第9話
クロエさんが出ていった部屋の中で、私は飾られた写真や小物を一つ一つゆっくり眺めていた。一本のロウソクの灯りは暗かったけれど、目が慣れてくると、なんとなく心地よくも感じる。
写真の中のアンヌさんは、たいてい笑っているけれど、アランさんが撮ったと思われるものと他の写真では、やはり違うように感じる。輝くような笑みと、
薄明るさが残っていた空も、徐々に暗さを増した頃、そろそろ自分の部屋に戻ろうかと燭台をテーブルに置き、ふと窓を見た。
「え?」
一瞬、目がおかしくなったかと思った。
窓に映る灯が、大きく伸び縮みしたのだ。テーブルの上の灯は、静かに灯り続けているというのに。
伸びあがった窓の灯は、火の粉が飛び散るように光の粒となり、部屋の中に散らばっていく。繰り返すうちに、窓の中の部屋は徐々に明るくなっていった。実際の部屋は相変わらず静かで暗いのに、窓の光景は変化を続けていて、まるでなにかの映像を見ているかのようだ。
光の粒は、やがて、扉を縁取るように集まって、その姿を浮き上がらせていく。思わず振り返ってみたけれど、実際の扉はむしろ暗い影に沈んだままだ。
もう一度窓を見ると、扉を縁取る光の筋は次第に強く、はっきりしたものになっていった。
そして、筋のようだった扉の光が、不意に溢れ出した。扉は徐々に開いて、その向こうには、見通せないほどの光が満ちている。
その中から、人影が出てきた。光を背にしたその人はゆっくり近づいてきて、椅子の前に立った。
『アンヌ。』
穏やかな笑顔で、優しい眼差しで、そう呼びかける。いつの間にか椅子にはアンヌさんが腰掛けていて、呼びかけた男性を嬉しそうに見上げていた。
『来てくれたのね、アラン。私はこんなお婆ちゃんになっちゃったけど。』
『何を言ってるの?君は今でも、いつでも、きれいだよ。』
そう言って差し出された手に、アンヌはゆっくり手を重ねた。
その手は艷やかで皺もなく、引き起こされた体は重石が取れたように軽い。
『ほらね。君はちっとも、変わってない。』
秋の陽だまりのような、温かい笑顔。会いたくて、ずっと思い続けた人がそこにいる。乾きかけた泉に再び水が満ちるように、胸の奥が満たされていく。
『行こう。』
その腕をとり、懐かしい温もりを感じながら、光の中へ、その先へ。
『アンヌ。』『アンヌ!こっち!』『待っていたよ、アンヌ。』
聞き覚えのある声が、口々に呼んでいる。向こうに、子供の頃に遊んだ小川が見えて、畔には、少女のままの妹や、父や、母や、懐かしい人々が待っている。思いは涙のように溢れ出て、朧気だった世界に、彩りが戻る。
アンヌは立ち止まり、アランを見上げた。そして微笑みあい、再び歩みだす。陽は煌めいて、風が優しく歌う、その場所へ。
光は大きく広がって二人を包み、そして、静かに収まっていった。
気がつくと、部屋の中も窓の中も、すっかり闇が広がり、小さなロウソクの灯火だけがかすかに揺らいでいた。今見たものが夢だったのか、感じたものが幻だったのか、戸惑いながら静かな火影を見つめている。
「妖精…」
アンヌさんなら、これを、妖精が教えてくれた、というかもしれない。なんといっても、このホテルの名前は、妖精の泉に由来するバラントンなのだ。そんな奇跡があっても、いいではないか。だから私は信じることにした。妖精が知らせてくれたのだと。彼女の最期が、安らぎに満ちたものであったのだと。
「ありがとう、妖精さん。」
目の前の灯は変わらないけれど、窓の中では、光の粒が伸びあがるようにロウソクから離れて、くるりと円を描いて部屋の中に散り、そして、音もなく消えた。
陽は煌めいて @tukifuyu
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