五十五話 後日②

「な、なななななっ!」


 ドアの前に立つ祭を指さし、顔を赤くして口を開くが動揺のあまり言葉が出ないようだった。月乃もまた、驚いて涙が止まる。


「お、おま、いつから――」

「ん? えーと……藤原、退院するらしい――のところから」

「話の初めからじゃねーか! なんで入ってこないんだよ!」

「え~……なんか、聞きたくない阿呆の名前が出たから~、おじさん入りたくないなぁ~って……そしたら、なんかなごちゃんが語りだしたから、おぉっ! と思って――で、いま一区切りついたところだなぁと思って声かけたんだけどぉ~……もしかしておじさん、お邪魔でした?」


 ニタニタと笑う祭は、完全に和をからかうつもりでいる。

 つつつ~と和に近づいて「ねぇねぇ」と肘でツンツンとつつく様子に、月乃が噴き出すと和も怒るに怒れないのか眉尻を下げた。


「でもでも、それならなごちゃん、これはもう必要ないよね?」


 そんな中で祭が懐から取り出したのは異動願と書かれた封筒。

 あっと和が声を上げ、月乃はえっと戸惑う。部下の視線を集めた祭はにんまりと笑い、異動願を高々と掲げた。


「ねぇ、かわいい後輩である月乃ちゃんを見捨てて異動したりしないよね? しないんだよね?」

「ぐっ」

「さっきなんて言ってたっけ? ふっ、まったくお前は……目が離せないぜ、子猫ちゃん、だっけ?」

「言ってねーよ! どんな耳してんだ、クソ!」


 羞恥と怒りが限界を突破した和が怒鳴り、異動願を取り返そうとすれば祭はひょいと身を翻す。


「あぁ、かわいいきみを見つめていたい! だっけ?」

「ねつ造すんな!」

「でもさぁ……ここにいるんでしょ?」


 不意に祭の声のトーンが真面目なものになる。月乃も固唾をのんで和を見つめた。

 気圧されたようによろりと後退した和は、後ろ頭をかくと目をそらして呟く。


「……いる」

「ん? なに? なんて?」

「マジで耳垢つまってんじゃねぇのお前! ……だからっ、どこにも行かないって言ってんだよ!!」

 

 その言葉を聞くと、祭はいい笑顔で頷く。


「だよねぇ~! 本部異動なんてなったら、それこそ最悪だもんねぇ~! なごちゃんなんて三日も持たなそうだし、余所の地方支部もまた居心地悪そうだし~……やっぱりさぁ、おじさんとこが一番でしょ?」

「…………」

「かわいい後輩ちゃんもいるし、ね? ……なんだっけ? ――お前は遠くじゃない、近くにいる」


 急にキリッとした表情と声でそんなことを言う祭。

 祭さんと名前を呼んで月乃もなんとかたしなめようとするが、逆に「月乃ちゃんも、なごちゃんがいると嬉しいよね?」などと言われてしまう。


「そ、それは……はぃ……」

「だって!」


 ひらひらと異動願を和の目の前で左右にふる祭。

 和は顔を真っ赤にして祭から封筒を奪い取ると、びりっと切り裂いた。


「雲野ひとりに、お前のお守りを押しつけるわけにはいかないからな!」

「素直に離れたくないって言えよう~。かわいい月乃ちゃんとも、おじさんとも離れたくないんだろぅ~?」


 ここで否定すれば月乃も数に含まれてしまう。だが、肯定すればそれはそれで祭が調子に乗る。どちらに転んでも不本意な状況に陥った和は、早まったかもしれないと自分で破った封筒をつなぎ合わせようとし、結局祭に取られてさらに細切れにされてしまった。


 だが、和の顔は怒っていない。仕方がないという諦めでもない、なにか吹っ切れたような表情で、月乃の視線に気がつくと笑った。


「――改めてよろしくな、雲野」

「こちらこそ……!」

「おじさんも仲間にいーれて!」


 そして最後に、ミコがわんと鳴き――事務所は久方ぶりに明るい笑い声に包まれていた。

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