【短編】片付けられない俺の胆嚢

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片付けられない俺の胆嚢

 片付けが苦手な子供だった。


 自宅の学習机の上には教科書や文房具だけではなく、漫画本やプラモデルのパーツや小さな模型、キャラクターの消しゴムやカードなどが乱雑に散らばっていて、ノートを広げるスペースもなかった。

 部屋全体もごちゃごちゃしていて、脱いだ服は脱ぎっぱなし、ゲーム機や遊び道具は床に出しっぱなしで、よく母親に怒られたものだ。


「どうしてあんたは片付けられないの!?」

 そう言われても、片付けられないものは片付けられないのだから仕方がない。

 そもそも片付けをしなくても特に不便はなかったし、わざわざ手間をかけて整理整頓をしてもどうせまた散らかるのだから意味がないと思っていた。

 そりゃあ、たまに必要なものが無くなって焦ったりもしたけれど、ほとんどの場合は見つかったし、わざわざ日常的に片付けをしようとは思わなかった。


 俺が片付けられないのは自宅だけではなく、学校でも同じだった。

 机の上──は頻繁に物が出入りするので散らかっているという事はなかったが、問題は中の方だ。

 普通、学校で受け取ったプリントや書類は全てファイルに入れて持ち帰るべきなのだろうが、それが面倒だった俺は親に見せなければいけない書類以外は適当に押し込んでいた。

 放り込まれたテストの答案や返却された宿題のプリントは、教科書を出し入れする度に机の奥へと更に押し込まれてゆく。そしてチリも積ればなんとやら。くしゃくしゃになって押し込められたプリント達は徐々に体積を増してゆき、やがて地層のようになり、机に教科書を入れると頭が飛び出すまでになってしまった。


 それでも俺は片付けをしなかった。

 めんどくさかったし、ぐしゃぐしゃになったプリントの集合体を片付けているところをクラスメイト達に見られるのが恥ずかしかったからだ。


 ある日の事だった。

 昼休みの後の掃除の時間が終わり、教室に戻ると、クラスの女子達が俺を見てクスクスと笑っていた。

 訳もわからずに自分の席に座ると、机の様子がいつもと違う。

 教科書やノートがすっぽりと机の中に収まっているのだ。

 おかしいと思って中身を引っ張り出すと、プリントの地層が無くなっていた。


「出口さんが片付けてくれたんだよ」

 隣の席の女子が教えてくれた。

 出口さんは学級委員で、学年で一番頭の良い女子だ。

 家は地元で一番大きな病院を経営していて、育ちも良い。

 ピアノを習っていて、合唱コンクールやイベントの時にいつもピアノ伴奏をしていた。

 面倒見が良くて優しくて、生徒にも先生達にも男女問わず好かれている人だった。

 そして、バカで貧乏で運動もできなかった俺からすれば、あまり関わりたくないタイプの人種だった。

 接していると劣等感を煽られるからだ。


 本来ならば、『出口さん、片付けてくれてありがとう。助かったよ』と言わねばならないところなのだろう。

 しかし、俺の胸の奥から湧き上がっててきたのは、例えようのない怒りと恥ずかしさだった。


 俺は親切心からの片付けであろうと、自分に与えられた空間を他人にいじくりまわされるというのがたまらなく嫌だったのだ。

 弱い人間ほど、自分のスペースを守りたくなるものだ。

 殻を破られたくないのだ。

 触れられる事が怖く、傷付くのだ。

 しかも皆の前で大して仲良くも無い女子に机の中をひっくり返されたのかと思うと、怒りでハラワタが煮え繰り返りそうだった。いや、煮え繰り返っていた。


 俺は次の授業の準備をしている出口さんの机まで赴き、初めて自分から声を掛けた。


「おい、俺の机を片付けたのか?」

 他人に対して怒り慣れていない俺の声は震えていたと思う。


「え?」

「なんで勝手に触るんだよ」

「だって……汚かったから」

『汚かったから』

 その言葉が、まるで俺自身を汚物のように扱われたかのように感じられて、俺の怒りは尚更増した。


「汚かったら勝手に触っていいのかよ!?」

 怒りを露わにする俺の態度に、出口さんもムッとしたようだ。出口さんは普段は割と大人しいが、言う事は言うタイプの人間だったとは思う。


「勝手にじゃないし!」

「勝手にだろ!?」

「掃除の時に机運ぼうとしたら、教科書が中から落ちてきたの! それで中に入れようとしても入らなかったから片付けたの!」

 俺と出口さんのやり取りに、教室の中が騒めき始めた。

 男子達からの好奇の目、そして女子達からの冷たい目。

 俺みたいなクラスカーストの低い奴が人気者の出口さんにつっかかればどうなるかはわかっていた。

 しかし、武士の一分ではないが、俺にも譲れない一分があった。


「だからって勝手に人の机の中見るなよ!」

「じゃあ普段から綺麗にしとけばいいじゃん!」

「それとこれとは話が違う!」

 女子達が周りに集まってくる。

 まるで俺が不審者か犯罪者のように眉を顰めて、出口さんの前に立ちはだかる。


「出口さん大丈夫?」

「ちょっとあんた出口さんになんなの?」

「出口さんが机を片付けてあげたのにお礼とか言わないの? 最低だね」


 俺は出口さんと話をしているのにわらわらと日光の猿のように群がってくる連中がうざったらしくて、イスを振り回して全員ぶちのめしたくなった。

 こういう時にでしゃばってくる奴は大抵ブスなので余計に腹が立つ。

 いや、別に彼女達の容姿の造形が神に嫌われているレベルで悪いというわけではなかったのだろう。

 今だからわかるが、無駄に集団になって優位性を保ちながら何の根拠もなく一人の人間貶めようとする人間の顔はどんな美人であっても野生のゴリラよりもブスに見えるものだ。


 でも俺は理性的な人間だったのでゴリラ共の顔面に右フックをぶち込んでやるわけにもいかなかったし、他の男子達の手前引くわけにもいかなかった。


「謝れよ!」

「なんで私が謝らなきゃいけないの!?」

「人が嫌がる事したんだから謝れよ!」

 俺が賢くて冷静であれば、もっと上手く自分が怒っている理由を説明できただろう。いや、いくら弁が立ったとしても俺が悪者であるという空気は変えられなかったかもしれないが──。

 ただ俺は、俺のパーソナルな空間に勝手に触れて、尊厳を傷付けた事を一言謝って欲しかっただけなのに。


 しかし、それ以降はでしゃばりクソブス共がギャーギャー喚き出したので出口さんと対話するどころではなくなった。

 そして授業開始のチャイムが鳴り、結局出口さんに謝ってもらう事はできなかった。


 しかも帰りの会の時に、でしゃばりなクソブスが先生に先程の出来事を告げ口して、俺は女子達に吊し上げられてしまう。

 帰りの会とかいう魔女裁判の場で強制的に被告人台に上げられた俺は仕方なく自分の正当性を主張したが、優等生の出口さんと悪ガキの俺の主張がぶつかり合えば、差別主義者である先生がどちらを正しいとするかは分かり切っていた。


「うーん……。片付けてもらったのに文句を言うのはおかしいよね? 君が謝りなさい」

「……嫌です」

「人間は素直である事が一番です。さぁ、素直に出口さんに謝って仲直りしましょう」

 後に女子中学生への強姦で逮捕されて全国ニュースになるクソ先生は、神父さまみたいな語り口で俺に謝罪を促した。

 でも俺は謝りたくなかった。

 先に出口さんが『勝手に机の中触ってごめんね』って言ってくれれば、土下座でも切腹でもしてやるつもりだったけど、問答無用で俺を悪者だと決めつける連中の前では死んでも自分から謝りたくなかった。すると先生はこんな事を言い出した。


「君が謝るまでみんな帰れないよ」


 最強の殺し文句だ。

 これを言われたら素手で自分の生爪を剥がせと言われても従わなければならない気分になる言葉である。

 それでも俺は三十分耐えた。

 何を言っても無駄だと理解できたので、ただだんまりを決め込んで耐えた。

 己が一分のために、皆の冷たい視線にも、ヒソヒソと囁くような罵声にも耐えた。

 出口さんは何も言わなかった。

 キンキンに冷えたクソまみれの汚水の中に全裸で浸っているような気分だった。


 しかし、一人の女子が「先生、トイレ行きたいです」と言い出し、「彼が謝るまでダメです」と先生が返したのを聞いて、俺の心は折れた。

 俺は小一の時に授業中にお漏らしをした事があり、その辛さを知っていたからだ。


「……すいませんでした」

 悔し涙を流しながら謝罪の言葉を口にする俺に、「よく謝った」「謝れて偉い」なんて称賛の言葉はなかった。

 ただ渋滞がようやく動き出したかのようなうんざりとした空気が流れ、「謝るならさっさと謝れよ」という罵声が飛んだだけだった。



☆☆☆☆☆



 片付けられない俺は、その後もとっ散らかった人生を送る事になる。

 地元の中学に進学して、ヤンキーの先輩に目をつけられてボコられたり、なぜか副生徒会長になったりした。

 そして県内有数のバカが集まる工業高校に進学し、卒業してからは自動車工場で期間工をして金を貯め、なんとなく東京に出た。


 それからフリーターをしながらパチプロをしたり、演劇をしたり、闇カジノのスタッフをしたり、お笑いをしたり、漫画家のアシスタント等をしたが、どれも長続きはしなかった。


 そして三十歳が間近に迫ったある日、そろそろ落ち着かねばと思って地元へと戻り、旅行代理店に就職する事になる。


 両親とは暮らしたくなくて、ワンルームのアパートを借りた。

 それからはただ職場と家を往復するだけの日々だ。

 就職した会社はクソみたいなブラック企業だったけど、不思議とこれまで挑戦してきた様々な事よりも一番長続きした。

 多分俺にはチャレンジャーや表現者よりも、奴隷の方が性に合っていたのだろう。


 そんなある日、俺は何もかもがどうでも良くなった。

 自分が何も成せず、誰にも愛されない人間である事はガキの頃からなんとなくわかっていた。

 その事実から必死に目を背けてきたけれど、もう限界だった。


 よし、死ぬか。

 そう思い立った時、これまでできなかった片付けが嘘のようにできるようになった。

 部屋に溜め込んでいたゴミを捨て、本を古本屋に売り払い、思い出の品々を粗大ゴミに出したりリサイクルショップに引き取って貰うと、アパートの中は嘘のように綺麗になった。


『へぇー、死ぬ気になれば俺にも片付けができるんだ』と、ポジティブに捉える事はできなかった。

 むしろ死ぬ気にまでならなければ、普通の人達が当たり前にやっている事もできないのだと落ち込んだ。

 それから俺は仕事を辞め、綺麗になった部屋で貯金を切り崩しながら悠々自適な日々を過ごした。


 そして貯金が十万を切った頃、死に場所を探し始める。

 レンタカーを借りてどこか人気の無い場所に行き、練炭で死ぬのが無難だと考えた。

 死ぬという事に不安はあったけれど、このまま何を取っても美味しくない激安バイキングような人生を送り続けるよりはずっといい。

 当時の俺はそう思っていた。


 そしてある日の朝、スマホの地図アプリで死に場所を探していた時だった。


 腹部に違和感を覚え、俺はトイレに行った。

 しかし便は出ずに、胃薬や正露丸を飲んでみても違和感は消えなかった。

 やがて違和感は痛みへと変わってゆく。

 始めは軽い胃痛程度だった痛みが、時間の経過と共に加速度的に増してゆく。

 今が痛みのピークで大人しくしていれば徐々に和らいでゆくだろうと思っていたが、痛みはどこまでも右上がりにピークを更新してゆく。


 俺は痛みのあまり立ち歩く事ができなくなり、やがて座っている事もできなくなり、布団に包まりながら痛みに耐え続ける。

 ズキンズキンと一定の波があるような甘えた痛みではない。

 無限に続く甲子園のサイレンのように、強烈な痛みがずーーーーっと続くのだ。


 まるで巨大なゴリラに、どこか内臓の出っ張っている部分をギューってつままれているかのような痛みだった。

 涙が出て、何度も嘔吐を繰り返し、胃液しか出なくなっても痛みは続く。

 腹の痛みを和らげるために腕に噛み付いたり、太ももをつねってみても気休めにもならない。


 そして腹痛が始まってから数時間。

 いよいよ耐えきれなくなった俺は、力を振り絞って救急車を呼んだ。

 救急車が来るまでの十五分が、果てしなく長い地獄のように感じられた。

 痛かったり苦しい死に方が嫌で煉炭自殺を選ぼうとしていた俺だったが、あの痛みの中でサクッと手首でも切ってしまえばあっさり死ねたのではないかと今更ながら思う。


 やがてサイレンの音が天使のラッパのように遠くから聞こえてきて、アパートの前で止まる。

 俺は生まれて初めて乗る救急車にテンションを上げる事もなく、自分より若い救急隊員のお兄さんに「助けてください……助けてください……」と情けない言葉を繰り返していたのを覚えている。


 病院に着いた俺は診察室の奥にあるベッドに寝かされた。

 どうやらその日は病院が混んでいたようで、しばらく待たされる事を伝えられた俺は絶望した。

 しかし痛みのあまりうめいていると、おばさん看護師が坐薬を入れてくれて、かなり痛みが和らいだ。


 いい年した男がケツを丸出しにされて坐薬をぶち込まれたのだが、正直全く恥ずかしくなかった。

 そしてあの時はただのおばさん看護師が、本当に天使のように見えた。多分一番最初に看護師を『白衣の天使』と例えた人は、その時の俺と同じような心境だったのだろう。


 それから医者の診察を受けたのだが、痛みの原因は『胆石』だと言われた。胆嚢に石ができて、それが胆管を詰まらせて炎症を起こしていたのだ。『尿管結石は死ぬ程痛い』という噂は聞いていたが、まさか胆石もこんなに痛いとは思わなかった。


「タイミング良かったね。ちょうど手が空いてる先生がいるから手術しようか」

 すぐ手術を受ける事になった俺は服を着替え、別のベッドに寝かされる。そしてあれよあれよと手術室へと運ばれて、口に掃除機のホースみたいなものを突っ込まれた。いや、そこまでは太くはなかったかもしれないが、「もごぁっ!?」って言うくらい太かったのは確かだ。多分あれは麻酔をするための管だったのだろう。

 それから先はよく覚えていない。

 ただ薄れゆく意識の中で、どこか懐かしい声を聞いたような気がした。



☆☆☆☆☆



 目を覚ますと、そこは真っ暗な病室の、カーテンに囲まれたベッドの上であった。

 どうやら手術は成功したらしく、お腹の痛みはすっかり消えている。

 股間が地味に痛かったのは、尿を取るためのカテーテルを挿入されていたせいだ。

 酷く喉が渇いていて、ナースコールを押して看護師さんにお茶を買ってきてもらったのだが、それが全身に染み渡るように美味かった。


 そしてしばらくボーっとしてからまた眠り、朝には味の薄い朝食を食べた。

 考えなければならない事は色々あったが、何も考えなかった。

 ただ、『健康ってありがたい事なんだなぁ』とか、病気になった八割の人が思うであろう退屈な感想を噛み締めていた。


 俺のベッドは窓側で、外には広い駐車場が見えた。

 駐車場は朝にも関わらず、みるみるうちに車で埋まってゆく。

 そんな光景を眺めていると、誰かがカーテンの中を覗き込んできた。


 短めの髪に軽くパーマをかけた女だ。

 年頃は俺と同じくらいだろうか。

 白衣を着ているが、なんだか様子がおかしい。

 なんとも形容し難い微妙な微笑みを浮かべて、俺の顔を見つめてくるのだ。


「……なんですか?」

「わかんない?」

 それは久しぶりに会う人間にかける言葉だ。

 俺はパーマ女の顔をじっと見つめる。

 すると、ずっと昔に観た映画のDVDを再生した時のように猛烈な懐かしさが込み上げてきた。


「出口さん……?」

「覚えててくれたんだ。久しぶり」

 なんとパーマ女はかつて小学校の同級生であった、あの出口さんだったのだ。

 その時俺は自分が運び込まれた病院が出口さんの実家である出口医院である事を思い出し、そのついでに出口さんが将来医者になりたいと授業で言っていた事を思い出す。


「医者になったんだ……」

「うん、なった。お腹の調子どう?」

「おかげさまで。死ぬかと思ったわ」

 驚くべき事に、俺の手術を執刀したのは出口さんだったのだという。同級生に腹を捌かれたとは、なんとも奇妙な気持ちであった。


「はい、これ記念品」

 出口さんが手渡してきた小さな瓶には、丸いクランチチョコのような物体が五つも入っていた。俺の胆石だ。


「これが胆嚢の入口を塞いでたんだよ」

「はぁー……。んで、胆嚢を開いてこれを取り出したの?」

「ううん。もう胆嚢ごと取っちゃったよ」

「え? マジ?」

 医学的な事は俺にはよくわからないが、どうやら俺の胆嚢は切除しても問題なかったのでちょん切ってしまったらしい。

 そんな事をして大丈夫なのか心配になったが、むしろもう胆石ができる事が無くなり、メリットの方が大きいのだと出口さんは語った。


 でも、『勝手に人の胆嚢取るなよな』とは思った。

 そしてその時思い出されたのはあの日の事だった。

 二十年以上も前、勝手に机を片付けられたあの日──。


「まさか、お腹の中まで片付けてもらう事になるなんてなぁ」


 懐かしさと共に、そんな言葉が口から漏れた。

 それを聞いた出口さんは一瞬キョトンとした表情を浮かべ、「ぶはっ」と吹き出すと、口を押さえて苦しそうに笑い始めた。そしてしばらく笑った後に、「あー、そっか。そうだったよね」と、指で涙を拭いながら言った。


「あの時ごめんね」

 二十年越しの謝罪を、俺は素直に受け入れはしなかった。


「いや、あれは机を片付けてなかった俺が悪かったんだよ」

 本当は自分が悪かったとはあんまり思ってはいなかったが、ちょっとだけカッコつけたかったのだ。腹の中まで見せておいて今更ではあったが。


「ううん、そっちは別に悪いと思ってないよ」

「え?」

「机を片付けたのは悪い事したと思ってないもん。でも、その後帰りの会で晒し者にしちゃったじゃん。あれは申し訳なかったなぁって」

 案外ハッキリと覚えているものだ。

 出口さんがあの帰りの会の事を気にしているとは思わなかった。


「あぁ……。あれこそ出口さんは悪くないだろ。あれはあいつが悪いんだよ、関係ないくせに先生に告げ口したあのでしゃばりなブスの……名前なんだっけ?」

「白石さん?」

「そうそう、白石」

「でしゃばりのブスって、相変わらず口悪いね」

「それですぐに白石の名前が出てくる出口さんもどうかと思うけどな」

「だって白石さんでしゃばりだったし。私もあんまり好きじゃなかったもん」

 そう言って出口さんは「あはは」と笑う。

 それから俺達はしばらく、当時のクラスメイトの誰と連絡を取っているかとか、誰が結婚したとか、そんな話で盛り上がった。まるで二人きりの同窓会のように。


 結局俺は二週間も入院する羽目になったのだが、その間出口さんはちょくちょく病室に顔を出して話し相手になってくれた。

 それは嬉しかったのだが、カテーテルを抜かれる時はめちゃくちゃ痛かったし、少し恥ずかしかった。


 そして退院が迫ったある日、出口さんはこんな話を切り出した。


「そういえば、まだお笑いはしてるの?」

「……なんで知ってるの?」

 俺は東京にいる時に、しばらくフリーのお笑い芸人として一人で活動していた時期があった。ネタはしょうもないフリップ芸で、活動も長続きはしなかったが。

 なぜ俺がお笑いをやっていた事を出口さんが知っているのか不思議に思った。


「大学時代に付き合ってた彼氏の友達がお笑いやってて、一緒にライブ見に行ったの。その時出てたの見たんだよ」

「マジで?」

 出口さんの彼氏の友達というのは、今やテレビにも出ている人気お笑いコンビのミッシュマッシュの事らしい。

 彼等が駆け出しの頃、確かに俺は何度か場末のお笑いライブで一緒になった事があった。最も、彼等は初めからちゃんとした事務所に所属しており、俺みたいなフリーの芸人とはレベルが段違いではあったが。


「あれ面白かったなぁ」

「あの人達はなぁ……。やっぱ売れる人達って駆け出しの頃から面白いんだよな」

「違うよ。君のネタが」

「いやいや、勘弁してくれよ」

 本当に勘弁して欲しかった。

 テレビで活躍しているミッシュマッシュと違い、俺はインターネットで検索しても出てこない有象無象以下の芸人だったからだ。


「でも、あの時の君のネタは覚えてるよ」

「流石に嘘だろ。十年以上前のネタなんて俺も覚えてないし」

「大造爺さんとガンダム」

 そのワードに、俺は思わず吹き出しそうになった。

 俺は昔から椋鳩十という作家が好きで、彼の代表作である『大造爺さんとガン』という作品をパロディして、『大造爺さんとガンダム』という馬鹿みたいなネタを作ってライブでやった事があったのだ。もちろんウケなかったが。


「記憶力凄いな。流石医者だわ」

「私も椋鳩十好きだったもん」

 確かにあれは刺さる人にはブッ刺さるネタではあったかもしれない。


「私もああいうのしてみたかったな」

「お笑い?」

「お笑いっていうか……ステージに立って何かするみたいな」

「ピアノやってたじゃん」

 俺の記憶では、出口さんは何かある度に体育館で壇上に上がってピアノを弾いていた覚えがある。


「音楽は好きだけどピアノは親にやらされてただけだし、あれはまた別だよ。なんていうか、自分からステージに上がって、知らない人達に向かって何かを表現するっていうかさ」

「……ステージに上がるだけなら誰でもできるよ。俺みたいに」

「そんな事無いよ。結局私は立てなかったし」

 そう言って出口さんはスマホを取り出すと、「これ聴いて」と何かを再生し始める。

 すると流れ始めたのは独特なテンポの洋楽であった。


「何これ?」

「レゲエ」

 なぜ出口さんが俺にレゲエなど聞かせるのか謎だったが──。


「……これ出口さん?」

 流暢な英語で歌っているのは出口さんの声だった。

 俺はスマホと出口さんの顔を見比べる。

 出口さんは顔にはにかみの表情を浮かべていた。


「どう? 作詞作曲も私」

「……なんか凄いね。英語わからないけど」

「本当はね、音楽関係の仕事したかったんだ。ライブとかも出てみたかったけど、なんか踏みとどまっちゃってさ」

「ふーん……。でも結果的に医者になってるんだから立派だよ」

 仕事を辞めて死のうと考えていた俺に比べれば一億倍立派だ。

 晴れやかな気分ではなかったけれど、死のうという気はいつの間にか失せていた。割と固く決意したつもりだったが、胆石の痛みのせいで、くだらない決意はほとんど消えてしまったのだ。


「ねぇ、退院したらネタ見せてよ」

「マジで言ってる? お笑いとかもうずっとやってないんだけど」

「小児科病棟にたまに慰問の人達に来てもらうんだけど、その時にやってよ。私も見たいし、子供達も喜ぶと思う」

 俺はあんまり考えずに、「いいよ」と言った。

 なんだかんだで、俺は人前に立つのが好きなのだ。

 何より、子供の頃には異星人のようにすら思えていたあの出口さんに、そして今もあの頃と変わらず立派に生きている出口さんに頼まれてというのが嬉しかった。


 そして退院してから一カ月後、俺は小児科棟のレクリエーションルームにて、子供達と出口さんの前でネタを披露した。

 内容はお笑いのネタというよりは、子供達にもわかりやすいように考えたコメディ寸劇であり、片付けの苦手な胆嚢君が色々な物を散らかしっぱなしにしていると、体の中に石ができて動けなくなってしまい、通り掛かりのお医者さんに助けてもらう。そしてこれからはちゃんと片付けをしようと誓うというものだった。


 結果はややウケ。

 だけど久しぶりに人前に立てた事が嬉しかったし、楽しかった。

 これがラブストーリーであれば、『今では出口さんが女房として毎日家を片付けてくれている』と、なるところであろうが、残念ながらそうはならなかった。

 でも、今でも年に一度人間ドッグに行くと、俺の体の中が散らかっていないかチェックしてくれるのだ。






【完】

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