昆布が出て来るATM

矢向 亜紀

(前)

「ATMから昆布が出て来た」


 短い散歩から帰って来るなり、夫は困り顔をして口にした。普段から困っているような顔ばかりしている人だから、冗談を言っているのか本当に困っているのか、私にはよくわからなかった。


「ほら、これ」


 私が答えあぐねて黙っていると、夫はポケットをごそごそ探ってからこちらに手を差し出した。彼の言葉通り、手のひらの上には真っ黒な乾燥昆布。お札と同じ形のようだけど、出汁を取るのに使う昆布と同じものにも見える。


「昆布はATMから出て来ないよ」

「でも、出て来たんだよ」


 私は昆布を受け取って更によく観察した。昆布はどう見てもお札よりは分厚い。そして、その表面はちょっとした平野のような丘陵を描いている。もし私が小さな小さな人間なら、きっと散歩を楽しんだだろう。鼻先を寄せれば磯の香りがして、まだ夏は始まったばかりなのにおでんの昆布巻きが恋しくなった。


「昆布がATMから出て来るのは無理でしょ」

「でもさ、俺だけじゃないんだよ。みんな言ってる」


 夫とは学生時代からの付き合いだ。華やかではないが嘘つきでもないのは彼の長所の一つだった。それなのに、今はこんなにも彼の言葉が信じられない。彼もそれを察したのか、今度はスマートフォンを取り出して画面を見せて来た。見慣れたSNSの画面には、夫が『昆布 ATM』で検索した結果が表示されている。

 縦に流れる、顔も名前も知らない人たちの言葉。画面を何度スクロールしても、彼らの言葉は鳴り止まない。


『ATM使って昆布が出るとは思わないじゃんね』

『財布に入ってる現金0円! 急いでATM行ったら昆布もらえた! なんで?!』

『うちの最寄りのATM、昆布が出て来るATMになったみたい』


 画面から顔を上げれば、妙に得意気な顔をした夫と目が合った。どうだ、俺以外にも同じことを言ってる人がこんなにいるんだぞ。そんな顔だった。


「私もATM行ってみようかな」

「今めちゃめちゃ混んでるから、後にした方がいいよ」


 夫はそう言ったけど、本当にATMから昆布が出て来るのか確かめたい。そう思った私はいそいそと銀行に出かけたが、彼が言う通りATMの前には大行列が出来ていた。多分、SNSの噂や家族の戸惑いを目や耳にした私のような人たちが、興味本位で足を運んだせいだ。

 自分の預金が昆布と一緒に出てくるところを見るのは叶わなかったけど、ATMを使い終わった人たちが、みんなしてお札と同じ大きさの昆布を手にしているのは確認出来た。

 どうやら、昆布が出て来るATMというのは本当にあるらしい。



 最近のテレビは、すっかりSNSの情報まとめになっている。ニュース番組で取り上げられる話題は、ほとんどが数日前にSNSで騒がれていたものばかりだ。だから、昆布が出て来るATMについてのニュースがその日の夜に流れたのには驚いてしまった。


『日本政府は、専門家による調査委員会を発足しました。ATMから出て来る昆布らしきものの安全性が確認出来るまで、摂取するのは控えるよう……』


 アナウンサーの声を、私と夫はお手製の昆布巻きを食べながら聞いていた。もちろん、ATMから出て来た“昆布らしきもの”で作った昆布巻きだ。

 我が家に昆布を持ち込んだ張本人は、箸で昆布巻きを摘んだまま私を見た。


「食べちゃったな」

「よく噛めば大丈夫じゃない?」

「そういうもの?」

「そういうものだよ」


 そんなの知ったことではない。だけど、“昆布らしきもの”は味も歯ごたえも昆布と変わらないのだから、昆布として扱うのが一番誠実な気がした。

 テレビの中で誰かは続ける。


『一方、昆布漁を営む人たちの声は……』

『自分らは、自分とこの昆布が一番旨いって思ってやってるんで。正直、複雑ですよね。手間暇かけてるモンが、機械の中からほいほい出て来るのは』

『うちのばあちゃんは、「ATMの昆布は金運のお守りだ」って神社さんで祈祷してもらってましたよ。食うつもりはないって』


 画面に映し出されたのは、日焼けした足腰の強そうな男性や日よけの帽子をかぶった女性たち数名。中年男性の隣には、彼に瓜二つな若者の姿も見える。彼らの背後には、地べたで天日干しされた昆布がずらりと並んでいた。

 今朝の騒ぎから数時間のうちに、テレビ局がこの取材を終えたと思うと感心してしまう。突撃取材をされただろう昆布漁師たちも、随分と人がいい。


「金運のお守りかあ。いいなあ、料理する前に宝くじでも買っておけばよかった」


 夫はそう言いながら、自分の皿に残った最後の昆布巻きを口の中に放りこんだ。彼にとってお守りとは、食べると効果が消えてしまうものらしい。


「でもこれ、まだ昆布かわからないんでしょ。“昆布らしきもの”だから」

「ああ、そっか。じゃあまだ、“金運のお守りらしきもの”なのか」


 ATMから出て来た“昆布らしきもの”が“昆布”だと国が認めたのは翌日の昼過ぎ。だけどそれよりもずっと前から、あらゆるフリマサイトは昆布で大賑わいだった。正体不明の昆布を他人に売りつける宣伝文句の多くは“金運のお守り”。


『現金を7,777円引き出した際の昆布です!』

『こちらは十万円おろしてゲットした昆布になります』

『B様専用 ○○支店ATM使用昆布』

 

 そんな文言と一緒に、お札と同じ大きさの昆布はフリマサイトのページの中でじっと黙り込んでいた。




 昆布が出て来るATMの話題は世間を熱狂させた。海外の権威あるメディアまでもが騒ぎ立て、ATMの製造メーカーが開いた会見は同時通訳付きで全世界に向けて中継された。近所にあるATMの前では、海外メディアのジャーナリストらしき外国人が、日本人にインタビューしているのを見かけた。

 動画配信サイトの画面の中で、昆布を手にしたジャーナリストは神妙な面持ちで語る。日本語字幕曰く。


『日本政府は、謎の昆布を食料品の昆布と同一のもの、日高昆布だと結論付けました。日本国民もそれに賛同し、ATMから入手した昆布を抵抗なく口に運んでいます。元々、日本人にとって日高昆布は身近な食材で……』


 しかし、そんな騒ぎも次第に日常に変わる。昆布が出て来るATMは、あっという間に生活の一部に成り果てた。日常に飽きた世の中は、“ATMから出て来た昆布の使い方”をお題に生真面目な大喜利をし始めた。

 昆布を使ったレシピが大いにバズり、神社仏閣では昆布をお守りや御朱印帳代わりにする取り組みが始まっていた。商用利用可のイラストを掲載しているサイトには、“昆布がATMから出て来て驚く男性・女性”を始めとした関連イラストが次々追加され、SNSで話題になった。気付けば、ATMの横には『昆布入れ』と書かれた段ボールが置かれるようになった。昆布がATMから出て来るのは、当たり前のことだ。


 私が自分の目でATMから昆布が出て来るのを確かめたのは、騒ぎが始まって三日が過ぎた昼下がり。ケーキ屋での勤務中、両替の用事が出来て私は銀行のATMに向かった。数日前の熱狂が嘘のように放置された平日のATMは、呆れ顔で口を開きたくさんの千円札と昆布を一枚吐いた。


「私、自分で昆布を引き出したの初めてです」


 私がケーキ屋で言えば、店長や同僚に目を丸くして驚かれた。今時そんな人がいるなんて珍しいと、口々に彼らは囃し立てる。でも、ATMから出て来た昆布を食べたことがあると続けたら、彼らの歓喜はあっという間にしぼんでしまった。もしも私がこの事実を打ち明けなかったら、彼らは延々と得意気に、いかにATMの昆布の味が普通の昆布と変わらないかについて話し続けただろう。

 だけど、店長の一言で店内の視線は私の手元に釘付けになった。


「ねえ、待って。その昆布、利尻りしり昆布じゃない?」


 店長は、戸惑う私の手元から昆布を摘まみ上げた。顔の前に昆布を持って行き、目を皿のようにして昆布を見つめる。私も同僚たちと一緒になって昆布に視線を向けたけど、夫が持ち帰った昆布との違いはまるでわからない。同僚たちの反応も鈍い。店長は私たちの心の内を察したのか、店内に飾ってある商売繁盛お守りの昆布を持って来て続けた。


「ほら、日高昆布よりこっちの昆布の方が硬いでしょ。それに色だってー……」


 店長の必死の説明を、私は話半分に聞いていた。どうしてこの人はそんなに昆布に詳しいのかと考えて、かつて彼女が京都の料理屋で修行をしていたことを思い出す。味の薄い上品な料理ばかり作っていたある日、急に頭が痺れるほど甘いケーキが恋しくなってパティシエになったのだと酒の席で語っていた。


「利尻昆布、京懐石で使うことが多くってさ。なんか懐かしいなあ」


 彼女が大切に噛みしめる懐かしさを、私も感じてみたかった。だけどそんなのは無理な話だったので、私は利尻昆布らしき昆布をスマートフォンで撮影して、何の気なしに夫に送信した。もちろん、この昆布が利尻昆布であることも付け加えて。

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