(後)

 その日の夜、職場から帰った夫は赤いやら青いやらわからない表情を浮かべていた。昆布が出て来るATMに振り回されているのは、私よりも夫の方だ。いつも通りの困った顔に、色んな表情が浮かぶようになった。別に悪いことではないけれど。


「おかえり」

「バズった」

「お、か、え、り」

「あ……、ただいま」


 夫の返事は、長い夢から醒めた主人公の声に似て淡かった。

 今晩の夕食はカレーだ。もちろん昆布は入っていない。ATMから出て来た利尻昆布は店長に渡しておいた。明日になれば、あの昆布も商売繫盛のお守りの仲間入りをしているかもしれない。

 私は鍋からカレーをよそいながら、洗面台で手洗いをしているだろう夫に向けて声をかけた。


「何がバズったの?」

「昆布だよ。利尻昆布」

「昆布?」

「投稿したんだよ、『うちの奥さんがATM使ったら利尻昆布が出て来た』って。そしたらバズった」


 確かに、写真を送った時にSNSに投稿してもいいかと彼に聞かれた。店長が問題ないと答えたので、私も別にいいと返事したのを思い出す。

 普段は食事の席にスマートフォンを持ち込まない夫が、カレー越しに平たい機械を手渡して来た。言葉の通り、利尻昆布の写真の閲覧数は数十万回にも及んでいた。


「俺、こんなの初めてだよ。休憩中に覗いたら見たことない数字になっててびっくりした」

「みんなまだ昆布に興味あったんだね」

「日高昆布には飽きてたけど、利尻昆布には驚いたんじゃない」

「でも、昆布の違いなんか今まで気にしたことないでしょ?」

「ない。だから驚いたんだよ」


 夫の投稿には、利尻昆布を販売する企業からのコメントも寄せられていた。曰く、一般的には知名度がまだまだ高くない利尻昆布に光を当ててくださいまして誠にありがとうございます。もしよろしければ、弊社の利尻昆布もぜひご賞味ください。

 きっと抜け目ない担当者なのだろう。コメントの文末には、利尻昆布の購入サイトのリンクが貼られていた。


「利尻昆布、出汁を取るのに時間がかかるけど上品な味で美味しいよって店長が言ってた」

「そのうち誰かが、『利尻昆布で簡単に手早く出汁を取る方法』とかいう動画出しそう」


 夫は何か手柄を取ったかのように、ほくほくとした笑顔をこちらに向けた。カレーに舌つづみを打っているわけではないだろう。多分彼は、人生で一番の注目を浴びている。その快感を噛みしめながら食卓に座っている。

 だから私は、画面に浮かぶ夫の晴れ舞台を堪能することにした。話題が昆布だからか、見知らぬ人たちが夫に向ける言葉は数の割には穏やかだ。そのうちの一つに私の視線が止まる。


「ねえ、他にも違う種類の昆布が出て来た人いるみたいだよ。んー、読み方がわかんない」

羅臼らうす昆布?」

「多分そう」

「俺もさっきそのコメント見た。高級な昆布なんだってさ」

「そういう昆布って、出汁取ったらやっぱり味の違いがわかるのかなあ」

「試してみたいけどね。見た目だけじゃ、普通は昆布の種類の違いなんか気付かないだろうし。料理人とか、昆布関係の人ならわかるかもしれないけどさ」


 彼のように、幾分の疑問を持つ人は他にもいたらしい。「うちの近所のATMから出てきたのは羅臼昆布でした」というコメントに、どこかの誰かがこんなコメントを書き添えた。


『明らか嘘言ってるヤツいて草

 人の投稿に便乗して満たす承認欲求はうまいか?』


 そんなこと言わないでほしかった。こんなに冷たい言葉を放つなら、もっと前にさかのぼる必要があるから。

 羅臼昆布が出て来たと自称する誰かが便乗したのは夫の投稿じゃない。昆布の種類であれこれ騒ぐ人たちが、昆布が出て来るATMについて報道する人たちが、レシピを公開してバズった人たちが、昆布をお守りだの御朱印帳代わりにして人を集めた神社仏閣が、フリマサイトで昆布を売る人たちが、昆布の写真をインターネットに上げた人たちが。みんなが便乗したのは昆布が出て来るATMだ。ATMから出て来た昆布だ。

 彼らは誰一人として思いを馳せない。どうしてATMが札束以外のものを吐き出そうとしたのか。どうして海でもスーパーの店先でもない場所に、昆布が姿を見せたのか。


 多分そのことにうんざりしたのだろう。ATMが、もしくは昆布が。

 騒ぎが始まって一週間を過ぎた頃、ATMを使っても昆布が出て来ないことに誰かが気が付いた。最初に声を上げたのは一人二人だった。それがいつしか波のように日本中に広がって、あっという間にどのATMからも昆布は出て来なくなった。

 いや、違う。当然のことだろう。そして私たちはいつか忘れてしまうはずだ。

 最初からこの世には、昆布が出て来るATMなんてなかったんだから。

 




 まだ空が白む前の海を割り、昆布漁に出かける船があった。夏とは言え、この時間の北の海は骨の髄まで冷える寒さだ。彼はウィンドブレーカーのフードを深くかぶって、吹きさらしの甲板に腰を下ろしている。潮の香りに鋭く鼻先を刺され続けるのを、彼は鼻をすすって何とかやり過ごしていた。


 昆布漁は繊細だ。ただ晴れていればいいものではない。波が高すぎてはだめだし、波が穏やかでも晴れる見込みがなければ漁には出られない。なぜなら、昆布を天日干し出来ないから。

 今朝、昆布漁に出られたのはめでたいことだ。昔から人々が昆布を縁起物だと言って褒めそやすのは、言葉遊びだけが理由ではないと彼は信じていた。昆布が食卓に並ぶのは、いくつもの幸運の積み重なりだから。


 彼は自分の将来の姿を父に重ねる。父はこの辺りで養殖昆布漁を営む漁師の一人で、先日テレビ番組のインタビューに答えていた。朝に電話が架かって来て、昼過ぎには取材がしたいなんて急な依頼だったのに。父が言うには、以前、地元の昆布漁を取材したテレビ局関係者だったから応じたそうだ。昆布漁の番組が放送された後、一時的にでも昆布がよく売れた恩返しになるからと。

 まだ若い彼は、そうした義理人情に厚い父に対して尊敬と違和感がないまぜになった気持ちでいる。一番わからなかったのは、どうして「ATMから出て来た昆布なんて気味の悪いものなんか食べずに、うちの昆布を食べてくれ」と父が言わなかったのか。彼の疑問に父は答えた。


「そんなこと言ったら、俺たちの昆布が嫌われちまうだろ。ATMから昆布が出て来たなら、今まで昆布のことなんか気にしてなかった奴らも昆布を食うようになる。いつかそういう連中が、うちの昆布を買うかもしれない。その中で一人でも上客になれば上等だ。誰が客になるかわからないんだから、無暗に敵を作るモンじゃねえよ」



 やがて船は動きを止めて、いつも通り彼は父と一緒に昆布の引き揚げ作業を始める。波間にぷかぷか浮かんでいるブイを目印に、昆布がかかっているロープを海中から機械で引っ張り上げる。

 波の音で満ちていた船上に、働く機械の音が割って入る。その音に合わせ踊り出すのは、艶やかな茶色いうねり。甲板で作業する彼の周りは、引き揚げられたばかりの昆布でいっぱいになる。テレビで見たことがある、渋谷の交差点の様子に似ていると彼は思う。信号が青に変わった途端、そこら中から人がうじゃうじゃ溢れ出す交差点に。

 作業の間、父とは特に話さない。だから、「交差点みたいだ」なんて父には言わない。父は海の方を向いたまま機械を操作し、彼は昆布を引き込み甲板から零れ落ちないよう面倒を見る。阿吽の呼吸と言えば聞こえはいいかもしれないが、何もかもがいつも通り過ぎて話題がないだけだ。彼はだいぶ作業に慣れたから、父に叱られる回数も今ではゼロに近い。それはいいことなんだろうか。彼にはよくわからない。


 その時、がこん、と鈍い衝撃が船を揺らした。彼が父の方を向いても、黙り込んだ背中だけでは父が何を思っているのかはわからない。だから彼は、その日船の上で初めて声を上げた。


「なんで止まってんの? 壊れた?」

「なんか引っかかってるみてえだけど、わからんなあ」


 父の声を聞いたのか、機械はまた動き出した。彼と父は顔を見合わせる。久しぶりに見る父の顔だった。だけど父は息子と同じく、感傷に浸るでもなく首を傾げてからまた海へ顔を向ける。きっと機械の気まぐれだろう、港へ戻ったら点検するか。父はそう判断したに違いないと、彼も納得する。

 今度は順調に引き揚げが終わり、機械は悪びれるでもなくいつも通り動きを止めた。それでも父は海を見つめている。帰りも船を操縦するのは父なのに、操縦席へ向かう気配がない。


「おい、来てみろ」


 彼が声をかけるより先に父が言った。今まで、漁が終わった船上でそんな風に声をかけられたことは一度もない。だから彼は昆布の波をかき分けて父の元へ向かった。もちろん、大事な昆布を踏まないように気をつけながら。心臓がやけにうるさかったのは、作業後の疲れのせいだけではないだろう。

 目の前には、見慣れたはずの海が広がっていた。だけど視界の真ん中に、見慣れないものが浮いている。いや、田舎の港町暮らしの彼だって当然あれを目にしたことはある。使ったこともある。それでもやっぱり、ここでは見慣れない。彼は呟いた。


「なんだあれ……」

「ATMだろ」


 なぜか父はきっぱり答えた。まるで、昆布漁をしていれば海に浮かぶATMを見るのは当たり前だとでも言いたそうな口調で。彼は、落ち着き払った父の声を聞いてかえって混乱する。


「ATMって浮くのかよ。だいたい、なんでATMがこんなところに、ここ、うちの昆布の……」

「しょうがねえだろ、出ちまったモンは」


 波に押されたATMは、所在なさげに彼らの船に向かって来た。この辺りで見かけるトドよりも懐っこい雰囲気で、ATMは船にぶつからないように彼らの様子を眺めていた。

 すると、おもむろに父は作業ズボンのポケットを開けた。彼はその時まで、父がポケットに財布を入れていたのを知らなかった。いつも漁に持って来ているのか、偶然今日だけそうしていたのか。漁に財布は必要ない。だって海にはATMなんかないから。

 手が届くほど近い場所にATMが浮かんでいる。父は財布からキャッシュカードを取り出すと、一度だけ彼の方に子どもっぽく微笑んで見せた。


「昆布から出て来たATMからは、何が出て来るんだろうな」


 父のキャッシュカードを飲み込んだATMは、やがて得意気な顔で口を開く。

 いつの間にか夜は明け、昆布の表面では艶々した朝焼けが笑っていた。

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昆布が出て来るATM 矢向 亜紀 @Aki_Yamukai

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