悪魔のささやき

宇野六星

悪魔のささやき

 あーあ、新年からツイてない。


「お兄さん、ちょっとお話していきませんか!?」


 仕事始めだってのにいきなり残業だし、人混みを避けて脇道に入れば変なキャッチに引っかかるし。


「ねっねっ、ちょっとだけですから!」

「すいません、お金ないんで」


 僕は、自分の腕にぶら下がる女の子に目を合わせないようにしながら、空いてる方の手を振った。


「お金なんか取りませんよぅ。あたし、ボランティアでお悩み相談やってるんです」

「えっ?」

「お兄さん、いま人生に迷いを感じてるでしょう。あたし、そういうのわかるんですよ」


 確かに、不安はある。アラサーも後半に入ったのに、まるでパッとしない暮らし。友達も彼女もいないし、趣味もない。会社にはいいようにこき使われる。ときどき転職を考えるけど踏ん切りがつかない。ずっとぼっちのまんま先細っていくだけなんじゃないかと思うと、さすがに辛くなる。


 胸中を見透かされた気がして思わず彼女をまじまじと見た。二十代前半くらいだろうか、羊を彷彿とさせるもこもこした大きな帽子をかぶり、その下からつややかな黒髪が流れ落ちている。ダウンのマキシコートの中は黒のミニワンピとロングブーツで、さらにその中身もだいぶボリューミーなのが僕の視点からはよく見えた。


「絶対に相談した甲斐ありますから! サービスであったかい甘酒もありますから。ねっ?」


 大通りからの明かりを拾って星みたいに妙にちかちかする瞳を見てると、ロックオンされてもいいかという気になってくる。初詣のおみくじもパッとしなかったしなあ……と、引っ張られるままについていった。


 導かれた先では、ビルの隙間に隠れるようにして白い布を掛けた小ぶりなテーブルが置かれていた。卓上の紙灯籠がぼんやりと周りを照らしている。

 テーブルを挟んで小さな椅子に腰掛けると、甘酒を注いだカップが差し出された。ふわっと甘い香りが夜道に漂う。ふーっと息を吹きかけながら少しすすると、熱くとろりとして濃い甘みが口の中に広がった。ほのかに生姜の味もするけど、ほかにも隠し味がありそうな複雑な香りだ。


 それから僕は、問われるままに悩みを話した。


「このままじゃダメだと思うんですけど、全部リセットしてやり直すのも怖いし」

「なるほどなるほど」


 彼女は大げさなくらい深くうなずくと、おもむろに言った。


「でも、リセットは意外と難しくないですよ」

「どうですかね。このご時世だしこの年だし、条件のいい転職先ってそう見つからないんじゃ」


 一応反論すると、彼女は明るく言った。


「いや、思い切ってもっとガラッと変えていきましょう!」

「転居とか……ですか?」

「いーえ、転生です」

「はあ!?」


 彼女は、紙灯籠をくるっと回して文字の書かれた面を見せた。え? 何これ?


「て、『転生相談』!?」


 人生相談じゃなかったんだ。


「……あの、本気で言ってます?」

「はい! 今どき、人生リセットしようと思ったら転生も立派な選択肢の一つですよ!」


 むしろ最後の選択肢というか、選択してないのにさせられるものという気がするけど。


「ためらうのもわかります。どんなところに転生するのか、変な苦労をするんじゃないかと思うとちょっとハードル高く感じますよね」


 いやめちゃめちゃハードル高いけど!?


「でも大丈夫! あたしに任せてくれたら勝ち確間違いなしですよ。安心して一歩を踏み出せるよう、背中を押してあげますね!」


 物理的に!?


「転生って、トラックに轢かれるアレでしょ? 新年早々それは勘弁なんだけど」

「トラックなんか使いませんよぅ。使うのは死神の鎌デスサイスです」

「死神!? 女神じゃないの?」

「死を司るのは死神の仕事ですから。冥界と天界で分業してるんです。死神が刈り取った魂の中から転生するものを冥界で仕分けて、天界に送ってるんです。で、あっちで受け付けたあと女神が転生者にオリエンして異世界に送り出す、とこういう仕組みでして」

「はあ……」

「死神が魂を刈り取る、女神が魂を転生させる。シンプルなサイクルですけど、やっぱり魂にはよりご納得いただけるような異世界を用意したいじゃないですかぁ。天界も冥界も、魂のQOLをちゃんと考えてるんです」


 魂のQuality of Lifeとは。


「あたし、死神のアシスタントなんです。こうして事前に要望をヒアリングしておけば、女神の方でも望みが叶うような異世界とのマッチングが楽になるんですよ」

「……」

「まだお疑いですね。ほら、これ冥界です」


 彼女は両手の親指と人差し指を直角に広げて小さな四角の枠を作り、僕の前に突き出した。彼女の眼が赤く光ると、その四角の中に何か映像が映った。


 ほぼ闇の中に、赤黒い空に縁取られた地平線や際立った高い山の稜線がうっすらと見える。画面の中央付近には古代神殿のような建物があり、青白い光が漏れている。手前を何かがうごめいていて――ゾンビ!? うわ、こっち見た。寄ってきた!


「ほわぁ!」


 思わずのけぞると、彼女はぱっと両手を開けて枠をくずした。間にあった映像が破けて、黒いもやとなって消えた。


 変なものを見たせいか夜風のせいか、急にぶるっとしてくしゃみが出た。彼女が甘酒のおかわりを出してくれたので、ありがたく何口か飲む。胸元を温かいものが下りていくと、信じてもいいかという気がしてきた。


「異世界は……まあ、行けるチャンスがあるなら行ってみたいとは思いますけどね」


 すると彼女は勢い込んで話し始めた。


「ですよね! じゃあ転生したら何を叶えたいですか? チートで俺TUEEEしてハーレム? 魔王と竜とどっちを仕留めます? 適度にたぎれてエモくて必ず勝ててストレスフリー、そんな冒険ができる異世界を今なら選び放題! それとも、現世の憂さ晴らしにガツンとざまぁをしたいなら、追放とか悪役貴族とかの一見逆境すぐ逆転てな展開も仕込めますよ!」

「い、いや、そんなに激しそうなのはちょっと」

「じゃあスローライフ系とかがいいですか?」

「あ、そんな感じで。あと、ハーレムも別に……何ていうか、ただ一人素敵な女性に出会えてお互いに大切にし合えれば、僕はそれでいいかな、って……」


 ちょっと照れくさいな。目線を外した瞬間に「けっ」と小さく聞こえた気がしたけど、彼女はにこやかに相槌を打った。


「いいじゃないですか! 素敵ですよ」

「ありがとうございます。だから、あんまりしんどいことが起きなくて、皆と和やかに、楽しくてやりがいのある仕事とかしながら支え合って生きてくみたいな、そんな世界があったら……」

「うんうん、いいですね。そうしましたら、地方領主で内政に励む感じですかね」

「はい、お願いします」


 何だか話がとんとんと進む。そうか、転生先ってこんな風に決まるんだ。少しわくわくしてきた。


「ところで、得意分野とか専門知識とかはお持ちですか?」

「えっ?」

「内政系なら、現世知識があるとかなり攻略が楽ですよ。ある意味チートですし」

「そういうもんなの!?」


 けっこうきめ細かく調整するんだなあ。でも、僕にはこれといって誇れるような専門知識はない。首を左右に振ると、今度は特技を聞かれた。それも取り立ててない。運動神経も鈍いし、芸術系のセンスもないし。手先も別に器用でも――あ。


「あの、どっちかというとつまんない特技かもしれませんが」

「どーぞどーぞ、もう何でもいいですよ」

「足だけでリモコンを操作できます。TVとかエアコンとかの区別もでき――」

「本当につまんないですね!!」

「ごめんなさい!」


 急に大きな声を出され、思わず背筋が伸びる。


「あ、すみません、つい。えー、そういうスキルを持ち越せなくはないと思いますけど……発揮できないと思いますよ? 異世界にはリモコンないので」

「! ……盲点でした。じゃあ、レトルトを開けるとききれいに切り取れるとか」

「レトルトも、ないと思います」


 何だかゴミを見るような目つきで即答された。


「そ、そうですか。他には……そうだ、500ミリリットルのお湯を計量カップなしに目分量だけで正確に測れます!」

「正確に? それは少し珍しいですね。お湯限定ですか?」

「はい、ラーメンを茹でるときにいつも鍋のこの辺、って自然に覚えちゃって」


 せっかく和らいだ彼女の眼光がまた極寒になった。


「……それは、お鍋を変えたら意味ないんじゃ?」

「ああっそうか! あの、鍋も一緒に転生するわけには」

「……赤ちゃんで生まれるところからやり直しですから、鍋持ってったらお母さんのお腹の中が大惨事になりますよ」

「ですよね……」


 僕は、がっくりと肩を落とした。


「すみません、何の取り柄もなくて……。こんなだから冴えない人生になるんですよね。その上都合のいい異世界に転生しようだなんて、身の程知らず過ぎますよね……」


 手の中の、甘酒が入っていたカップを見つめる。すっかり空になって器も冷えてしまっている。その視界がちょっと滲んできた。


「落ち込まないでください! あたしに任せてって言ったでしょう」


 彼女は僕の手からカップを取り、三杯目の甘酒を注いだ。変わらない熱さと漂う香りに何だか救われる。さすがにお酒成分が効いてきたのか、飲み干すと体がぽかぽかふわっとしてきた。

 彼女がずいと身を乗り出す。


「実はですね、女神から確実にチートスキルをもらえる方法があるんです」

に?」

「ええ。もしも刈り取った魂が何かの理由で欠けている場合、そのまま転生させるのは危ないんです。そこで女神が魂を補強するために特別にスキルを埋め込むんですけど、それが転生先ではチートとして発現するわけです」

「なにそれすごい」

「だから、あえてを作っちゃえば……ね?」

「ど……どうやって?」

「簡単です」


 彼女は、額がくっつきそうなくらい顔を寄せて僕を覗き込むと、フフッと笑った。赤い瞳がすっと縦に細くなる。


「あなたの魂を、あたしがひと口かじってあげます」

「か、か、かじる……?」


 意味がわからなくて繰り返すと、彼女はうっとりと微笑んで頬を撫ぜてきた。いつの間にか手もしっかりと掴まれてて動けない。


「あたし、悪魔なんです」


 彼女が大げさな帽子を取り払うと、黒くねじれて禍々しい角が露わになった。


「だから、魂を食べれます」

「あ、あ……!?」


 悪魔って、死神のアシスタントをするんだっけ!?


「大丈夫、全部食べるわけじゃありません。ほんのひと口です」


 すごく恐ろしいことを言われてると思うんだけど、なんだか頭がぼんやりする。視界もはっきりしなくて、彼女の声だけが木霊みたいに鳴り響いてる。ひょっとして、甘酒のせい?


「あたしがかじってあげればお兄さんはチートで大活躍できるし、そうやって転生したい人間からひと口ずつもらえばあたしも結構お腹がふくれるし、お互いお得ですよね!」


 そんなもんなのかな……?


「これってWIN-WINて言うんですよね。良いビジネスだと思いません?」


 ……そうなのかもしれない。現世がここで終了しても、転生先での幸せが確約されるんなら、たぶんいい取り引きだ。

 ぼんやりとうなずくと、彼女は隣に来て肩に手を回した。


「じゃあ、いっちょ転生しちゃいます?」

「はい」


 すると彼女は小さなリモコンを取り出した。道の向こうに向かってピッとスイッチを押すと、キュルルルと車のエンジンがかかる音がした。

 パッとライトが点いて僕たちを照らし、同時にヴォンヴォンとすごい爆音が響き渡る。


「やっぱりトラックなんだ……?」

「だからぁ、死神の鎌デスサイスですってば」


 彼女がのんびりと答える。どう見ても車っぽいけどなあ。しかもお化けみたいにタイヤがどでかい。あ、でも荷台がない。


「どっちかというとトラクターには似てますね」


 草刈り機トラクター


「あれは冥界仕様で時速240kmまで出ます。人間には見えないけど刃がバンパーに付いてるんで、そのスピードで一息にガスッ!! とヤるんです」

「ふへえ」


 彼女は、のろのろと答える僕を立たせると道の真ん中へ連れて行った。徐々に加速しながら死神の鎌デスサイスとやらが近づいてくる。運転席には誰も乗ってない。あ、そうか。彼女がリモコンで動かしてるのか。

 そして、彼女は背中からコウモリみたいな翼を生やすと僕を置いて軽く飛び上がった。巻き込まれないためなのか、と気づいた瞬間、僕は正気に返った。何が起きようとしているのか理解し、恐慌に襲われる。


「まっ、ま、ままま待って? 待って! やめて!!」

「えー? 聞こえませーん」

「転生はナシ! 百歩譲って轢かれるのは嫌だ!」

「だーいじょうぶ! 痛いのは一瞬です! すぐに気持ちよくなりますからね!」


 哀願も虚しく、僕は迫りくる爆音とまばゆい光に包まれた。次の瞬間強い衝撃を受け、あろうことか体からスポンと魂が弾き出された。勢いよく放り上げられた僕はすぐに彼女――悪魔に捕まえられた。


「うふふ。お兄さん、なかなかいい魂してますねえ。虫もついてなくって真っさら! ス・テ・キ」


 僕の魂は丸い風船みたいな姿で、まだ体と紐で繋がってた。悪魔は僕を胸元に抱え込むと、とろけそうな表情で熱い息を吹きかけた。


「いっただきま~すぅ」


 ひと口にしては大きく大きく、顔よりも大きく開けた口が視界いっぱいに広がる。

 痛いのは一瞬、と身(?)構えたその時。


「くぉら! このバカ何してやがる!!」


 怒号とともに、悪魔の口が急に遠ざかった。


「フギャッ!?」


 見ると、作業着にゴム長靴を履いてタオルを首に引っ掛けたガタイのいいおじさん?が、僕たちと同じように中空に立ち、悪魔の尻尾を鷲掴みにして吊り下げようとしていた。

 悪魔は、しゅるんと口のサイズを元に戻すとおじさんを見上げて気まずそうに愛想笑いした。


「あ……へへ、旦那様、お早いお帰りで」

「なーにがお早いお帰りで、だ! バイトの分際でおれの商売道具に触るんじゃねえ!」


 悪魔がジタバタともがきながら何か言おうとしたが、おじさんが「お前クビ」と言い放つと瞬時に黒い霧となって消えてしまった。


「まったく、おちおち新年会にも出てられねえぜ。……おうあんた、迷惑かけたな」


 おじさんは、軽くぼやくと今度は僕に向き直った。よく日焼けしたような浅黒い肌で、目と歯の白さが際立つ。顔は意外と同年代のようにも見え、とにかく健康的でエネルギッシュな印象だ。


「あの、ひょっとしてあなたが、死神さん……ですか?」

「おうよ」


 死神は、おざなりに答えると僕の頭?に手を置いて真顔でのぞき込んできた。彼の目がギラッと光ると、悪魔とのやり取りを全部見透かされたような気がした。


「……ふん。あの野郎、おれの仕事ぶりを見ててくだらんことを思いついたようだな」


 どうやら事情を把握したらしく、不快そうにつぶやいて僕を開放した。そのあと、悪魔の話はデタラメばっかりだから鵜呑みにするなと叱られてしまった。デタラメと言っても、冥界で転生する魂を選り分けるのも、その魂に欠けが生じることも一応本当らしいけど、正しくは魂に悪い虫――邪気が取り憑いてるのを除いた跡が虫食い穴のようになるということだった。


「邪気が巣食ってる魂を転生させちゃあ異世界に迷惑がかかるし、そもそも天界に入れねえからな」

「はあ、そういうもんですか……」


 僕がよっぽどがっかりした顔?をしてたのか、死神は舌打ちして人差し指を突きつけた。


「そもそも悪魔が『ちょっとひと口』なんて言うときゃな、騙して丸々いただく気満々なんだからな?」

「ええ? 転生の約束は?」

「こいつでごまかすつもりだったんだろ」


 そう言うと死神は地上から『転生相談』の紙灯籠を引き寄せた。いつの間にかトラクターデスサイスも背後に浮かんでいる。

 死神が紙灯籠に明かりを点すと外周に張られている紙がぎこちなく回りだし、影絵のアニメが映った。赤ちゃんがよちよち歩きしてると思ったらたちまち育って勇者っぽくなり、ドラゴンと戦ってる。


「走馬燈に細工して、偽の転生人生を映し出してるんだ」


 彼がふっと息を吹きかけると、『転生相談』の文字が剥がれて毛虫になって落ちていった。明かりも消えて回転が静かに止まる。


「あんたがこいつに見入って幸せ気分を満喫してるうちに、ぱっくり丸呑みしちまおうって算段さ」


 すぐに気持ちよくなるってそういうことか。


「……あの、僕これからどうなるんでしょう」

「おう、心配すんな。死神おれのリストには載ってねえから、すぐ生き返らせてやんよ」

「本当ですか!?」

「ああ、今体を引き上げてや……」

「……」

 

 僕たちはともに地上を見下ろした。時速240kmで轢かれた僕の体は、……何というか、思い切り踏み潰したしるこ缶みたいになってた。未開封のはずなのに中身が飛び散ってる、的な。

 事故に気づいた人たちが周りに駆け寄って騒ぎ始めてる。


「ちっと派手にやってくれやがったな……」


 死神がため息をつく。でもすぐに慌ててフォローした。


「おおっと、そんな顔すんな! 大丈夫だ、これがある」


 彼はどこからか取り出した真っ赤な紙袋をごそごそと探った。白い極太の文字で『福袋』と書いてある。そこから出てきたのは、一本の砂時計だった。


「今日は馴染みの店に顔を出しといて良かったぜ。これは運命の女神三姉妹の手作り品でな、こいつであんたが死ぬ前まで時間を戻してやる」

「そんなことできるんですか!?」

「まあ所詮は福袋だから一時間だけの使い捨てでおもちゃみたいなもんだが、十分だろう」


 確かに、脇道に引っ張り込まれてからそこまで時間が経ってない。


「いいか、ここの前まで来たらあんたは脇に逸れずに通りを真っ直ぐ帰る。立ち止まるんじゃねえぞ」

「わ、わかりました」

「しょぼくれて歩くなよ。そんなだとまたろくでもないもんに捕まるからな」

「はい!」


 僕の返事に死神はうなずき、砂時計をかざした。そしておもむろにひっくり返す。落ちていく砂粒に目が引き寄せられ、しばらく見つめていると――




 急に背中をどつかれて僕はよろけた。オフィスから駅までの繁華街は、夜の九時を回っても初詣や初売りや新年会に出向く人帰る人でごった返している。


 あーあ、新年からツイてない。


 仕事始めだってのにいきなり残業なんて。明るく楽しげな人々の中を無理やりすり抜けていくのは、心身ともに削られる。


 アラサーも後半に入ったのに、まるでパッとしない暮らし。友達も彼女もいないし、趣味もない。会社にはいいようにこき使われる。ときどき転職を考えるけど踏ん切りがつかない。ずっとぼっちのまんま先細っていくだけなんじゃないかと思うと、さすがに辛くなる。


 人混みにまたリュックがつっかえた。いっそ遠回りでも脇道に入ったほうがマシかな。ちらりとそちらの暗がりに目をやる。


 ……いや、さっさと帰ってラーメンでも作ろう。


 僕はこのまま人波をかき分けて進むことにした。そうだ、抗え。しょぼくれて歩くのはもうやめよう。人生を悲観するにはまだ早い。もっと志を高く持たなきゃ。ラーメン用のお湯500ミリリットルを測れるとか、そんな小さなことで満足してちゃだめだ。大器晩成とも言うし、器を大きくしてかなきゃ。


 僕は、照明にけぶる夜空を見上げた。


 これからは、パスタを茹でる1リットルも測れるようになろう。


 そう心に誓うと、清々しい気持ちで一歩を踏み出した。

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