんの「大人しくしていよう」という話を受けて、それはやめた方がいいん

じゃない? と周平は返した。すると小高から、いいから来い、と取り付く島もない返信が来

て仕方なく廃病院に向かった。廃病院に行くと、ボイラー室の手前で小高は地面に座ってゲー

ムをしていたようで、顔をあげて「おぅ」と声をかけてきた。そのおどおどした感じから、周

平は嫌な予感を感じ場所移動を持ちかけたが、病院の中に入らなきゃ大丈夫だろ、と一蹴され、

警察やレッドウィングズが来たらどうするんだ、と聞くと、小高はそのとき一瞬だけ焦った様

子を見せたのをごまかすように、昼だから大丈夫に決まってんだろ! いいから座れよ! と

癇癪玉を破裂させた。

 周平は、小高の様子や、昨日の話から、どうにかして言い包めようと思いつつも、とりあえ

ず小高を落ち着かせるためにゲームを始めた。すると自分がそれに熱中してしまって、考えて

いたことが全部ぶっ飛んだらしい。笑ってられる状況じゃなかったが、それを聞いたときみん

な思わず笑ってしまった。

 ゲーム機を持って我を忘れてのめりこんでいると、ふいに気配を感じたのでそちらに目を向

ける。すぐそばに背広を着た二人の男が立っていた。

 思考停止した頭を動かして小高を見ると、本当にビビりきった顔で二人の男を見上げていた。

 二人の男のうち、一人が背広の裏ポケットから手帳を取り出して周平と小高に見せながら言

った。

「君たち、ここで何してんの?」

 不愛想に不機嫌をまぶして高圧的な態度でキャラメリーゼしたような奴だった。答えられな

いでいると、もう一人の若い刑事が続けて、

「名前と住所、教えてくれる?」と言った。

 小高は微動だにせず、まったく役に立たないと思った周平はとりあえず、

「何かあったんですか?」とだけ言った。

 不愛想な刑事は本当に苛立たしそうにふん、と鼻をならし、若い刑事がニヤつきながら答え

た。

「通報があってね。この病院に誰か出入りしてるって」

 それを聞いてすぐに周平は言った。

「僕達じゃないですよ。現に入ってないじゃないですか」

「いや、一応ここも病院の敷地内だから。不法侵入だから、これ」と若い刑事は笑顔を作った

まま突き放すように言った。

 そのとき、「周平逃げろ!」と小高は走り出した。すぐに若い方が小高を追いかけていく。

 遅れて鞄をつかもうとした周平は、不愛想な方にガシッと肩を掴まれた。すぐに無理だ、と

観念した周平は、「どうしたらいいんですか?」と従う姿勢を見せた。

 不愛想な刑事は最初からそうすればいいんだ、とあからさまにふんぞり返り言った。

「名前と住所。あと、鞄の中身も見せて」

「はい」と答えて鞄を差し出す。中を漁り始めた不愛想な刑事に向かって名前と住所を口頭で

伝えた。中を調べ終えて、サイドポケットを開いた刑事は「お前! これ」と驚いたような、

怒っているような声を上げた。周平も鞄を見ると、中には大量の赤い羽根が入っていた。

 不愛想な刑事は周平を睨みつけた。とっさに周平は、

「知らない! こんなの。俺のじゃない!」と否定したが、不愛想な刑事は「とりあえず、署

まで来てもらうぞ」と言い腕をつかんできた。かなりの力で、状況が芳しくないことと逃げな

きゃマズいことも分かっていたが、逃げようがないことも悟っていた。

 不愛想な刑事は、とりあえず若い刑事が戻ってくるまで待つつもりのようだった。

 小高が裏切らなければ、と恨んだが、観念したことで落ち着いて状況について考えられるよ

うになった周平は、もともと小高は様子がおかしかったし、イエナシさんの話をあいつも聞い

ていたのになんでわざわざ廃病院でゲームしようなんて言ったのだろうか、と冷静になった。

 去り際に放った「逃げろ!」を反芻した。

 憶測で考えてもしょうがない。小高に直接聞くしかないと思った。

 ちょうどそのとき、不愛想な刑事の携帯が鳴り、刑事が出ると、おそらく若い方が何やら報

告しているようで、それを一通り聞くとチッと舌打ちして「分かった。戻ってこい」と言って

電話を切った。どうやら小高は逃げ切れたらしい。周平は、若い方が戻ってくる前になんとか

逃げる隙を見つけようとしていた。不愛想な刑事は相当苛々しているようで、タバコを取り出

してそれに火をつけようと一瞬周平の腕から手を放した。

 周平がしゅんとした様子だったので、慢心していたのだろう。

 その隙を逃さなかった。地面の鞄をサッとしゃがんで掴むとそのまま地面を蹴って駆け出し

た。制服を掴まれたが、持っていた鞄を叩きつけてその腕を振り払った。その時開いたままだ

ったサイドポケットから赤い羽根が飛び散った。

 周平はそれに紛れるようにして全速力で逃げた。――



――「それでそのまま赤い羽根をヘンゼルとグレーテルみたいに道にばら撒きながら走ってい

たところをヒロトの仲間に見られて捕獲されたと」と、僕はまとめた。周平が頷く。

「ところで赤い羽根ってさ――」と僕が言いかけると、

「そう。募金詐欺をやってた奴らはどこで入手したのか知らねぇけど、その赤い羽根を使って

募金詐欺をやってたらしい」とヒロトが答えた。

「なぁ、ひとついいか」と井上。

 僕が振り返ると、井上は言った。

「どう考えたって、その小高が周平くんをはめたとしか思えないんだけど」

 客観的に視て、それが妥当だと思う。僕は気付いたことを付け加える。

「俺もそう思う。それに昨日、小高がその大量の赤い羽根を周平の鞄に入れるところを俺見た

んだ」

 そう。あのなんだかよく分からない大量のゴミに見えたものは、赤い羽根だったのだろう。

「なんでそのとき言ってくれないのさ」と周平が軽い抗議の声をあげる。

「仕方なかったんだ。あの時の小高俺に対して相当キレてたし、いつもの癖だろうと思って気

に留めなかったんだ」

「あぁー、あれか」とヒロトが破顔する。やられたことがあったのだろう。

「それに通報したのが小高って可能性はない?」と井上。

「それはないと思う。……なんとなくだけど」と周平は言った。

 一瞬沈黙が出来た。するとダグアウトを取り囲んでいた男たちがざわついてるのに気づいた。

「おい! どうした!」

 ヒロトが怒鳴る。幹部らしき男がダグアウトの上から焦ったように降りてきた。

「ヒロトさん! 警察です! 逃げないと!」

 それを聞いてみんなの動きが止まる。耳を澄ませると、うすくパトカーのサイレンが聞こえ

た。もうすぐここに到着するだろう。

 一斉に動き出す。周平がよたよたとダグアウトから出るのを支える。反対側に井上がつく。

ヒロトが男たちに指示を出して威勢よく「「「はい!」」」と複数の声が聞こえたあと、三々五々

に散っていった。ヒロトが駆け寄ってくる。

「小高の奴をとっ捕まえて、いろいろ聞かなきゃいけねぇんだけど、俺らは警察に追われてる

から自由に動けねぇ」

 そのとき周平の携帯が震えた。「いいか?」と許可をとってポケットから携帯を取り出す。通

話の着信だった。見ると、相手は小高だった。

「あっ! おっ! こいつ」とヒロトは携帯に出て怒鳴り散らかしそうな勢いだったので、僕

はヒロトから携帯を遠ざけて言った。

「客観的に言えば小高は完全にクロだ。だけど周平の言ってることも気になる。ここはとりあ

えず、俺たちに預けてみないか?」

 ヒロトは一瞬だけ考えて、「わかった。頼んだぞ」と言ってバイクにまたがる。最後にもう一

度だけ周平に謝ってその場を去って行った。

 電話に出る前に着信が途切れた。僕たちは三人で住宅街に逃げ込む。

 メールが届く。

 見ると、駄菓子屋横の公園にいる、とだけ書いてあった。あの公園なら囲むようにクチナシ

が茂っているので隠れやすく、四方に道が続くので逃げやすくもあった。

 わかった、とだけ返す。周平が一人で歩けるというので、三人であたりを警戒しながら、ゆ

っくりと駄菓子屋に向けて移動した。

 僕はイエナシさんに会って話を聞きたかった。イエナシさんの連絡先を僕は知らなかった。

イエナシさんは携帯を持ってなかった。

 イエナシさんが宣言通り大人しくしているなら、駅前のネットカフェにこもっているはずだ

った。

 でももし黒幕なら?

 小高を操って、指示を出すには、おそらくこの辺りに潜伏しているだろう。

 夕陽が住宅街に影を作る。僕たちは家と家の間から夕陽を浴びつつ、歩いて行った。



 駄菓子屋横の公園に行くと、小高は茂みに背を預けるようにして隠れていた。

 小高の姿を見るや否や、周平はどこからそんな力が湧いてきたのか、物凄い勢いでタックル

をかますようにして座った姿勢の小高に殴りかかった。止める間もない一瞬の出来事だった。

 そのまま小高の上にマウントをとった周平は、右から左から狂ったように小高を殴り始めた

ので井上と二人で抑え込んだ。

 ふぅーっ、ふぅーっと、威嚇する猫みたいな荒い呼吸をしているうちに、周平も落ち着いて

いった。小高は地面に横たわったまま、身体を小刻みに震わせて泣きながらずっと「ごめん、

……ごめん」と繰り返した。

 僕たちはしばらくその体勢のまま、動かなかった。

 ふと井上を見ると、どうということでもなさそうに、ただしっかり周平の腕をつかんでいた。

とにかく落ち着いて小高から話を聞かなければならなかった。もう少しで陽が完全に沈んでし

まう。そう思ったちょうどそのとき、帰宅時間を知らせる「夕焼け小焼け」が遠くの方から押

し寄せる波のように聞こえてきた。

 しばらくそれを聴いていた。小さい頃を思い出した。

 力を使い果たしたのかがっくり項垂れたままの周平も、ずっと身体を震わせて謝りながらし

くしく泣き続ける小高も、事の成り行きをただ見つめる井上も。

 みんなが、そのメロディを聴いていた。きっとみんな、自分の小さい頃を思い出していた。

あの頃は、帰る家があった。今の僕達には、……あるって言わなきゃ、ダメなんだろうな。

 それぞれに家に帰りたくない理由はあるだろうけど、きっとどれも些細な取るに足りない理

由で、大人たちはそれを甘えている、とか、わがままだとか言うだろう。

 でも帰りたくない気持ちは確かにここにあって、帰りたくないと思うのをやめろ、と言われ

ても無理だ。あるものはある。

 小さい頃は、そう思っていてもひとりじゃどうしようも出来なかったから、受け入れてもら

えた。周りが、帰りたくなる場所を、用意してくれた。

 でも今はそうじゃない。帰りたい場所がないなら、自分で作るしかないのだ。待っていても

ずっと帰る場所をなくしたまま、しくしく泣き続けるだけだ。そんなのはごめんだ。それに、

友達がそんな状態のままでいるのもごめんだ。ケツを蹴り上げてでも、前に歩かせてやる。

 メロディの余韻が消えると僕は小高のところまで行って、胸倉をつかみ一発思い切り殴った。

すっかり怯えきった目で小高は僕を見た。

「なぁ、小高。昔のお前は、そんな目なんて見せたことなかっただろ。俺らが中学一年の頃、

何人かでプールに行ったときのこと、俺憶えてるよ。他所の中学の奴らが絡んできてさ、そい

つらみんな三年で俺らより人数も体格も勝っててさ。俺なんかもう、途方に暮れてたってのに、

お前だけ掴みかかって行ったよな。あの時のお前、見ててスッゲェかっこよかったんだぜ。お

陰で全員ボコボコにされたけどさ。あのあとみんなで、お前馬鹿かって何回も言って笑ってた

けど、それも楽しかった。滅茶苦茶殴られたのにね、スッゲェ楽しかったんだ。だからさ、…

…頼むからさ、……俺のこと頼ってくんねぇかな。頼りがいなくてもさ、一人で無理にやろう

とするよりは、いいんじゃないかって俺思うんだよね。もし二人で失敗してもさ、またあの時

みたいに笑えたらそれでいいって、俺思うんだよね。なぁ、頼むよ。俺のことさ、もっかい友

達にしてくんねぇかな?」

 怯えていた小高の目は、次第に涙でいっぱいになっていき、零れた。零れ続けた。

 振り返ると、井上も周平も疲れをにじませながらも、笑っていた。僕もそれに笑い返した。

そうだった。僕は今日、泣いたり笑ったり走ったりゲロったりいろいろやったんだった。僕も

疲れていた。でも、まだやることがあるんだった。

 それが全部済んだら。

 今日は廃病院に帰ろうと思った。



 小高が泣き止むのを待って、僕は話を聞こうとした。すると井上が、

「ここじゃ警察に見つかるかもしれない。そこに行こう」と公園の正面を指さした。井上が指

した方には陽が沈んで閉店しただろう、駄菓子屋があった。シャッターも閉まっていた。

「いや、閉まってるし」

「大丈夫だって。俺、二十四時間会員だし」

 なんだそれ、と思いつつも声には出さない。無駄なエネルギーは使わない。

 井上は駄菓子屋の裏に回ってインターホンを鳴らした。奥からくそババァの「はぁーい」と

いう声が聞こえる。

 ガラガラと引き戸を開けてくそババァが険しい顔で出てきた。井上の顔を見た途端、笑顔に

なる。

 こいつ、熟女ハンターだったのか!

 爽やかな笑顔を浮かべて井上はくそババァに「須江さん、ちょっと俺と友達をあげてくれな

いかな?」

 そんなんで本当に匿ってくれんのか? と訝しむ。

「おぉぉ。ええよ。ええよ。上がってきな」少し可愛らしくなってるところが小憎たらしい。

「ありがとう。お邪魔しまーす」と先導する井上に続いて僕らもくそババァの住居に侵入する。

最後尾の僕と目が合ったとき、くそババァはカッと目を見開いて鬼のような形相になり「なん

だお前! 友達ってお前か! お前が友達か! なんだ!」と、思いつく限りの単語を並べ替

えながら勢いだけで罵ってきそうな雰囲気があったが、何も言わなかった。

 一応こちらも匿ってもらう身なので、「ありがとうございまーす」と小さい声で言いながらお

邪魔した。

 くそババァ改め須江さんは、僕らに四つ分のお茶を淹れてくれると、空気を読んでのことな

のか、そそくさとどこかに消えた。僕たちは話始めた。

「小高。とりあえず、ここ最近のお前の話を聞かせてくれ」

 小高はグッと何かを堪えたあと、「分かった」と呟いて、語り始めた。――

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