第8話
『オテル・バラントンにいらっしゃい。』
その約束を果たせたのは、何年も経ってからだった。手紙のやり取りは何度かしたが、なかなかここに来ることはできなかった。
「こんにちわ。お世話になります。」
「いらっしゃい。お待ちしてましたよ。」
笑顔で迎えてくれたクロエさんは、少しだけアンヌさんに雰囲気が似ていた。
「アンヌさんのことは、残念でした。またお会いしたかったんですが。」
「ええ、そうね。アンヌがいたら、喜んだでしょう。あとで、彼女の部屋を見てみる?なんとなく変えづらくて、まだそのままにしているの。彼女が見せたがっていたものもあるし。」
夕飯の後案内してくれたその部屋は、こじんまりしていて、でも、温かみがあった。ベッドとチェストの他には、小さなテーブルと背の高い肘掛け椅子があって、テーブルとチェストの上には、いくつも写真が飾られていた。その中で一番目を引いたのは、ウエストを絞った長袖のワンピースを着て、若いアンヌさんが微笑んでいる写真だ。
「きれい。モデルみたい。」
ファッション雑誌にありそうなポーズを取って、ちょっとはにかんだ笑みを浮かべているアンヌさんは、とてもチャーミングだった。
「それ、アンヌのお気に入りだったの。多分、貴女に見せようとしていたのは、それだと思うわ。」
「アランさんが撮ったものですね。」
「ええ。その中でも特別な一枚なのですって。」
「分かる気がします。」
ポーズを取ってはいるけれど、この表情はおそらく一瞬のもので、それを捉えたアランさんもきっと嬉しそうに笑っていたのだろうと、そんなことが想像できる写真だった。
「これがアランさんよ。」
そう言ってクロエさんが見せてくれたのは、結婚式の写真のようだった。参列者が写したのか、斜めのアングルで、二人の視線はカメラから逸れている。腕を組んだふたりは微笑んでいて、でも男性はちょっと緊張した様子だ。
「優しそうな人ですね。」
「そうだったらしいわ。私も会ったことはないんだけれど、父がよく言っていたの。彼は本当にいいやつだったって。」
その向こうに、古そうな白黒の写真があった。何人かの大人と子どもたちが写っている。他の写真に比べると粗くて、服装も少し古い時代のようだ。女性たちの中には、頭にコワフをつけている人もいる。ブルターニュ伝統の頭飾りだが、日常的につけていたのは、もう随分前のことだ。
「それは家族の写真だそうよ。戦争のときに多くを失くしてしまって、もうそれしか残っていないと言っていたわ。」
それではきっと、二人並んで写っている少女が、アンヌさんと妹さんなのだろう。
「アンヌさんの妹さんは?」
「ああ、アンヌはその話もしたのね。彼女はその話をあまりしなかったし、私もよくは知らないの。ただ、結局見つからなかったみたいね。気の毒な話だわ。」
妖精は、最後まで彼女たちを繋いでくれたのだろうか。もし本当にいるのなら、もしそうならば、寂しさも少しは紛れるに違いないのだ。
「この子は?」
アンヌさんが女の子の傍らにしゃがんで写っている写真がある。
「ああ、これは私よ。」
「クロエさん?」
「ここに、私の両親も写ってるわ。私の母が、アンヌと友達でね、父はアランさんの同僚だったらしいの。同じアパルトマンに住んでいて、小さい頃からずいぶん可愛がってもらったわ。私にとって、アンヌは二人目の母のようなものよ。母と喧嘩をしたときなんかは、間に入ってくれたりしたのよ。父と母が体調を崩したときは、色々面倒を見てくれたりしてね。」
「もしかしたら、アンヌさんも、それで慰められていたんじゃないでしょうか。ご両親も、クロエさんみたいに、いい人だったんでしょうね。アンヌさん、言ってました。アランさんが亡くなって寂しかったけれど、いい友達がたくさんいたって。」
穏やかなアンヌさんの周りには、きっと、苦しい時を支えてくれて、助け合えるような人たちが自然と集まるのだろう。そう思っていたのだけれど、クロエさんは微妙な顔をした。
「いい人ばかりではなかったわ・・・。それでも、愚痴一つ言わなかった。いい人だったのは、アンヌよ。母もよく言っていたわ。」
日の長い時期だけれど、気がつくと外は日が陰り、急速に薄暗くなってきていた。クロエさんは、電気はつけず、テーブルにあったロウソクに火をともした。
「アンヌは、こうして過ごすのが好きだったのよ。子供の頃、遊びに行くと、こうして妖精の話をよくしてくれたわ。彼女のおとぎ話はワクワクして、私は好きだった。」
「おとぎ、ばなし・・・」
「まるで見てきたように話すのよ。ここでもね、子どもたちは彼女の話を、目を輝かせて聞いていたわ。」
「・・・ええ。そうでしょうね。」
彼女の話は、果たしておとぎ話だったのだろうか、本当の話だったのだろうか。少なくとも彼女にとっては、作り話ではなかったように、思うのだけれど。
クロエさんが、テーブルの横の肘掛け椅子に触れた。
「あの日も、ここに座って、夕飯後の時間を過ごしていたのよ。そのまま、眠るように逝ってしまった。」
「そうなんですね。」
「いい夢を見ていたのかしらね。笑っているようだったわ。」
「きっと、幸せな夢を見たのでしょう。」
「ええ、そうね。そうあるべきだわ。」
最後はつぶやくようにそう言って、クロエさんは顔を上げた。
「私は向こうの方を見てこないと。ゆっくり見ていってちょうだい。部屋を出るときは、火を消してね。・・・そういえば、あのときは自然に消えたみたいだったわね。」
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