五十四話 後日①

「藤原さん、退院するらしい」


 祭がいない事務所にて昼休憩に入ろうとしていた最中、和が世間話の延長で口にした名前を聞いて月乃は目を瞬いた。


「藤原さんが入院してたのって、前にわたしが運ばれたところだよね?」

「ああ。この辺だと、その手の管轄はあそこしかないからな。……まぁ、意識はハッキリしてるし、すぐに本部に戻るだろうと思ってたけど、予想より早かったな――戻った後も、この仕事を続けるかどうかは分からないが」


 あの事件から三日経過していたが、月乃も和の話に同感だった。

 事件後、遅れてやってきた本部の応援――スーツ姿のふたりに藤原を押しつけ、事の次第を説明した祭と和。その間も、藤原はべそべそ泣いて、思い出したように叫んでいた。

 

 藤原と筧は本来はこの仕事を任される立場ではなかったそうで――本部の中の権力争いが絡んでいるそうだが、祭が関係ないと打ち切ったおかげでそれ以上詳しい話をされることはなかった。

 だが、本部からやって来たふたりは藤原に向ける目も筧の名を口に出す声も、とても冷たく静かな怒りを感じた。仕事を台無しにされたという怒りを、あの状態の藤原が察したとしたら……それで三日で立ち直れたのなら、奇跡に思えた。


 それとも、できるだけあの場所から遠く離れたくて無理をしたのだろうかと想像をめぐらせ――やめた。

 大丈夫と判断されたから退院できるのだろうと結論づける。


「心配か?」

「……ううん」


 少しだけ考えて、月乃は首を横に振る。


「一番心配な人は、目の前にいるから」

「……? …………――っ!」


 きょとんとした和と目が合う。彼は不思議そうに月乃を見つめ返していたが、やがて言葉の意味することに気がついたのか顔を赤くした。


「ばっ――俺のことはいいんだよ……!」

「よくない! ……だって、それより前から様子がおかしかっったし、本当に心配だったんだから!」

「それはっ……それは……、その……悪かった、と思う……」


 言葉に詰まった和は、やがてバツが悪そうに謝罪する。


「……ほんとに、悪かった」


 だが改まって頭を下げられるとさすがに月乃も戸惑う。

 そこまでしなくてもと慌てれば、和は首を横に振った。


「これは、別件だ。……向いてないなんて言って、悪かった」

「……え」

「……あの時、水の中で手を伸ばすお前を見てやっと分かった……関わらないでほしい、普通の生活をしてほしいっていうのは、俺のエゴだったんだって」

「和くんは、心配してくれてたんだって分かってるよ? だから……」

「心配するふりをして、嫉妬してたんだよ」


 和が苦笑いを浮かべていた。

 

「普通の生活がすぐそばにあるのに、普通に生きられる道がちゃんと続いてるのに、なんでそっちを選ばないんだって――俺はずっとお前に嫉妬してたんだ。……自分があの時、なにより欲しかったものを手にしたのに、どうしてわざわざこっち側に首を突っ込むんだって」

「……あの時……?」


 月乃が問うと、和は目を伏せる。少し迷った後、彼は再度口を開いた。


「日根 和は、本名じゃない」

「――え? それは、どういう……」

「俺は、成り代わられた元人間だ」


 ――以前聞いた、祭が和の後見人だったという話を、月乃は思い出した。

 そして思い知る。和は家族を亡くしたのではなく、自分という存在を奪われたのだと。


 自分を取り戻せた月乃と、取り戻せなかった彼。正反対の道を辿ったふたりが同じ場所で顔をつきあわせている――その事実を、和はずっと歯がゆく思っていたのだ……どうして、と。


 ようやく、繋がった気がした。。彼は月乃という人間を否定したかったわけではないのだ――ただ、取り戻した場所にいるべきだと……そうして欲しいと思っていた。


(そんなこと、考えもしなかった……)


 月乃は知らなかった。知らないまま、和を傷つけていたのかと思うと心臓がきゅぅっとする。


「あの、ごめんなさい、和くん……わたし、なにも分かってなくて……」

「バカ。俺が黙ってるのに、お前が知るわけないだろ。……だから、謝る必要はない。それに嫉妬だったって言っただろ。羨ましくて、自分の理想の在り方を押しつけてただけなんだ――お前は、あの時の俺とは違う。自分で考えて選んでここにいるんだって……それを理解してなかった。本当に、悪かった」

「謝らないで! わたしが半人前なのは本当だし、和くんが心配になるのも当然だし……違うの、そうじゃなくて、もっと気のきいたことを言いたいのに……!」


 知らなかった和の事情。それを打ち明けられたというのに、かけるべき言葉がなにも思い浮かばない。ぽろっとこぼれた涙を見た和は、笑ってハンカチを差し出してきた。


「泣くな」

「ちが、これは……ごめっ……」

「なに言ってるか、分からねぇ」


 たしかにそうだ。月乃自身も混乱していてうまく言葉が出て来ない。だが、それを和が不快に思っている様子はなく、ただ穏やかに笑っている。


「俺は今まで、お前を遠ざけることが正解だと思ってた。……でも、違うんだよな」

「?」


 ハンカチを月乃の目尻にそっとあてた和は静かな口調で続けた。


「お前は遠くじゃなくて、近くにいる――だったら、いつでも手を伸ばせる距離に立つのが正解じゃないかって。……お前が、そうしてくれたように」

「……な、ごむ、くん……!」

「……は、はぁ? おい、どうして余計に泣くんだよ……! 俺が、なにか悪いことを言ったのか……!?」


 それは違う。ただ嬉しかっただけだと月乃は首を横に振る。


「う、うれしかったの」

「まったく……お前は泣いたり喜んだり、忙しいな。ほんと……目が離せない――」

「うんうん、分かる分かる! 月乃ちゃんを見つめていたいっていうその気持ち、おじさん分かるよぉ、なごちゃん!」


 賑やかな声が事務所に響いた瞬間、和はパッと月乃から距離を取った。

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