余談
××××だった、僕の話
帰る場所はないんだよ。
きみはもう、××××ではないんだよ。
病院で目を覚ましてから、繰り返し繰り返し言い聞かされる言葉。
お父さんもお母さんも、どうしてきてくれないのと尋ねれば「もう会えないの」と諭される。
どうしてと泣いても、家に帰ると暴れても、なにもかわらない。
白い部屋にひとりきりだ。
「あららぁ、きかん坊とは聞いていたけど……簀巻きはやりすぎじゃないかなぁ」
ぼくしかいない部屋に、誰かが新しく入ってきた。
お父さんみたいにスーツを着た大人……でも、お父さんより若い、お兄さん。
「それが……とんでもなくて。泣きわめいたり暴れたり、脱走しようとしたり……時には噛みついてきたりと酷い状態で、下手をすれば自傷に繋がりかねないので自由にさせてはおけないのです」
「ふぅん。……やっほー。坊や」
お兄さんが笑顔で手を振ってきた。
この病院来て、初めて見る笑った顔。
なんだかムカムカしてにらんだら、お兄さんは手を叩いて笑い出した。
……このお兄さん、なんか変。
「うわ、にらみつけられちゃった。……意識しっかりしてんねぇ、坊や」
意味が分からないことを言って、ひとりでウンウンって頷いてる。
やっぱり変だ。
変な人とは目を合わせちゃダメなんだ。
お母さんが言ってた。先生も言ってたし、学校におまわりさんが来て、こーしゅうっていうので習った。
だから目をそらすと、ぐいっと顔を掴まれた。
いつのまに近寄ってきたのか、変なお兄さんがベッドの横に立って大きな手で僕のあごを掴んでる。
なにするんだよ。
そんな気持ちでにらんだら、変なお兄さんは「ごめんねぇ~?」とお父さんがお母さんを怒らせたときに出すような声で謝ってきた。
僕知ってる。これ、ごきげんとりの猫なで声っていうんだ。お父さん、お仕事で僕との約束がダメになっても、猫なで声で謝るから覚えちゃった。
猫はかわいいけど、お父さんもお兄さんも別にかわいくない。特に、このお兄さんは変だし。
だから、僕は騙されないぞと顔に力を入れて、目をそらさずお兄さんを睨み続けた。
「坊や、名前は?」
「……知らない人には教えちゃダメって」
「あっ、そう? 俺は祭。大上 祭っていうの。坊やを助けるために国から派遣されてきたお助けマンだよ。……これで、知らない人じゃないよねぇ?」
「…………変質者には教えない」
僕の返事に、お兄さんは噴き出した。
ケラケラ笑いながら僕の頭を撫でてくる。
「素直に、分からないって言えばいいのにぃ~」
「……分かる」
「じゃあ、言ってごらん?」
「変質者には言わない! あっち行け!」
お兄さんの一言に、心臓が冷やっとして大きな声を出してしまった。
自分の名前が分からない?
そんなことない。
そんなこと、あるわけない。
そんなバカなこと、ありえるわけがない!
笑顔のまま、僕を見下ろしたお兄さんが口を開く。
「××××くん」
「――っ」
なにか言っている。
それは僕の名前だと分かる音だけど、なんて言っているか分からない。
「分からないでしょ?」
僕の頭の中をのぞいたようにピタリと言い当てるお兄さん。
「だってもうこれ、きみの名前じゃないから」
「違う、僕……僕は――」
「違わないよ。だって神様と契約しちゃったからねぇ。命を助けてもらうため対価を差し出す――きみは、それにオッケーしちゃったんだよ」
ニコニコと笑顔を浮かべる大人。
変なお兄さん。
言っていることは意味不明。頭で考えても全然分からないのに――心のどこかが、あぁ、そうか……なんて納得している。
自分が自分でないみたいに、色々なところがちぐはぐで、このままバラバラになって消えちゃうんじゃないかって怖くなる。
「消えちゃうよ」
「え」
「きみはいま、存在しないモノだから。誰でもなく、なにものでもない――あやふやなものは、頼りないよねぇ。手で掴もうにもすり抜けてしまう。……なにを掴むべきか、分かってないから」
この人は、やっぱり変だ。
変だけど……なんだか大切なことを言っている気がして、僕は黙って話を聞いた。
そうすると、お兄さんはもう一度僕の頭を撫でて問いかけてきた。
「それで? 名前は?」
「触るな変質者」
「ぶふっ!」
お兄さんは噴き出して、今度は手加減なく僕の頭をもしゃもしゃにする。
「うーん……捻くれてるから、ヒネ坊とか?」
「…………」
「え、反応薄っ! って……うわぁ、ジト目じゃん……」
変なお兄さんはブツブツと変なことを言いながら、僕を芋虫状態にしていたタオルを解いてくれる。
「ほらぁ~、笑顔笑顔~。こんな時こそ、和やかな~な笑顔が大事だよぉ?」
「……おかしくもないのに笑ってる、おじさんのほうが変」
「へ……? おじさん? 俺が?」
「…………」
怒られても別にいい。そんなふて腐れた気持ちで生意気に言い返したら、お兄さんは目をパチパチさせてから――むにゅっと僕の両頬をはさんだ。
「ふぁにする!」
「お~、もっちもち!」
「へんひゃいっ! へんひゃいめっ!」
「……決めた。きみは今から、和だよ」
その音は、言葉としてすんなりと僕の耳に入ってきた。
「……変」
「変でも、ヒネた雰囲気出してるくせに和ませ属性な坊やにはピッタリだろ! ――日根 和。今からこれが、きみの名前だよ」
××××――消えた僕の名前よりも、この突然現れた変なお兄さんが思いつきで口にした言葉のほうが、はっきりと僕に届いた。
それが悲しんだか嬉しいんだか、よく分からないのに涙が出てきて、僕が泣けば遠くで雷の音が聞こえた。
「……ニアラズ……」
お兄さんをこの部屋に連れて来た看護士さんが小さく呟く声がして、お兄さんが振り返る。そうしたら、看護士さんは「失礼しました」って急いで部屋を出ていった。
お兄さんは僕の前にしゃがんで頭に手を置く。大きな手だ。お父さんと、どっちが大きいかなぁと考えて――また悲しくなった。
「××××くんは、水難事故で神と呼ばれるモノに遭遇した。××××という存在を引き換えに、命を助けてもらう――自分の願いを叶えてもらうかわりに釣り合う対価を差し出した……きみは無自覚に、応じてしまった。××××はふたりもいらない。だから、片方が消えた」
「…………僕、そんなの、知らない……」
「××××くんが知っていようと知るまいと、相手は関係ない。契約が成立すればいいんだ。……だからね、きみが消えずに生きていくためには、日根 和になるしかないんだよ」
この人の言っていることは難しい。だけど、心のどこかでは理解できるなんて……変な感覚。分かりたくないのに分かるのが苦しい。これを受け入れたらきっと苦しくないんだろうなって思ったけれど……。
それはお父さんとお母さんと二度と会えなくなることだって考えたら怖くて――もういちどふたりに会いたくて……。
だから――。
「……僕、取り返す」
「ん?」
「僕は、僕を取り返す。絶対に……!」
変なお兄さんは、止めなかった。
「そっか」って一言呟いて、僕の前に手を差し出してくる。
「じゃあ、こっち側に来るかい?」
「……?」
「絶対ではないけれど……あの手のモノと関わる確率が高いのはこっち側だ――選んでいいよ、坊や。そっち側の人間として、このままゆるゆると全て忘れて新しい人生を生きるか……――」
××××。
お父さんとお母さん。
取り戻せる方法があるなら、可能性があるなら。
僕はそっちを選ぶに決まっている。
差し出された大きな手を握れば、お兄さんはふっと笑って頷いた。
「それじゃあ、きみはその存在をもって、俺を楽しませてくれ。かわりに俺は、まだ子どもであるきみを支援しよう――契約成立だ」
「契約……」
嫌な言葉だと顔をしかめて手を引っこ抜こうとしたけれど、お兄さんにしっかりと握られていて逃げられない。
「これからよろしく、日根 和くん。俺はこう見えて責任感のある男だから、きみが成人するまではしっかり面倒見よう。その後も付き合いを続けるかどうかは――ははっ、神のみぞ知るってところかなぁ」
「…………」
ポカンとしている僕の頭をくしゃりと撫でると、お兄さんはひょいと僕を抱き上げた。
「短い付き合いだと思うけど、よろしく頼むよ」
――そう言ったお兄さんは、目を細めていた。楽しそうな顔を作っているけれど期待していなさそうな……嫌な顔だと思った僕は、荷物みたいに横に持たれた体勢で、えいっとお兄さんの脇腹をついた。
「~~っ!」
「べぇーっ!」
「このっ……ヒネ坊主……!」
「詐欺おじさん!」
「……ほんっと、これから少しの間は退屈しなさそうだよねぇ。このクソガキめ」
ちょっと顔をしかめて強がり笑いを浮かべたお兄さん。
今までよりもこっちのほうが本当っぽい顔に見えたから、勝ったと思って僕は笑った。お兄さんは僕が笑ったのを見ると「変な坊主」と言って自分も笑った。
僕が大人になるまでの間、面倒見てくれる人――つまり、必ずさようならする人なのだ、このお兄さんは。
それなら、僕は大人になるまでにこの人が言った《こっち側》を勉強しないといけない。
「……おじさん、大人って何歳から?」
「んー? 十八歳かな?」
僕をぶらぶら揺らしながらお兄さんが答える。
「じゃあ、僕……それまでに……――」
だんだんと目を開けていられなくなった。
「え? これで眠れるとか……豪胆だなぁ坊主」
お兄さんがなにか言っているけど聞こえない。
「……なんか……調子が狂う坊主だなぁ」
苦笑いでそんなことを呟いたことなんて、知らない僕はパタリと目を閉じた。
――想像よりずっと、長い付き合いになることも知らないで。
ニアラズ 真山空 @skyhi
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