第7話
やがて夏が終わり、木々が色づく季節になった。バカンスの時期を過ぎたホテルは静かで、アンヌも時々は手伝いをしながら、落ち着いた日々を送っている。
「冷え込んできたわね。」
「本当ね。暖炉があってありがたいわ。」
夕飯が終わり、クロエの家族もホテルの従業員も、ほっと一息つく時間だ。
「アンヌ。最近食欲落ちたんじゃないか?」
「もう年だもの。今日も美味しかったわよ。」
「もうすぐリンゴの収穫だねえ。」
「今年もタルトタタンをたくさん作らないと。」
「楽しみね。」
いつも通りの穏やかな団欒を終えると、それぞれ片付けや明日の仕込みに散っていく。アンヌは部屋に戻って、いつものようにロウソクに火をつけた。
ここの生活はそれなりに楽しい。大勢で囲む食卓は賑やかで、子供の頃を思い出す。クロエの夫も子供たちも親切で、なんの不満もないが、最近、昔のことをよく思い出す。夏に、旅行者の若い女性に、話をしたせいだろうか。肘掛け椅子に深々と座り、横のテーブルに目をやると、一番目立つところに、あの写真がある。
あの秋の日、柔らかい光の中、しっとりとした落ち葉の上を歩いて、眩しそうな彼の表情にドキドキして、その言葉に浮き立つような気持ちになった日に、撮ってくれたものだ。雑誌で見るモデルのようにポーズを取って、澄ました顔をしようとしたけれど失敗して、口元は少し綻んでいる。今になってみれば、彼の撮ったアンヌは、どれも自然な表情をしていて、いい写真ばかりだ。彼の腕は確かだった、というのは、贔屓目だろうか。
「それ、本当にお気に入りだね。」
ロウソクの炎が伸び上がり、その中に小さな少年が浮かび上がっている。
「あら、いらっしゃい。」
少年はしゃがんで頬杖をついているような格好になった。
「それ、アンヌだけど、アンヌが見てるのは彼だよね。」
「ふふ、そうかもね。」
アランには妖精の姿は見えなかったから、最初は不思議そうな顔をしていたけれど、暗くなった窓に目を向けると、驚いたようにロウソクと窓を見比べていた。
『どうしたの?』
『窓に写った灯が大きく揺れているんだ。こっちのは静かなのに。』
『そうなの?』
アンヌには、目の前にも窓の中にも、同じ光景しか見えないから、むしろアランの驚きが新鮮だった。
『まるで、おしゃべりしてるみたいだ。そうか、これが妖精なんだね。僕は、君こそが妖精なんじゃないかと思ってたよ。』
どうやら、その声に答えるように、窓の灯が反応したらしい。アランは笑顔になって、それからはアンヌと一緒に、食後のおしゃべりを楽しむようになった。
「彼はいい人だったね。直に話せないのが残念だったよ。」
「ええ。彼もそう言っていたわ。姿が見えたら、話ができたら、きっと楽しいだろうにって。」
夕方から降り出した雨が窓にあたり、時々伝うように流れていく。外はきっと冷え込んでいることだろう。
「そろそろだね。」
「ええ、そうね。」
秋が深まるとともに、冷え込む日も増えてくる。秋は、柔らかい空気と色づく木の葉が美しい、好きな季節だった。でも、秋は悲しい季節でもある。アランが亡くなったのは、こんな冷たい雨の降る晩秋だった。
「アンヌ。彼に会いたいの?」
「・・・会いたいわねえ。」
写真を指でなぞりながら、そう答える。彼は撮ってばかりで、自分が写ることは殆どなかったから、写真があまり残っていない。けれどこうして、彼が撮った写真を見ていると、その時の様子が今でも浮かんでくる。亡くなった直後の、どうしようもない喪失感は、時が経つにつれて薄らいだけれど、会いたい気持ちが消えることはない。
「アンヌ。今も彼が好き?」
「ええ、好きよ。今でも、ずっと。」
迷うことなく、そう言える。それだけで、胸の奥が暖かくなるような、締め付けられるような、複雑な感覚がある。
「なら、会えるよ。アンヌは、また彼に会える。」
「あら、妖精は予言もするのだったかしら?」
少し茶化すようにそう聞いたのは、今まで予言めいた言葉を妖精から聞いたことがなかったからだ。でも、妖精が嘘をつかないことも、表面的な慰めを言わないことも、アンヌは知っている。妖精は案外真面目な顔で、
「予言じゃないけど、そうだね、偶にはそういうこともある。」
と、曖昧なことを言った。
他愛もないおしゃべりを少しして、ホッと息をつくと、大して時間は経っていないのに、なんだか疲れた感じがした。最近は疲れやすいし、体が重く感じる。
「ごめんなさい。ちょっと、疲れちゃったわ。」
「うん、そうみたいだね。じゃあ、僕は行くよ。」
ロウソクの火が、ふっと静かに揺らぐ。
「ええ、おやすみなさい。また明日。」
「さようなら、アンヌ。」
アンヌは目を瞬いて、妖精を見つめながら首を傾げた。
「そうなの?」
妖精は、
妖精は何も答えず、ただ静かにアンヌを見つめていた。
「そう。」
アンヌは穏やかに笑った。
「それじゃあ、さようなら。ありがとう。」
そうして妖精は、ともし火の揺らぎとともに、姿を消した。
アンヌは大きく息を吐いて椅子に身を沈めながら、部屋の中を見渡した。仄かに揺らぐ陰影はテーブルにも落ちかかり、並べられた写真をも浮かび上がらせる。たった一枚だけ残った家族写真、数少ない彼との写真、同僚や友人たちとの写真。ここに写る人たちの多くは、すでにいない。妹も、何年か前に亡くなってしまったと妖精から聞いた。
妹の行方が分からなくなった時、落ち込む両親に、『あの子は大丈夫だよ。』と伝えたけれど、妖精が見えない両親は、アンヌが慰めているだけだと思ったようだ。せめて妹を励ましたくて、妖精に頼んだ。
『お願い。あの子に伝えて。私たちがあの子をとても愛していると。』
直接会えなくても、抱きしめてあげられなくても、寂しくないように。離れていても、いつも思っていると伝えたくて。『私もよ。』と返事が来たときは嬉しかったけれど、妖精も気まぐれだから、なんとなくのやり取りしかできない。結局会えずじまいではあったが、穏やかな生活を送っていたようだというのが救いだ。
ふと窓を見ると、部屋のドアが映っている。廊下には電気がついているのか、ドアを縁取るように光の筋が見える。その光が、徐々に強くなる。振り返ったアンヌは、あちらがわから開かれていくドアを眺め、そして微笑んだ。
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