眠れぬ夜の月

ゆうみ

眠れぬ夜の月

 月は不可侵の領域で、どんな国家も所有できない。1967年の宇宙条約が定める規則は、しかし個人について何も語っていない。これを修正するべく、1984年発行の月協定では所有権禁止の範囲が拡大された。だが、アメリカやロシア、中国といった宇宙先進国の批准がなく、その効力は皆無に等しいとされている。実際、アメリカでは2015年宇宙法では、宇宙資源の個人による所有が認められているようだ。

 ということは、あの怪しい月の土地という商品も、アメリカにおいては有効と認められているのだろうか。分からない。でも、多くの国や企業が実際に、月の土地の支配を目論んでいるのは確かだ。その背景にはやはり、宇宙の軍事利用がどれだけ重要であるかを、各国が改めて実感したことがある。

 僕は暗澹たる気持ちを抱えずにはいられない。空に瞬く星々、泰然と構える灰色の月、長らく届かなかった彼方の煌めきたちに、ようやく手を掛けられる技術を生み出したその矢先から、汚れた思惑の手を伸ばす。その愚かしさに対し、僕自信は何も負ってはいないはずなのに、どうしようもなく責任を感じてしまう。それが僕の心性だった。

 今日は満月。それをふと思いだし、窓から首を出した。外気の蒸した熱を感じながら、家屋の隙間に浮かぶ月を覗く。克明に観察できる海の模様を見つめているうちに、夜はいっそう更けていった。鈴虫の鳴き声が聞こえ、パトカーのサイレンが遠くで鳴って、やがて月は家屋の陰に姿を隠す。だけど僕の眠気は見つからないまま……。

 そして朝になる。多分、気づかないうちに眠ってはいるのだろう。けれど、目を開けた瞬間に感じるのはいつも決まって、もう終わりなのかという憂鬱だった。


 それは、少しだけ平和なニュースだった。初めて民間企業が探査機の月面着陸に成功したというニュース。重要なのはその目的だ。当然、複数のミッションが課せられており、それは着陸精度の検証だったり、環境調査のためのデータ収集を含んでいたりしたが、とりわけ僕が心惹かれたのは、月面ラジオと称される実験だった。月面の映像および搭載された低消費電力AIチップにより生成される音楽を、新開発の通信規格で地球に転送し、それをYoutube上で配信するというプロジェクト。これは単なるエンターテインメントの為ではなく、搭載された量子ドット太陽電池がカメラやAIチップを持続的に駆動させられるか能力を持つかの検証だったり、超低消費電力を謡う通信規格の実証という研究の意味もあった。それでも、僕は少し嬉しかった。そこにある遊び心が、楽しかった。

 そんなニュースが報じられたのももう随分と前。ふと思い出したのは、やはり眠れない夜のことだった。思考がとっちらかって溢出してしまいそうな夜、遠くの満月と脳裏を過るニュースの記憶とが符合して、僕はそれに意識を集中させると決めた。

 今もラジオの配信は続いているのだろうか。あれからもう一年かそれ以上、太陽電池の耐用年数はまだ過ぎていないはずだけど、続いているとは思えない。

 けれど、そんな予想に反してYoutubeではまだ配信が続けられていた。当時はどの時間であっても数千人の視聴者がいたはずだが、今はもう数十人といないようだ。思い入れなどないにもかかわらず湧き上がるうら寂しさ、それでもまだ続いてはいるのだという喜び。

 スマホの音量を少し上げて、音楽が微かに聞こえるように調整する。夜気に吸い込まれるノイズ混じりのピアノ、ドビュッシーの『月の光』を元に生成されているらしい旋律、単なる猿真似でも月から送られてきていると思うと、どこか特別な気がしてしまう。画面に写し出される粗い白黒の景色は、ノイズのランダム性以外の運動は一切生じず、どこまでも味気無いものだというのに、これがあの月の表面なのだと思うと、感慨深いだなんて思ってしまう。

 動きのほとんどないチャット欄には英語のスラングが並んでいる。どれも同一のアカウントが連投したもので、悪戯なのだろうと推察できる。ああ、どの国にも暇人はいるものだ。呆れ返って、チャット欄を閉じようとしかけた時、新しいコメントが現れた。

『WTF IS THIS!!!』

 何かに驚いている。どうしたのかと、僕は映像に視線を戻した。

 奇妙な物が写り込んでいた。白くて丸い餅のような、だけどそれは不規則に回転をして、カメラの向こうにいる僕らを挑発するようにゆっくり近づいて来る。少しづつ画面を占める白の割合が増すにつれて、音楽に乗るノイズが強度を増していった。

 現在の視聴者は十三人、チャットの流れはその人数に不釣り合いな賑わいを呈していた。誰もが突然の出来事に驚愕を示している。中には見慣れない言語もあったが、驚きの感情はなんとなく察せられた。そんな風に短い言葉ばかりが並ぶ中、一つだけ長文があった。しかも、日本語で。

『少なくとも地球上に類似する生き物はいなさそう。動きも余り自然じゃないし……。機器の故障にしては叡尊の乱れ方に秩序がありすぎる。本当にカメラの向こうに何かがいる!』

 あまり纏まりはないが、一応分析を試みている。僕はこの十三人の中に同じ言語を繰る人間がいることにも驚きつつ、そのコメントを読みながら、依然として画面に居座る白い物体に注意を配った。目立った動きはもうない、ノイズの増強も臨界に達したらしい、今はピアノの旋律と同程度のレベルでホワイトノイズが乗っている。

 普段ならばチャットにコメントを打つなど考えもしないが、今この画面を見ている日本語話者が存在していると思うと、何か言葉を残したいという衝動に駆られた。それで、つい思ったことを打ち込んでしまった。

『わざわざカメラの前に来たのは意思があるからなのか?』

 答えを求めていたわけでもない、ただ降って湧いた疑問の捌け口として言葉を残した。

 だけど、そこに意外な反応が続いた。

 それは翌日のことだった。ほとんど情報収集にしか使わず、自分からの発信など皆無に等しいSNSのアカウントに、思いがけないDMが届いていた。エロアカにでも絡まれてしまったかと辟易しつつ、一応内容を確認する。

『もしかして昨日、月面ラジオの配信にいました?』

 危うくスマホを満員電車の渦中に落とすところだった。しっかりと両手で持ち直し、改めてメッセージを確認する。

 どうやら昨日のライブ配信の折、僕のアカウントを控えていたようだ。そして全く同じ名前およびアイコンのSNSアカウントを探し出し、DMを送ってきたらしい。

 返事をする前に、DMを送ってきたアカウントのタイムラインを辿る。綺麗な星の写真に反応していたり、科学系のニュースを引用してコメントしていたり、余り自分の日常に関する投稿はなく、怪しい雰囲気もなかった。昨日、興奮を垣間見せつつも真っ先に分析的なコメントをしていた、そんな人物像にも合致する。

 結局、僕は返信することにした。応答はすぐに来て、それから僕らは昨日見た謎の物体についてあれこれと言い合った。生命の可能性、ロボットという現実的な考え、それでも期待しているらしい様子の文面……。もうすぐ学校の最寄駅に着くというところで、こんな言葉が送られてきた。

『もしよかったらどこかで会えませんか? もっと話したいので!』

 というわけで、そういう運びとなった。

 三日後の休日、僕は彼女と対面する。まず、相手が女性であったことに驚かされた。勝手な先入観で、男だと思い込んでいたから。

「はじめまして、正門月美です」

 当時の彼女は大学生で、上京して都内の大学に通っているという話だった。将来は宇宙飛行士として、月面でのミッションに従事したいのだという。

 僕らは待ち合わせ場所の近くにあったカフェに入り、三時間ほど話し込んだ。初めはもちろんあの日見た謎の物体について色々と、だけど話は徐々に逸れていき、最後にはその道程も分からないくらい遠くに来ていた。

「そうだ、それなら勉強見てあげる。去年までは塾講やってたし、教えるのには慣れてるんだ」

 どうしてそんな流れになったのか、記憶が定かではないけれど、多分成績が振るわないという悩みでも吐いてしまったんだと思う。それで、僕らは勉強のため定期的に会うことになった。


 一年後、僕は受験生に、彼女は大学院生になり、互いに忙しさも増したが、週に一度会うという習慣はほとんど崩れなかった。彼女が学会で海外に行く週と、実家に帰る正月だけが例外だった。

 彼女の指導は率直に言って抜群の効果をもたらした。理系科目に限らず、彼女はなんでもできた。そんな完璧な指導のお陰もあって、僕は第一志望だった国立大学に受かった。そのことをメッセージで報告すると、程なくして電話が掛かってきた。真夜中、両親が眠った後だった。

「おめでとう! よかったね」

 まるで自分のことのように笑い、あまつさえ涙を零してしまうような、そんな彼女の途方もない純真。その根元はどこにあるのだろう? 月に答えを求めても仕方がないけれど、僕はじっと見上げながら考えていた。

 あの月の大地に、いつかこの足で踏み入ることが可能だろうか。彼女の夢に感化されたせいか、最近は僕までそんなことを考えるようになっていた。これを夢と呼んでいいのかはまだ分からなかったけれど、当座の目標に据えて大学生活の支柱としよう、そう決めた。

 進学後も、彼女とは会い続けた。頻度は減ったものの、定期的に連絡は取っていたし、疎遠になる気配はなかった。空に月が浮かんでいる限り、僕らの関係は潰えないのではないか、そう思ってしまうくらい、いつも話題の中心には月があった。

 近年、宇宙開発、特に月面での開発が急速に進んでいる。かの月面ラジオを含むプロジェクトを民間企業が成功させたという業績で、業界全体が活気づいていたのだ。つい最近では史上二度目の有人探査が、中国の民間のチームによって行われた。興奮気味にその顛末について解説する彼女は、余りに無邪気でこちらまで笑ってしまうくらいだった。

 とはいえ、そんな状況をただ楽観的に見ているわけにはいかないというのが現実だ。冷戦下、宇宙開発競争がある意味で戦争の代用であった時代、そんな時代と同種の緊張感が再び漂い始めている。宇宙はずっと前から浪漫の場などではないのだ。振り返ってみれば、地動説や地動説の宗教的な血生臭さや、星座や星名の由来となる神話的な残酷さをも、この宇宙は内包させられている。人間の汚れきった思考は、頭の中で宇宙を気ままに蹂躙し続けてきた。そして今ではもう、発達した技術が物理的な汚染をも可能にしてしまった。

 そんな救いようのない現実を、彼女は忘れさせてくれる。希望に満ちた夢を語り、日々の混沌を澄み切った眼差しで照らしてくれる。だからきっと、僕は彼女に執着しているのだろう。

「ねえ、どうして月が好きなの」

 いつものように喜色満面で長広舌を振るっていた彼女が、やにわに質問をぶつけてきて、僕はいささか戸惑った、月が好きだなんて一度も言ってはない。僕にとって月は、眠れない夜のお供だ。太陽とはまるっきり違う、穏やかな光で夜を包み込む、その空気に触れている間は、眠れなくても良いと思えるから。

 いや、でも、その感覚を好きという言葉にしてしまっても、それはそれで良いのかもしれない。言葉は所詮言葉、この微妙な感覚を適切に伝達しようなど、余りに傲慢な考えだ。なら、正確性を犠牲に「好き」という安直な言葉で表してしまっても、怒られはしないのではないか。

「私の方はね、すっごい馬鹿みたいな理由なの」黙り込む僕を見兼ねてか、彼女が先に語ってくれた。「私の名前、ツキミっていうでしょ。月に美しいって書いて、月美。そのせいで、月は美しいものって決まっちゃてるの。だからすごく好きなんだ」

 それを聞いて改めて思う。彼女のことが、どうしようもなく好きなのだと。


 僕が大学院に進んで間もない頃、月美は念願叶って月に派遣されることが決まった。実験チームの一員として月面に降り立ち、現地の環境で様々な生化学的実験を行うのだという。それは将来的に月面に住まうという浪漫への第ゼロ歩目とでもいうべきプロジェクトだった。

「最近、研究は順調? 確か自動運転用のリアルタイム画像処理をやってるんだよね。私情報系は疎いからさ、前から詳しく聞きたいと思てたんだよね」

 その日は月美が地球を発つ前に会える最後の日だった。シャトルの発射まではまだ数ヵ月あったが、事前の訓練や綿密な実験準備等、彼女にはやるべき仕事がたくさんある。そのため海外の研修施設で訓練をするのだ。

 それにしても、今日はやけに質問が多い。疑問を抱きながらも淡々と答えていくと、やがて月美は口を閉ざしてしまった。

「えっと、ごめんなさい。今日会ったらしばらく会えないでしょ。だからその、ちゃんと話したくて。いつも私が一方的に喋っちゃうから」

 僕は苦笑混じりにそんなことはないと答える。僕は月美のあの話し振りきが好きなのだから。

 僕の言葉で彼女はいつもに戻った。自分の好きなものを、余すことなく伝えてくれる彼女へと。

「ねえ、私たちが出会った切っ掛けのこと、覚えてる? 月面ラジオの映像に写った白い謎の物体」

 当然、覚えている。

「知ってると思うけど、あの映像は今じゃどこにも残ってない。あの日配信を見てた十三人は誰一人あの話題を拡散しないまま、プロジェクトの運営元も特にこの話題は取り上げなかった」

 しばらくの沈黙、そして彼女は言葉を継ぐ。

「だから、いつか私が見つける。今回は余り探索できる見込みはないけど、何回だって行くつもり。だからさ、その……いつか、一緒に行ける日が来たらなあって、そう思うんだけど……」

 珍しく自信なさげな表情の月美に、僕は笑って答える。僕も楽しみにしていると。

 彼女と会えない間、僕は研究に打ち込んだ。今の研究は自動運転技術に関わるものだが、月面探査機の搭載するカメラにだって応用がきく。それに、今こうして培っている工学的な視点や数学を道具化する方法論などは、いつまでも重要なことだ。

 僕はそうやって自分の道を確かめながら歩いていく、日々の単調さとそれに伴う停滞感を受け入れながら、彼女の提示してくれた目標に向かって進んだ。

 相変わらず世界の情勢は危うい。漸く一つの戦争が終わったと思った矢先、別の国同士で諍いが勃発し緊張感が増す、と言った風に、世界のどこかで絶えず火種が燻っていた。とはいえ、それによって日常生活に及ぼされる影響と言えば、物価の高騰くらいが関の山で、些細ではないが危機的でもない変化に留まり、他人事だと思ってしまえば何も起こっていないに等しいくらいだ。だからこそ、くだらないテレビ番組で笑える、好きな音楽にいつでも浸れる、一日中教科書と向き合ってもいられる。

 それでも、僕は完全に目を背けてはいられない性質だ。遠くで繰り返される殺戮に思いをやらずにはいられない。凄惨な状況を伝えるニュースに触れる度に、足元がぐらぐらと揺れるような恐怖に苛まれる。その些末な苦しみを甘受することで何らかの責任を果たした気になって、だけどそれが不十分であるような気もして、延々と鬱屈を溜め込んでいく。

 世界情勢の不均衡に呼応して、宇宙開発事業も軍事目的を孕まずにはいられない。月美がそれをどう感じているのか、ただの一度も訪ねたことはなかった。彼女が話すのはいつも希望に満ちた技術の発展や、好奇心をくすぐるような新たな学説、遂行されたミッションの輝かしい喧伝ばかり。それがよかった、だけど、それでいいのか?  彼女の才気煥発ぶりは知っている。だからこそあの若さで選出された。だから実力は申し分ないのだ。けど、実際に宇宙へと赴く人間が、そんな風でいいのか?

 もちろん、腹の底なんかわからない。いくら体を重ねても、心を近づけても、その接近は理解を意味しない。もしかしたら、本当は色々と考えた上で、自分の夢と現実の折り合いを付けているのかもしれない。あるいは、僕の精神が脆弱であると認識した上で、傷つけないように配慮をして喋っていたのかもしれない。真相なんて分かりやしない。が、それでも、結論が出ないと分かり切っているにもかかわらず、僕の頭は停止せずに走り続ける。

 だから今日も睡魔は僕に追いつけない。眠れない夜は、昼間よりもずっと長い。


 横になってもなお、両足の節々がひりひりと痛んだ。今日は日本中のメーカーが集う展示会があり、その一角に据えられたアカデミアブースで、僕は研究室の一員として研究内容の説明をするため、延々とポスターの傍で凝立していなければならなかった。人に説明をするのは苦ではなかったが、普段はずっとパソコンの前に座して研究をしているため、棒立ちになっているのは肉体的に辛かった。

 昼休憩の折、ブースをしばらく学部生に任せ、企業がブースを構える区画を見て回った。教授には就活の参考になるだろうから見学しておけと言われたが、博士課程に進むつもりの僕はあまり気乗りしなかった。とはいえ、どんな技術が見られるのだろうという楽しみも少しはあったが、その期待もほとんど充足されなかった。確かに各企業が開発した最新の製品に触れることはできたが、そこにあるのは完成品とそのアピールでしかなく、どのような技術をどう使っているかといった詳細な解説がなかったせいだ。

 そういうわけだから、僕はどこの展示もじっくりとは見ずに流しながら、自分のブースへの帰路を辿っていた。

 その半ば、目を惹く言葉を見つけて足を止めた。そこは中国の企業が並ぶ区画で、界隈では有名なロボットの研究開発を行う企業がブースを構えられていた。僕はその入り口に掲げてあったポスターに、宇宙の二文字を認めたのだ。どうやら月面探査機の製作も行っているらしい。近づいてみるとモーターの駆動音がしてきて、音のする方を振り向けばそこには小さな白い物体が月面に見立てた凸凹のタイルを滑らかに走破している姿があった。一見してロボットとは分からない、かといって生物とも言い難いような、独創性に富むデザインだった。この会社はこういったデザイン面にも拘りを持っていて、生物模倣を基礎にしながらそれを表に出さないような装甲を備えた奇妙なロボットを製造している。これはロボットに愛着を持たせるため、と捉えられがちだが、実際は擬態あるいは偽装を目的にしているとされる。要するに、敵に姿を認められた場合でも、それが何かを判断できないような姿形をしているというわけだ。

 出展者に話しかけられないよう少し距離を取りながら、僕はじっとロボットの動作を眺めていた。初めは純粋な興味から、その機構だったり制御プログラムだったりを予想して楽しんでいた。けれど、なぜだかその運動を追っているうちに、正体不明の奇妙な感覚が段々と胸の内から湧き上がってきた。きっとこのロボットの奇妙な風袋がそうさせるのだと、そう解釈したが腑に落ちない。この段階でさっさと離れてしまえばよかったものを、僕はこの蟠りを氷解させようと執着してしまった……。

 ……おそらく、間違いはないと思う。感じていたもの、それはデジャヴだ。幾分か色褪せてはいるものの、それでもなお強く刻まれた光景。いつもの眠れない夜に訪れた不意の驚異、そして何より彼女との契機。あの奇妙な動きや形態は、あれと酷似していたと思う。一致はしていない、けれども源流には同じものがある。あくまで予想でしかない、ちっとも確信はできない、決定的な証拠がないどころか何のデータも手元に残っていない。だけど直観してしまった。あの国なら公にされていない実験を行っていても不思議ではない。まだ誰のものでもない場所で、誰のものでもない資源を巡って、苛烈する競争に打ち勝てるように……。

 妄想が溢れて止まらない。これは妄想だ、客観的には。それでも、頭の中では二つの映像が重なって共振し、確信をがなり立てている。

 傍らに置いたスマホが大きく震え、驚きで心臓が止まりそうになる。画面を見ると彼女の名前があった。月美、……ああ。

『ごめんね、そっちは深夜だよね。起こしちゃったかな』

 時計を見ると、もう今日は終わっていた。だけど僕がこれくらいの時間に眠っていられたのは、多分小学生の頃までだ。それでも一般的には遅いと言われる時間、そんな時間に彼女が電話を掛けてくるとは、余程のことがあったのではないか。不安に新たな不安が重なって、心中が著しくかき乱される。卵だったら、白身が一切残らないくらい。

『何かあったとかじゃなくてさ、ただ、ちょっと久しぶりに話したくて。最近どうしてる? こっちはすっごい大変でさ、もう毎日くたくたなの。体も精神も疲れて疲れて、ベッドに入ったら気絶するみたいに眠っちゃう』

 相変わらずの饒舌が心地良い。それでも何かを隠しているのは明らかだった。だけど、それを暴き立てるのが得策だとも思えず、相槌だけを打ちながら静かに耳を傾けていた。

『それで、そっちはどうなの?』

 僕の話すターンが回ってきた。研究の進捗具合、今日の展示会について、彼女と同じように愚痴をこぼしたり冗談を交えたりしながら、滔々と語って聞かせた。展示会について話していると、流れで企業ブースの話も口をついて出てきた。研究に興味がある身としてはどこも退屈で、だけど一つ……。

『どうしたの? おーい』

 沈黙した僕に、彼女が呼びかける。僕は落ち着き払って言葉を継いだ。頭に浮かんでいた言葉とは別の言葉、あのことについては触れないまま、当たり障りのない言葉を紡ぎ続ける。

 紡ぎ続ける。

『……ありがとう。今日は突然ごめんね。久しぶりに話せて楽しかった。じゃあ、お休みなさい』

 お休み、そう応答すると電話が切れ、電子音が残る。画面を消せば真っ暗な部屋、だけど網膜に焼き付いた画面の残光がちらついて、瞼を閉じても視界がぐらついた。今日は新月、空を見上げてもあの柔和な光は存在しない。それでも夜空の奥には確かに今も月が座している。その地表では世界中から打ち上げられた数多の無人機が昼夜を問わず活動して、静かな戦いを繰り広げている。誰のものでもないという規定も、そろそろ塗り替えられるだろうか。そのとき、あの月の権利書は有効に機能するだろうか。ああ、機能してくれればどれだけ平和だろう。でも、望ましいことは大抵起こらないのだと、まだ短い人生の中でも十二分に思い知らされているから、無暗な希望は持たないでおく。ただ、目の前にある希望だけに期待を掛ける、それくらいがいい。


 今日は満月、彼女のいない地表から。彼女がいるはずの月面を見上げる。いつもと変わらない表情で輝く月が、もう建物の陰に隠れようとしていた。いつもならそれで窓から顔を出すのは止めにして、ベッドに戻って鈍重な睡魔を待つ。だけど、今日だけは名残惜しく感じた。

 ゆっくりと階段を下りて、音を立てないように玄関の扉を開ける。久しぶりに履いたサンダルは埃っぽく、踏みしめる心地は不快だったけど、道路に出て行くまでには慣れていた。深夜だというのに町は明るい。街灯が等間隔に並ぶその向こうに、淡い望月が灯っていた。その在り様に陶然となりながら、吸い寄せられるように歩き出す。夢を見ているようだった。真夜中に出歩くのは初めてで、現実感を欠いているからかもしれない。

 夜風が頬を撫でると、寒さで体が震えた。乱雑に広がっていく思考も凍えたように縮こまって、幾分か脳裏は澄み切っていた。サンダルがアスファルトを引き摺る音、その周期的な響きに瞼が重くなっていく。真っ当な時間に体験する真っ当な眠気の中、僕は月を見上げて彼女を思う。

 どうか、僕の分まで夢を見続けて欲しい。くだらない社会の論理に押し潰されず、歪んだ欲望にも飲まれず、ただ純粋な好奇心を知恵で貫いて、どこまでも、どこまでも飛んで欲しい。当然、僕はそれを支え続けるから。

 それだけの力が君にはあると、信じているから。

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眠れぬ夜の月 ゆうみ @yyuG_1984

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