グレーヒットマンの娘

小夜原麻里

第1話 二日月夜に不運が絡みついた紐

シドニーらしい碧い空に、ちぎれ雲が漂う間を黒猫が似合う二日月が浮かぶ夜だった。

ダーリングハーバーから出航した40フィート豪華クルーザー船が、ハーバーブリッジ橋桁をくぐり、オペラハウスから連なる摩天楼の夜景に見送られながら、洋上へ出た時に踊っていた白波はいつしか静まっていた。

濃紺シルクサテンの海面を、奴の亡骸は暫く浮き流れながら、やがて静かに暗黒の海の中へ沈んでいった。

 

1週間前


ドレス型紙を引いていると店の前に、マスタング車が停まった。

2時間前に帰った潤が戻って来た。

デザイン机でハンガーイラストを描いていたデザイナーの甲斐が突然立ち上がった。

「忙しいのにごめん」

彼はそう言うと片手で上着を掴み、急いで潤の車で走り去った。

店の照明を落とし、デザインスタジオのミシンの横に置かれたコーヒーカップを持ち、キッチンへ行った。

一旦出て行った潤の車が、店の裏にまた戻って来た。

車のドアが閉まるとキッチンの裏扉越しに彼らの声が聞こえた。

「おいっ、待てって、潤!」

玉砂利を踏み込む音がした。

「お前が言わないなら、凛に俺から頼んでみる」

私の名が潤の口から出たので、上げた水道のレバーを戻した。

「凛は絶対駄目だ!」

「甲斐? 紅一点の凛を入れなければ俺らだけではこの計画は無理だ。それに彼女は俺らの誰よりもスナイパーは確かだ」

「凛は殺しはしない。父親のその信念を貫いているんだ。俺はそれを尊重する」

「そんなの皆が重巡承知だ。しかし、状況が状況だ。仕方ないだろ?」

私は裏扉を開けた。

甲斐に腕を掴まれたまま、潤は瞠目した。

「言い合うなんて珍しいわね? 厄介なことじゃなければ良いけど」

二人は目を合わせてから、同時に溜息を付いた。

「圭が今日轢き逃げに遭って腕を骨折した」

私は自然と胸に手を当てた。

圭の本業は外科医だが、オフ日には気分転換になると私の仕立て屋を手伝ってくれていた。外科医だけあり、裁断の腕は目を見張るものがあった。しかし、ここ2週間ほど音信不通だった。

「圭に会いに彼の妹の家に行く。凛にも来てほしい」

困った時に顎に手をやる癖のある潤のそれを見ながら頷くと、運転席に副業でドリフトレーサーの甲斐が座った車に私も乗り込んだ。

潤の愛車はマスタングシェルビーGT500で、VIP警護仕様された改造車だった。彼の副業は海外からのセレブや富豪らのプライベート旅行専門ボディガードだった。


シドニーから西へ伸びるM2ハイウェイの渋滞に嵌った。

「圭の具合は?」

「友人の医者が手当して骨折に関しては良いのだけれど…」

潤の話途中に、甲斐が苛立ちを露わに舌打ちした。マスタングシェルビーには似合わない、ハイウェイ上をノロノロ運転から停まっていた。

甲斐が運転席から振り向いて尋ねた。

「圭の家族のこと知ってる?」

私は小さく首を振った。

「彼はシドニーで祖父母と両親も医者で裕福な家庭に生まれた。しかし、彼が9歳の時、パリで交通事故に遭い両親は搬送先の病院で死亡。圭は奇跡的に軽傷で済んだが、妹の飛鳥は大脳損傷で言語障害になり、7歳から特別養護学校で暮らし始めた。圭の高校卒業時に祖父母も相次いで亡くなって、両親は共に一人っ子だったので頼れる親戚も無かったが、圭はボンダイの両親宅で一人暮らし、猛勉強の末、シドニー大学医学部へ合格した。18歳になった飛鳥は自身が育った養護学校で職を得た。頼れる人が居なくても立派に自立した素晴らしい兄妹だ」

潤が大きく拍手をした。

「甲斐って意外に話すの上手いじゃん」

「そっちの拍手か?」

甲斐が呆れ顔で潤を見た。

私は心から圭を誇らしく思いながら、過去を感じさせない彼の清々しい笑顔を頭に浮かべた。はにかむと出来る左頬の笑窪が私は好きだった。


前の車が突然動き出した。

待っていましたとばかりに一気に加速した甲斐は、瞬時に時速100キロ越えで激走した。

「裏道行こうか?」

私の提案に甲斐がニヤリとした。

彼はアクセルを踏み込むと左走行車線から中央車線の4台を追い抜き、車間距離の狭間を縫って追い越し車線にカットインした。それから、制限速度ギリギリでスピードカメラを過ぎると、瞬時に6台抜いて再び狭い車間に割り込み、合計9台を追い抜く阿弥陀くじ激走2車線横断でハイウェイ9番出口から出た。それから、公道は勿論、裏道というか、どなたかの裏庭道、側溝道など、マスタングが僅かにでも通り抜け出来そうな道を、甲斐が作ったドリフトプログラムのカーナビは、道幅からのカーブ角度、減速の秒前タイミングを明示してサイドドリフトからパワースライドを可能にし激走した。

 

到着すると左腕のスリングが痛々しい圭が出迎えてくれた。「大丈夫?」との私に、彼は左頬に笑窪を作って右腕だけでハグした。

潤は最初にわざと圭に左手を出して握手を求め笑い合い、それから右手でガッツリ握手してハグをした。

瀟洒な外観とは異なり、家の中はがらんと殺風景だった。ふと見た壁に開いた無数の穴が、私には妙に気掛かりだった。

「僕の手当をしてくれた医師のジョージア。専門は脳損傷失語症障害。大学の後輩だ」

金髪の長い髪が美しい女性を圭が紹介した。

皆々が宅配ピザとそれぞれの飲み物を持ってリビングのラウンジチェアに落ち着いた。

コーヒーが配られると、圭が静かに話し出した。

「僕には失語症障害の妹、飛鳥がいる。彼女は鮮明では無いが話すことが出来、聡明で長く艶のある黒髪に目鼻立ちが通った美しい妹だ。1年前、シドニー東部のルカ言語研究所に転職した妹は、同じ職場のチャド•キースと出会った。妹は最初話しかけてくるチャドを訝しくて避けていた。以前にストーカー被害に遭った経験があり怖かったんだ。でも、彼から手話で冗談を言われると段々と打ち解けて仲良くなった。表情や着る物の変化で僕は彼女が恋をしていることに気が付いた。障害のある妹に普通の恋愛も経験してもらいたい思いがあり、僕は黙って見守っていた。しかし、数ヶ月経っても紹介されず、僕は彼らの職場の駐車場でチャドを待ち伏せた。突然、目の前に現れた兄に、彼は自分から会いに行かなかった無礼を丁寧に詫びた。僕は正直、面食らった。彼への第一印象は礼儀正しく体格の良い赤毛の明るい好青年だった。牧場をしていた両親と兄弟5人、作男4人の大所帯で逞しく育った彼の手はグローブの様に大きかった。15歳の時、羊の毛刈り機の事故で右人差し指を失った惨事に遭ったが、あれだけ明るく振る舞える彼を僕は嫌いではなかった」

壁の無数の穴が、彼の話を覆さぬことを祈ったが、私の中で嫌な予感は拭い去れなかった。

「半年経ち、飛鳥の銀行口座から多額の金が引き出されていたので、やんわりと使い道を聴いた。彼女は、チャドが投資資金を必要としていたので渡したと言った。驚いたことに、彼との家を買う為、両親が残してくれた僕との共同口座を解約したいと言ってきた。家購入後、彼女は僕に会いに来なくなった。しかし、偶然、街中で見かける彼らは、将来を約束した仲が良いカップルにしか見えなくて、僕は黙認した」

圭がテーブルに置いたカップの音が、彼らしくない苛立ちを露わにしていた。

ジョージアが話し始めた。

「1ヶ月前、飛鳥の婦人科定期検診に私は付き添いました。衣服を脱いだ彼女の太腿に大きなホクロがありました。彼女にメラノーマの危険性を話して、皮膚がん全身検診を勧めました。しかし、彼女はその検診を拒みました。何とか強く説得をして専門医に診てもらうと、メラノーマの疑いは消えましたが、背中に不審な痣が認められました。専門医が痣の事を飛鳥に尋ねると、階段から落ちたと言いました」

ここで圭が話に割り込んだ。

「飛鳥が検診を頑なに拒んだことが、僕には腑に落ちなかった。事故後、様々な検診を受け彼女は回復していった。僕の問い合わせに専門医は棒か何かで叩かれて出来る痣の可能性が高いと言った。僕はチャドが暴力を振るったのかと尋ねたが、飛鳥は泣きじゃくって首を横に振るだけだった」

壁の穴を見つめた私の目には、振り上げられた棒の先とその穴がピタリと一致した。

圭の顔が赤くなり声を震わせた。

「2週間前、飛鳥は轢き逃げに遭い意識不明の状態で病院に運ばれた。逃走車は盗難車で、州内の内陸部ダボで見つかった。鳴門もNSW州警察と連携して必死に捜査してくれているが全く手掛かりは無い。僕は私立探偵のティトに捜査を依頼した。彼から、チャドの弟、ドン•キースがダボで盗難車を運転している防犯カメラ映像をあるルートから入手したとの練絡を受けた。ティトからこの映像を警察に渡すかと聞かれた」

私は思わず圭を見ると、彼も私を見据えていた。

「僕は警察には一切連絡しないと断った」

私は、親友の甲斐、潤、圭、そして警官の鳴門がこれから何をしようとしているのかが分かり複雑な思いに胸が痛み出した。

横に居た甲斐が私の肩に優しく手を置いた。

彼の憂いのある瞳に、私は首を横に振った。

圭がスマホ画面を見せた。

「今朝のチャドからの返信だ。全ては弟ドンの仕業で自分は関係ないと言ってきた。奴らの会話録音を警察に渡すと言うと、昼にボンカフェを指定してきた。僕がボンカフェの前にある横断歩道を渡っていたら、突然、暴走車が突っ込んで来た。カフェの歩道席には、ティトが居てその一部始終を動画に収めていた。これがその映像だ」

白昼堂々と圭を狙い横断歩道に突っ込んで来た暴走車のナンバーは明らかに偽造で、運転手は帽子を被り、サングラス、マスクで顔は分からなかった。

「何故、チャドだと断定できる?」

潤がトリミングカット映像を見て聴いた。

「暴走車を間一髪で避けて転がった僕をチラ見した奴のサイドウインドウに突いたグローブみたいにでかい右人差し指がない!」

圭がそう叫んでテーブルを叩くと、トリミングカット映像の手をズーミングした甲斐がしっかりと頷き、潤が手を組んで指を鳴らした。


圭が耐えきれずその場を離れたので、私は彼の後を追った。彼は奥の寝室のドアを静かに開けて入った。

部屋には病院のICUの様な医療機器が多数設置されていて、生命維持装置からの無数のチューブに繋がれた飛鳥が眠っていた。

「安定したが、まだ意識不明の重体だ。僕は、飛鳥を死なせるわけにはいかない。彼女に生きて欲しいと願うのは僕だけじゃない。彼女が育った養護学校の生徒達も皆が祈っている」

飛鳥の横には、生徒達が作ったカードが飾られていて、彼女の全快願の思いが綴られていた。その中に写真があり、盲目で手足の無い少女が口にペンを咥えて『I love your voice 』

(貴方の声が大好きです)とあった。

その写真を手に取ると圭の大粒の涙は顎で合わさり滴り落ちた。

「一言で良い。飛鳥の声がもう一度聞きたい」

全身を震わせた彼を私はしっかりと抱きしめながら白い天井を仰いだ。

振り向くと皆々が部屋の中に居た。

「脳外科専門医から脳死判定も時間の問題だと言われ、圭と協力してメルボルンから最新医療装置を取り寄せ、ここで私と圭とで付きっきりで看病しています」

ジョージアが嗚咽を漏らしながら言った。

甲斐がスマホを見ながら話した。

「この家の名義はチャド。彼が投資した仮想通貨は暴落して、飛鳥の2百万豪ドルは消えた。半年前、飛鳥に5百万豪ドルの生命保険金がかけられ受け取り人はチャド。奴のパソコンをハッキングしたら1年前から飛鳥を虱潰しに調べていた。奴は数軒不動産を所有、海外銀行口座と仮想通貨で隠し資産の合計額は不明だが、かなりの額だ。元カノ数人が不明、その内3人が不審死。その都度、多額の保険金を受け取った保険金詐欺殺人鬼だ。奴らは罪もない人々の人生を狂わす極悪クズ兄弟だ。奴らに今までの罪の償いをさせる!」

いつもは冷静な甲斐の目が鋭く光った。

「俺らはスナイパーでやることにした。勿論、凛は来なくて良い。でも分かって欲しい。俺らも色々悩んで決めたことだ」

そう言った潤の目に涙が浮かんだ。

「忘れないで、私達は仕立て屋よ」

潤が両手を広げて視線を外した。

「表向きは」

彼の言葉に間髪入れず、私はキッパリと答えた。

「表向きも裏向きも無く、仕立て屋よ」

私は語気を強めた。

「殺しは絶対しない」


私の父はシドニー郊外の仕立て屋だった。

仕立ての腕は良く、正直で気さくさに街の皆々から慕われ頼られていた。

ある日、顧客の美しい14歳の娘が富豪の息子に乱暴され、マルブラビーチで死体で見つかった。顧客はショックで入院したので、代わりに警察病院に娘の遺体を引き取りに行った父は、その変わり果てた娘の姿と同じ歳の私がダブり、証拠不十分は建前で、裏で取引され釈放された富豪の息子が警察署から出て高らかに笑う様に激怒した。

父は、南アフリカの秘境に生息するウーズン樹の枝にある水溶性猛毒を糸に染み込ませてシャワー口に細工をすると、富豪の息子が通う高級テニスクラブのシャワーに取り付けた。テニスを終え、シャワーを浴び始めた息子がシャワー口から垂れ出した数本の糸が口に入り、彼は20分後に救急病院に搬送され原因不明の神経猛毒に侵されて半身付随になった。数年前、南アフリカの秘境森でウーズン樹の猛毒を含んだ洪水が起こり、水牛7千頭が数分で絶滅した記録があった。

極悪人の貪欲に理不尽な理由で苦しみ、愛する家族や友人らを亡くした無辜の人々の心に寄り添う父は「グレーヒットマン」と呼ばれた。

父は明晰な頭脳で仕立て物に特殊な細工を施し、事故を誘導して復讐を全うした。

父は、護身用に拳銃を忍ばせてはいたが、その引き金が引かれることは決して無かった。なぜなら、拳銃は空砲だったからだ。

亡父と同じ道を選んでグレーヒットマンになった私の元に集まった、父に家族や友人らを救ってもらったボーイズとて志は同じであるはずだった。


圭のスマホが鳴った。

「ティトから、チャドが夜釣りツアー船を1週間後に予約した情報が入った」

圭が憂いのある瞳で私を見た。

「ボーイズとやるから、凛は心配しないで」

圭、甲斐、潤と目を合わせてから、私は真摯に言った。

「1週間有れば、フィッシングパーカーが作れるわ」

「パーカーで何が出来るんだ?」

訝しげな潤が首を傾げて聴いた。

「水溶性で塩水に早く溶ける無登録の生地が残っているわ。上手く仕立てれば足はつかない」

甲斐が俄かには信じられないという様な目で私を見た。

「私達は殺しはやらない。殺し屋じゃないから。現職警官の鳴門を懲戒免職には出来ないわ。でも、事故なら不運よ」

潤が私の肩に腕を回した。

「危険な夜釣りツアーになりそうだな」


1週間後


夜釣りツアーで出航予定のアストロ号が、ダーリングハーバーに停泊していた。

「もう50分も延長停泊だ。10分以内に出なかったら罰金だぞ」

運航管理官はそう怒鳴ると後続船のスキッパーのご機嫌取りに走った。

午前零時半、集合時間を1時間遅刻して、チャドとドンが酷い酒の匂いをさせてやって来た。

胸の釦を多めに開けたマリンユニホームを着て、豪華40フィートクルーザー夜釣りツアー案内役に扮した私が自己紹介をすると、4つの色目が私の全身を舐める様に泳いだ。私が船内を案内した後、二人は上機嫌で船内バーに座り、潤が作ったカクテルを2杯ずつ飲み干した。

「今夜は南極からの寒波で寒いのでこのフィッシングパーカーをどうぞ。防寒防水に優れたバリスティックナイロン製です」

チャドに手渡そうとすると押し返された。

「自分のは着慣れてるから」

チャドにこのフィッシングパーカーを着てもらわないと計画が全て水の泡になる。

私は焦る気持ちを隠して微笑みながら頷いた。

「美人が勧めてくれるパーカーだから俺は着るよ」

ドンはさっさと自分のを脱いで、新しいパーカーに袖を通した。

「お似合いですよ」

私がにっこりすると、彼は自分の着ていたパーカーから丸めた札束を私の胸ポケットに差し込んだ。

「今夜は君を釣り上げても良いかい?」

ドンの指が私の胸ポケットの中で、胸の膨らみを掴んで嫌な動きをした。

私は彼の手を優しく掴んでポケットから出すとウインクをした。

「お楽しみは後でゆっくりね」

私のシャツの3つ目の釦がマイクロカメラで、私達の動きと会話は、ボーイズにライブ配信されていた。

次の瞬間、船体が急に右に旋回した。

私は咄嗟にライフラインを掴んだ。

しかし、チャドとドンは一気に甲板に投げ出された。

「危ねぇ!スキッパー!何やってんだ!」

ドンがぶつけた頭を押さえながら叫んだ。

「前方で真っ裸の女が泳いでいます!」

スキッパーの甲斐が前方の海面を指差しながら叫んだ。

ドンとチャドは文句を吐きつつも、パルピット(前方転落防止手摺柵)から大きく身を乗り出して海面を見回している。太ったドンのスボンが下がり半ケツを露わにしながら、泳ぐ裸の女を必死に探す後ろ姿が滑稽過ぎて、私は笑いを堪えるのに必死だった。

突然、チャドが両腕で体を抱いて震え出した。

「妙に体が冷えておかしい。君のパーカーは防寒に優れていたね?」

出航前に奴が飲んだカクテルには、体温を急激に下げる薬が入っていた。

「南極でもこれ一枚で過ごせますよ」

「俺もそのパーカーに着替えるよ」

チャドの着替えを手伝う私は、フィッシングパーカーのボタンをしっかりと留めてから、フードの周りに付けられた紐の端を引っ張るほど結

び目が締まるナットヒッチにしっかり結んで、首元の左側の鳩目穴から、ナットヒッチに通した片紐を垂らした。

チャドは機嫌を良くして、脱いだ自分のパーカーから青い錠剤の入った小さなビニール袋を私の目の前に差し出した。

「これで天国に行けるけど、君もどう?」

奴は、パーティドラッグ•エクスタシーを手にして不埒な微笑みを浮かべた。

「地獄に行くなら、お供するの考えてみるわ」

私は上唇をゆっくりと舐めた。

「君はドSか? 参ったな」

チャドの目に淫靡な光が満ちていた。


遊覧航海をしながらシドニーヘッドを抜けて、クルーザーは順調に太平洋沖合に出た。シドニー湾にはなかった強い風が白波をくねらせ踊っていた。

チャドとドンは上機嫌で、何匹もの黒鯛を釣り上げてから、大物のマロウェイと大型真鯛を釣り上げると小躍りして喜んだ。

私が甲板に出るとドスンと大きな音がした。アフト(船尾部)で立ち上がって釣りをしていたドンがいきなり大の字に倒れた。

出航前に彼が飲んだ潤の作ったカクテルには睡眠薬が入っていた。

「おいっ、ドン? お前飲み過ぎだって」

チャドは笑いながら数回、弟の名を読んだが、さほど気にも留めず釣りを続けていた。

「おいっ、ドンが倒れた」

甲板にいた私にチャドが叫んだ。

「奥にベッドを用意しました。彼をそちらへ運びましょうか?」

私がそう言うと、チャドは辺りを見回した。

「ベッドは俺達が使おうじゃないか?」

私は作り笑いをした。

チャドはポケットからエクスタシーを取り出すと、目を爛々と輝かせて言った。

「地獄に行きたいんだろう?」

私は両腕を頭の後ろで組んで、甲斐に合図を送った。

深夜に碇を下ろした操縦室の灯りは薄暗かったが、そこで私達の一挙手一投足を画面で注視している甲斐がBGMを変えた。

ジュン•レノンの「Come Together 」だ。

「舌を出しな」

チャドは太い指で私の舌に青い錠剤を置いた。

私は奴の欲望にギラついた目を見ながら、舌先を丸めて口を静かに閉じた。

奴は私の首に手を回して、首筋に唇を這わせながら、私のシャツの下から胸を乱暴に触った。

甲板に潜んでいた甲斐と潤が立ち上がったので、私は手を上げ、彼らを制した。

口の中の錠剤を奴の肩越しに吹き飛ばすと、私は奴の首に腕を回し、パーカーのネックライン後中心に埋め込まれた、極小ワインディング•マシン(糸巻き装置)のボタンを押した。それから、素早く、前中心にあるフードの左鳩目穴から垂れた紐を手に巻き付けて、思いっきり引いた。

「うっ、なん.....、うっ」

奴の首はフードの紐が後ろから巻き上がり、前からしっかりと結ばれたナットヒッチで締め上げられていた。

紐はパラシュートに使う極小パラコードにワイヤーを入れた特殊な物で、小型トラックを吊れる強度を誇った。

チャドは首を締め付けている紐に指を入れ、解こうと必死で踠いていた。しかし、この細工は無理に動けば動くほど逆効果で反対に締め上がってしまう仕組みだった。

「地獄に行くんでしょう? 私は別の機会にするわ」

奴は踠き苦しみながら、スターンパルピット(後方転落防止柵)の前に立つ私を睨み付けた。

私は素早くスターンパルピットを跨いだ。

目を血走らせた奴が物凄い勢いで私に飛び掛かって来た。

私はトランサム(船尾の平らな部分)に飛び降りて身を屈めた。

丁度、BGMのサビの部分が聞こえた。

Come together (一緒に行こう)

Right now(今だ)

Over me(僕と一緒に)

ジョンレノンの歌声が響き渡った。

チャドは勢い余ってトランサムの縁に落ちてから、海に投げ出された。その時、船尾のフックに奴のパーカーの紐の端が引っ掛かった。これは、全く予想外だった。

「ギェーッ」

トランサムボードのすぐ後ろでチャドが悲鳴を上げた。不運にも奴は、船尾のフックに、偶然引っ掛かった紐のせいで、さらに首を締め上げられ、海面を引き摺り回されていた。

甲斐がトランサムの上で呆然としている私の腕を掴み、アフトデッキへ引き上げた。

「海に落ちたら引き揚げて、轢逃げを吐かせて録音したら、警察に渡すつもりだったの」

私が驚愕しながら、チャドの方に顔を向けようとすると甲斐の手が私の目を覆った。

「これで良い。これは不運な事故だ」


潤がトランサムに飛び降りて、船尾のフックに引っ掛かったチャドのフィッシングパーカーの紐を抜き取った。

「これでリスクゼロ。パーカーは海水に溶けるから」

チャドの亡骸は船尾から離され、穏やかな海面を流れ浮きながら、やがて静かに沈んでいった。


潤が圭に電話をした。

「シドニーヘッドから鮫におしゃぶりを無事に贈りました。これからそちらへ戻ります」

潤が肩を竦めて言った。

「凛に変わってくれないか?」

「スピーカーフォンだから、凛も聞いてるよ」

「凛、飛鳥が......」

圭が泣き崩れた。

「少し前に……」

背筋に冷たいものが走り、私の全身が震えた。

「……目を開けた」

その場にへたり込んだ私を持ち上げて、歓声を上げた甲斐と潤が甲板を走り周った。

私は涙で倍になった満天の星を見ながら、『人が生きているのは、誰かがその人に生きて欲しいと願うからだ』と言った父の声を聞いていた。

Fin

















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グレーヒットマンの娘 小夜原麻里 @sydneyxoticlife

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