第5話 沈む太陽、昇る太陽

 女真じょしん討伐が無惨な結果となった責めを負って、総司令官の楊鎬ようこうは投獄され、10年後の1629年、みん崇禎すうてい2年に処刑された。


 討伐軍の四将のうち、唯一生き残った馬林ばりんは本拠地の開原かいげんに帰還するも、同年のうちに金国アイシン・グルン軍との攻防戦において戦死を遂げる。


 みん軍に対して大勝利を収めたヌルハチは、それ以降より積極的に打って出るよう方針を改めた。

 サルフの戦い以前は、あくまでも金国アイシン・グルンの独立を守るためにみんを叩く、という姿勢だったのが、みん軍のもろさ、そしてそれ以上に、諸将の足並みの揃わなさと足の引っ張り合いをの当たりにして、さらなる勢力拡大を目論んだのだ。


 それに、みん国内に送り込んだ間諜や、両国間で商いを行う商人たちから聞き及んだ話では、みん王朝の腐敗は目を覆わんばかりだという。


 サルフの戦い当時のみんの皇帝は第十四代・神宗しんそう。当時の元号から万暦帝ばんれきていとも呼ばれる。

 即位当初は英明さの片鱗を見せていたのだが、守り役である宰相・ちょう居正きょせいが亡くなると、たちまち堕落。

 科挙かきょ官僚と宦官かんがんの党争を野放しにし、東西南北の外患がいかんに対しても有効な手を打てず、官吏の給金をケチって欠員が出ても放置する一方で、自身や後宮の贅沢には歯止めが利かないと、まさに悪政・暴政のオンパレード。

 挙句の果てには、後宮にこもりきりになって朝政ちょうせいの場に二十年も顔を出さなかったという。


「これでは明朝みんちょうも長くはないな」


 朝鮮人蔘ちょうせんにんじんを商う商人から話を聞いて、ヌルハチは思わず呟いた。


 とはいえ、さすがのヌルハチも、みんを滅ぼして自分たちが取って代わるというところまで考えていたわけではない。

 そのような考えをいだくには、中原ちゅうげんの地はあまりにも遠く広かった。


 万暦帝ばんれきていはサルフの戦いの翌年に亡くなり、その息子の光宗こうそう泰昌帝たいしょうてい)が立てられるも、即位後すぐに毒殺され、その息子の熹宗きそう天啓帝てんけいてい)が立てられることとなる。


 天啓帝てんけいていの治世、宦官の魏忠賢ぎちゅうけんという人物が権力をほしいままにした。

 魏忠賢ぎちゅうけんの悪政のもと、国内では反乱が頻発し、金国アイシン・グルンもさらに勢力を伸ばしていったが、これらの討伐に失敗しても、魏忠賢ぎちゅうけんに賄賂を贈れば不問に付されるということで、みんの屋台骨はますますぼろぼろになっていった。



 朝鮮軍を指揮し、金国アイシン・グルンに降伏した姜弘立カン・ホンリプは、捕虜たちが本国へ返される中、金国アイシン・グルンに留め置かれたが、その待遇は決して悪いものではなく、本国の光海君クァンヘグンと連絡を取りながら、朝鮮がみん金国アイシン・グルンとの間で中立を維持することに貢献した。


 しかし、朝鮮宮廷では、北方の蛮族と蔑んでいた金国アイシン・グルンに頭を下げることをよしとしない者も多く、宮廷内の勢力争いとも絡み合って、1623年、光海君クァンヘグンは廃位の憂き目にあう。


 光海君クァンヘグンは、李氏朝鮮りしちょうせん第十代の燕山君ヨンサングンと並んで、悪政の末に廃された暴君とされている。

 しかしながら、正真正銘の暴君であった燕山君ヨンサングンとは違い、金国アイシン・グルンへの対応一つ取っても、冷静で現実的な政治家であった。


 実兄や幼い異母弟の暗殺、反対派の粛清などの瑕疵かしはあるが、それもそれぞれを担ぐ党派の争いの帰結であり、光海君クァンヘグン自身が積極的に主導したのかも疑わしい。側室の子な上に次男でもある彼は、そういった面でも立場が弱かった。

 党派の争いを御しきれなかったことが暗愚のあかしだと言われてしまえば、それまでではあるのだが――。



 サルフの後も、ヌルハチは遼東りょうとうの地でみん軍に対して勝利を重ねた。

 万里の長城を越えてその向こうにまで攻め込むことを視野に入れたヌルハチであったが、そんな彼の前に立ちはだかった男がいた。

 袁崇煥えんすうかんあざな元素げんそ。三国志の諸葛しょかつ孔明こうめいの再来と謳われた名将である。


 元々は科挙かきょにも合格した文官であったが、軍事に強い関心を持ち、遼東りょうとう経略けいりゃく孫承宗そんしょうそうもと、万里の長城の東の端、山海関さんがいかんの守りに就いていた。


 孫承宗そんしょうそうという人物も、戦略眼を持った良将であり、山海関さんがいかんの外郭として寧遠城ねいえんじょう(現在の興城市こうじょうし)を築き、また、現地の人々をつのって屯田兵とし、士気の高い部隊を作り上げた。


 しかし孫承宗そんしょうそう奸臣かんしんの妬みを買って更迭され、後釜となった宦官かんがん高第こうだいという人物は、無能で腰抜けだった。

 寧遠城ねいえんじょうを放棄して山海関さんがいかんの内側への撤退を主張する高第こうだいそむき、袁崇煥えんすうかんはわずか1万の兵を率いて金国アイシン・グルンと対峙する。


「これが紅夷こうい(ここではポルトガルを指す)の大砲ですか」


 黒光りする大砲を前に、崇煥すうかんの腹心である祖大寿そたいじゅが感嘆の声を漏らす。

 ポルトガルから購入した大砲11門。これが袁崇煥えんすうかんの切り札である。


「しかし、よろしかったのですか? こう経略けいりゃくの許しも無く購入なさって」


 高第こうだいが許可を出すわけはないとわかってはいても、一応伺いを立てる大寿たいじゅに対し、崇煥すうかんは涼しい顔でこう言った。


復宇ふくう祖大寿そたいじゅあざな)、勝てば官軍、という言葉を知っているか?」


 紅夷砲こういほう袁崇煥えんすうかんが期待した通りの威力を発揮し、ヌルハチは寧遠城ねいえんじょうを攻めあぐねた。

 ヌルハチはえん金国アイシン・グルンへの帰順を持ち掛けるも、彼はこれを拒み、徹底抗戦を続ける。

 ついに、ヌルハチ自身も砲弾の炸裂による破片を背中に受けて負傷し、撤退を余儀なくされた。


 この時の傷が元で、ヌルハチは8ヶ月後に没する。

 天命てんめい11年(1626年)旧暦8月11日。享年68歳。


 後継者選びは難航したが、群臣への根回しの甲斐もあって、金国アイシン・グルンの第二代ハンの座にはホンタイジがいた。


 群臣たちの間からは、再び寧遠城ねいえんじょうを攻めてヌルハチの仇を討つべしとの声が上がっていたが、ホンタイジは明言を避けた。

 朝議ちょうぎを終え、一人きりになって、ホンタイジは呟く。


袁元素えんげんそは比類なき名将だ。父上も恨んではおられまい。されど……生まれてくる国を間違えたな」


 ホンタイジはみん国内に放った間諜を通じて、みんの朝廷に噂を流した。

 袁崇煥えんすうかん女真じょしんに内通していると。


 時のみん皇帝は、第十七代・崇禎帝すうていてい天啓帝てんけいていの弟である彼は、大明だいみんの威光を取り戻そうという熱意に溢れていたが、言葉を飾らずに言えば、彼はいわゆる「無能な働き者」であった。


 権勢をほしいままにしてきた魏忠賢ぎちゅうけんを誅したのは良かったが、崇禎帝すうていてい自身に佞臣ねいしんと忠臣を見分けられる目があるわけではなく、生来猜疑心が深いこともあって、重臣たちを手当たり次第に粛清していった。

 そして、ホンタイジが流した離間策りかんさくにまんまと乗せられ、袁崇煥えんすうかんを北京に召喚して処刑してしまう。


 みんは自らの手で、自身にとどめを刺した。


 しかし、もし仮に、崇禎帝すうていてい袁崇煥えんすうかんに全幅の信頼を寄せ、金国アイシン・グルンとの戦いに全力を発揮させていたとしても、サルフより発した歴史の流れを押しとどめることは困難であったろう。

 流れはやがて怒涛となり、ついには中国全土を飲み込んでいくこととなる――。



――Fin.


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余談ながら……。

この戦いは、田中芳樹先生の『銀河英雄伝説』の冒頭を飾るアスターテ会戦の元ネタの一つとも言われており、たしかに各個撃破のあざやかさは、ラインハルトも一目置くレベルでしょう。

金髪の孺子こぞうならぬ辮髪べんぱつの親父ですが(笑)。


なお、youtubeに上がっているこちらの動画が大変わかりやすいかと思いますのでご参考までに。

「サルフの戦い ヌルハチ、明の大軍を撃破!」

(ttps://www.youtube.com/watch?v=qABDvppXIno)

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遼東の空に鷹は舞う~サルフの戦い顛末記~ 平井敦史 @Hirai_Atsushi

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