五十六話 後日・裏
特案調査対策局――その本部にて局長室から出てきた男を見た加賀内 小夜子は僅かに眉をひそめた。
相手は小夜子に気がつくと、にやにやと下卑た笑みを浮かべでっぷりとした腹を揺らして近づいてくる。
「やぁ、小夜子ちゃん。久しぶりだねぇ」
肩に手を置かれそうになり小夜子はすっと避けた。鼻白んだ男だったが、すぐに小夜子の胸を凝視し、またニヤニヤと笑う。
「新しいところはどうだい? 人材探しなんて、書類仕事が多くて肩がこるんじゃないかね? ……まぁ、きみの場合それだけではないと思うけどねぇ……」
気色の悪い視線と声に小夜子の柳眉はますますひそめられる。面倒な奴につかまった。
出世と保身しか頭にないこの男は、案件の振り分けを担当していた。小夜子もかつては同じ部署に所属していたが、とにかく最低の男だった。
そんな男がどうして局長室から出てきたのかと思っていたら、開いたドアから知った顔が出てきた二重の意味でびっくりする。
「……大上さん?」
名前を呼べば、地方の支部にいるはずの男――大上 祭はにこりと愛想よく笑い片手をあげた。反対に、それまで下卑た笑みで小夜子に絡んでいた男は忌ま忌ましそうに顔を歪める。
「あぁ、きみの知り合いかい小夜子ちゃん。……まったく、今回の案件で大問題を起こしてくれた役立たずの支部長が知り合いなんて、関わる相手は選ぶといい。上にすえる相手もね。――せっかく政治家先生に伝手ができると思ったのに……」
「ははは、どうやらおつかれのようですねぇ」
「誰のせいかね! 無能が支部長だなんてねぇ、そもそも地方局は必要かね? 私は常々局長にご相談していたんだ。今回の不始末で、局長も分かって下さっただろうね」
べらべらとツバを飛ばす勢いでまくしたてた男は、それでもなおヘラヘラしている祭をにらんでいる。
――そういえば、この間地方にて大きな問題が起きたと聞いている。不正に案件を請け負って台無しにした馬鹿者がふたり……ひとりは命は助かったが、いまだどこか呆けたままで、もうひとりは死んだという。
小夜子は、セクハラ男がどうして局長室から出てきたのか納得した。この男の部下だったのだろう。監督不行き届きと叱責されただろうが、あれやこれやと言い逃れを並べ、祭にすべて押しつけようとしたに違いない。そして、うまくいったと思っている。
馬鹿な男。
小夜子は冷めた目で、いやらしい視線を向けてくるだらしない体の男を見る。男は調子に乗って祭を貶していた。
「私、局長室へ急ぎの用がありますの」
「小夜子ちゃぁん、きみ、もう少し愛想よくしなよ。せっかく綺麗な顔とそんな立派なものを持ってるんだから」
男の言葉など無視し、小夜子は祭にだけ黙礼した。
「ったく、結局顔かよ。頭の栄養も全部そのデカ乳に行ったおかげで礼儀もなにもない」
聞こえよがしに小夜子を貶めた男は、祭をどけと突き飛ばしエレベーターへ向かった。タイミングよくエレベーターが到着し男はドスドスと足音荒く入っていく。
ドアが閉まる直前――。
「ひっ、筧!? な、なんでお前がっ……! 誰か!」
なにか叫び声が聞こえたが、振り返らなかった。
(馬鹿な男。局長を丸め込めたと思ったのかしら。……自分がなにをしたのか、その危険性を理解していなかったんだから、本気でうまく立ち回れたと思っているんでしょうね)
あの、でっぷり太った男の部下――死んだほうだが、さる政治家の隠し子だった。ただ出来が悪く素行も悪いので……その政治家はコネを使ってこの局に……あの男の元へと送り込んだ。仕事を与えて大人しくさせるためではなく――邪魔な存在を消すために。
自分の息子たちの将来は輝かしいものだが、出来損ないの隠し子が足を引っ張るかもしれない。その前に、不要物は処分しよう。そう考えて、利に目ざといあの男に金を渡した。
小夜子が調べたのはそこまでだ。すでに報告はあげている。
上層部には知られていないと思っていたあの男は、あくまで祭の不始末というような体で彼に責任を負わせようとしていたようだが……件の政治家も叩けば埃がたくさん出るようで、小夜子が今手にしている書類には、その埃が文字としてたくさん詰まっている。
(……馬鹿な男)
伝承、不審死、行方知れず――そういった情報を集め記録する、そんな仕事を馬鹿にしていた愚かな男。自分が泳がされていたことも、とうに見放されていたことも知らないで欲をかくから……人の命を軽視するから……。
(他人を甘く見るから、こうなったのよ)
つかれている――疲れている? まさか。
あの男は、憑かれているのだ。
大上 祭はそう言ったのに、その分かりやすい忠告にすら気がつかなかったのだから、遅かれ早かれ報復にあっただろう。
局長室へ入った小夜子は、イスに座る男に書類を渡し、たった今見たことを報告した。
「死にはしないだろう」
死にはしないが、死ぬほどの恐怖を味わうだろう。
「彼が、そうした」
「……大上さん、ですか」
「そうだ。……人ではなく、されど奉られる神でもない――だが、その在り方は決して無視できない。人ならざるものに存在を成り代わられた者の中でも、神と呼ばれるモノに存在をうわばれた者はそう多くはない――彼らは神と取って代わった代償に人にはあらざる異能を手に入れ、されど崇め奉られることはないため神にもあらず……〝ニアラズ〟というのは、特異であり危険な存在だ。特に……大上 祭は」
人当たりよく、朗らかで――陽気でとっつきやすい人物として振る舞うが、彼は自分を人間とは思っていない。大きく線を引いているのだ。
それでも人間に協力的である今は、利用し利用されている。
人としての居場所を奪われた者たちの受け皿としても、特案調査対策局は機能しているのは、かつて祭が協力してくれたからだ。
人ではなく、神でもない。
けれどそれは人であり、神である。
矛盾に満ちた彼らは〝ニアラズ〟と呼称され、ひっそりと人の世に溶け込んでいる。人が人としてこの世に存在する限り、彼らもまたそこにいるのだろう。
よき隣人か、はたまた――。
それは、人の心の持ちよう次第……。
そう言って背を向けた局長に、小夜子は一礼して立ち去った。
――廊下に出ると、立ち去ったはずの祭が待っていた。
「救急搬送されたよ」
誰とは言われていないが、分かってしまう。
小夜子は「そうですか」と頷いた。淡々とした答えに顔をしかめる者もいるだろうが、祭はそういうことをまったく気にしない存在だった。
元より、あまり関心がないのかもしれない。冷淡とも取れる返事に「うん」と頷いて、それで終わる。
「まさか、それを伝えるために待っていたんですか?」
「え~、それこそまさかまさかだよ。局長に言い忘れたことがあってね」
「……言い忘れ?」
「なごちゃんは、うちのなごちゃんだから、勝手に異動とかさせないでね。なごちゃんに関する人事権はないからね、あと月乃ちゃんもダメっていうことを伝えておこうと思って。……ほらー、本部ってすぐ優秀な子を引っ張ってくって噂じゃなぁい?」
暗に自分の仕事のことも言われている気がして、小夜子は言葉を濁すしかない。
「そういうわけで、ここに戻ってきたんだよ」
「……それなら日根さんや雲野さんも連れてくればよかったでしょう。顔を繋いでおくだけでも心証は違います。……特に日根さんは長いんですから、一度くらい局長と会わせても……」
「あ、無理」
ふと祭に遮られて、小夜子の肌が粟立った。
彼の表情は笑顔のままだ。声のトーンも変わらない。
だが、なにかが――それまでと今では、大上 祭のなにかが違った。
「アイツは、絶対会わせない」
「……大上、さん?」
「俺は別に気にならないけど、アイツは気にしいだからね」
笑顔のまま、祭は小夜子とすれ違い様ささやいた。
「うっかり殺しちゃったら、困るでしょ?」
――それは、どういう意味か。
真意を問い質す前に、祭はドアの向こうへ消えていた。
「…………」
その場に立ち尽くした小夜子は、自分の体が震えていることに気がつく。
はっ、と息を吐く。
ゆっくりと息を吐いて、すって、それから――思い出したように恐怖を感じた。
(こ、わかっ、た……)
なんでもないのに。なんてことないやり取りなのに。
目の前の存在は、自分たちとは違うと思い知らされた。
膝が笑って立っていられなくなり、戻りが遅いために様子を見に来た同僚に介抱されるまで、小夜子はその場にうずくまっていたのだった――。
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