第5話 「ん」登場
夕食は、鯵フライのタルタルソースがけ、赤蕪入りグリーンサラダ、さつま芋の甘煮、浅蜊の味噌汁。デザートは小豆のアイスだった。
自室に行くと、セーラー服を着たあっちゃんと水着姿のせっちゃんがいた。こっちの方がしっくりくる。数学の課題をするふりをして、せっちゃんの足の付け根に視線を泳がせる。
トントン
ドアのノック音。
「どーぞ」
入ってきたのは、グレーのトレーナー上下を着たイケメンだった。スポーツをしていそうな体つき。「ん」だった。左の耳たぶにピアスのような「ん」の形をした吸い込まれそうな深い闇があった。
「出たな、乙女の敵」
「なんでアンタがここにっ」
あっちゃんはスカートの裾を抑え、せっちゃんは胸を隠す。
乙女の敵と言われたんは、オレの名前を知っていた。
「もうすぐ夜じゃん? やっぱ『あ』は必要だって。な、そー思うだろ? 本田君」
オレが頷くと、んはニヤリと口角を上げた。
「やっぱ男には分かるよな。『あ』って反応してくれないとさ、こっちとしても楽しくねーじゃん。なあ、『お』のヤローが『あ』に変わろうとしてっけどさ、無理なわけ。昨夜もその前も、あっちゃんいなかったじゃん。オレ、忙しかったわ〜。みんな『ん』で喘ぐ喘ぐ」
「あの、女の子の前でそーゆー話はちょっと」
あっちゃんとせっちゃんの視線が怖い。オレはんの話の腰をポキっと折った。
「そ? DT?」
「悪いっすか?」
うっせーよ。高校生なんてこんなもんだろ。ついでに彼女いない歴=年齢だわ。
「最近は可哀想だよな。1番の盛りんときに。これも時代か。ま、抱くのは遅くても、平等に近い社会がいーのかもな」
んは妙に達観している。当たり前か。すっげー昔から生きてるんだもんな。
「はあ。そーなんですね」
「ま、本田君もさ、好きな子できたら『あ』って言わせる楽しさ分かるから」
んの言葉に「やめてよ」とか「帰れ帰れ」とか言いながら、あっちゃんとせっちゃんはクッションや枕を投げつけている。んはポケットに両手を突っ込んだまま、それをひょいっひょいっと避ける。
「おい、ぶりっ子すんな。BBAのくせに」
「お、お、乙女に向かってBBAとは失礼なっ」
あっちゃんの顔が般若に変わった。ひぇ〜。
「心は乙女のままなんだからっ」
投げるものがなくなったせっちゃんは、パソコンを投げようとする。止めたし。
「人間が口開けて声出すと、『あ』が自然に出てくんだよ。そーゆー大事なもんなんだよ。どの国にもある。人間が永らえてきたのは年中無休の規格外の性欲のせいだろ」
「黙れ!」
とあっちゃん。
「せいよくってゆーな!」
とせっちゃん。
「『愛してる』が遣われないってゴネてっけどさ、軽々しく遣えねーんだよ。マジで分かってねーよな。『あ』って言わせる状況で、『愛してる』ってゆーんだよ」
え、そーなん?
あっちゃっんは言い返す。
「それはアンタのテクでしょーが!」
「帰るぞ。せっちゃんを巻き添えにすんな。何気に困るから。『背中』とか『もっと責めて』って言えねーじゃん」
「サイテー。ちょっ、やめてよ。スカートがっ。バカバカ
んは、ひょいっと、あっちゃんを荷物のように左肩に担いだ。
「あっちゃんを放せ! 下半身男」
ジタバタジタバタと暴れるあっちゃんにせっちゃんは手を伸ばす。
勇気を出してオレは言った。
「あの、無理強いは良くないと思います」
ピタッとみんなの動きが止まる。
んは、丁寧にあっちゃんを床に下ろした。
あっちゃんは眉をハの字にしてオレを見る。
「ごめんね。本田君」
「いえ、オレは別に……」
あっちゃんに言ったんじゃなくて、んに言ったつもり。
「自分でも分かってる。戻らなきゃってこと。
私、本田君に
『愛してる』を遣ってって」
「善処するよ」
遣う予定はまだないが、オレは頷いた。
「私、戻る」
あっちゃんはドアの前に立った。
んはまるで2人の保護者のよう。
「本田君、迷惑かけたね。コイツら、連れて帰るから。あ、そーそー、本田君」
「はい」
「ちゃんと告ったのはよかった。だけどさ、カノジョが欲しいってだけでつき合うなよ」
見透かされてる。オレは「好き」って言ったけど、心臓が痛くなるあの気持ちじゃなかった。
「はい」
分かってた。カノジョが欲しかった。意味のないメッセージを送りあったり、学校から一緒に帰ったりしてみたかった。その先もめっちゃ興味ある。
「本当に好きになってさ、そーゆー感じんなったら、『愛してる』って言えよ」
そーゆー感じ……。
あっちゃんがんが訴えた。
「本田君、私ね、言葉を遣う人間を愛してる。本田君も『愛してる』って言って。ラッシーにも。もし生まれたら子供にも、いっぱいいっぱい言ってね。『愛してる』って言葉、なくさないで」
「分かったよ」
んがドアを開けた。ドアの向こうは真っ白な空間。地面も天井も空も景色も何もない。
「楽しかった。ありがと。本田君」
そう笑ったせっちゃんの泣きぼくろが、心に染みみたいに残った。
〜〜〜〜〜〜おわり〜〜〜〜〜〜
「あ」 summer_afternoon @summer_afternoon
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